芸術性理論研究室:
 
font face
細明朝体
太明朝体
ゴシック
text navi
contents
目次
up
進む
down
戻る
window

レポートに関する御質問、御意見等は上記よりメールにてお問い合わせ下さい。

all texts written by : ayanori
【高岡 礼典】

【研究レポート目次: Report Contents RSS
以下のレポート群が本研究室の[本文]となります
個々のレポートを開きますと左側のナビゲーションが"使用可能"になります。『研究レポート目次』内の移動はこのナビゲーションで行います
初めて閲覧される方はメニューバー内にある『序文_誘因』からお読み頂ければ幸いです

なお任意の一般教養を前提にしていますので逐語的に参考文献、注釈等を明記していない場合がございます。ご了承下さい。

02509.24.2009_New Report
懐胎と分娩 4 2009
それは一回の緒である。「一人」と『独り』を未獲得のまま、固有の位置価を与えられず、「どこか」に浮遊・滞留する胎児は、性分化の手前で価値を概念化できず、慈悲なく残酷なまでに、懐胎者の生理によって設えられた胞衣を破り捨てなければならない。胎児が子として腹部中央に傷を受ける分娩は、物理的な半了解による傷付け合いであり、増殖的分化を自/他化する手続きと階梯の始まりである。そのため破裂の蠢きを ... >>続きを読む

024Cool
肌を切り裂く 2008
ひずんだ世界への眼差しに映る等質の構図自体には、画面を分割する理由も、要素を剔出し構成する理由もなく、ただの理解なき光でしかない。形ある色、色ある形、それらは確かに映像を組み立てる要素ではあるが、眼球運動を妨げる因にはならず、視線は自由に滑空を継続していく。四等分した球体に二等分した円錐を埋め込んだパースペクティブは、瞳孔によるフォーカスと邂逅するオブジェクト群によって打ち破られ、視覚環境の境界は前理論のまま現場従属となる。一時を遠くへと ... >>続きを読む

023
懐胎と分娩 3 2008
もしもそれが叶うのならば、ひとときをとこしえへと、またたきを畏れへと変え、相愛を単一化する愛の禁忌へと臨むかもしれない。胞衣を脱ぎ捨てることなく、切り裂き剥ぎ取ることもなく、懐胎者は超越する流動に抗い、『自己相愛の脱自』へと嬰児を止住隠蔽し、張り詰めた腹部表面に平衡記述を試みるかもしれない。ふたえの拍動にひとえの世界を羽織らせ、苦に満充を与え、懐胎から免れ ... >>続きを読む

022
懐胎と分娩 2 2008
それ故に我々は、この「内外の同一体」を吟味しなおし、有意味な産出系として再構成しなければならないかのように見える。胎感と孕む母の手の平によって心的構成された肌は、系の並列ではなく複合系であるため、単線形を描いていくテクスト構造には対応しにくいためである。しかし、この計画に迷いがないわけではない。「内外の同一体」をそのまま残した二重の論鋒の先で邂逅する嬰児と、単純化された道程の末尾で待つ嫡子とでは ... >>続きを読む

021
懐胎と分娩 2008
自動詞・他動詞の区別なく、出産場面は規制・拘束からの解放として描かれる。本来、子の出生を意味する「免」は、女性の臀部から「人」が出てくる様の図案化であり、「娩」はより厳密に強調表現した文字である。古来より漢字文化に潜在してきた劣位への出産解釈は主意主義者にとっては首肯しやすく、ドイツの倫理学者の言葉をいくつか思い浮かべるかもしれない。孕む者にとっても、生れ出る者にとっても、受精契機は第三者を必要項とし、妊娠期全体は相互に自由を奪い合う。正しくは、母と子が略奪の系に隷従する。母は ... >>続きを読む

020
オルガスム 2007
未去勢の雌猫は、定期性がありつつも、理なく頻繁に発情の相を見せる。介在する者が綿棒等を用いて処理を施すと、絶叫とともに飛び出ていき、しばらく無言で激しく悶え続ける。左右へ身をくねらせながら、かきむしるように後ろ足でシーツを蹴り続ける姿は、彼女の性的絶頂を誤読するには十分すぎる反応である。それが快楽であるのか、苦痛であるのかは分からないにしろ、オルガスムは人ではない動物種にもみられることを教えられる場面のひとつである。当然それは性分化を果たした動物種に限定される知的現象かもしれないが、オルガスムほどあらゆる原理記述を斥ける特殊な感覚はないように思える。いま ... >>続きを読む

019
肌と肌理 2007
指先に塗料や接着剤等が付着・硬化していると、それまで滑らかだった対象表面が突然に変質してしまったかのように知覚する。研磨された貴金属も、上質なアート紙も、指先に対し整序された肌理の与件を見せなくなり、無害であった完全性が破綻する。当然、認識のコードは有機的に恒常性を維持するように働くので、一部の美術家やモデラー、研磨作業を本分とするようなカット職人達ならば、認識コードを再編成するか、付着物と指先を対応付ける新しいコードを別個にもうひとつ用意・挿入する等の策に成功し ... >>続きを読む

018
相愛 2007
その成分の約0.6%を塩化ナトリウムが占めるため、人の汗は塩辛く感じる。また抗菌として働いている乳酸菌の一種であるデーデルライン桿菌は精子を殺傷してしまうので、性交の際にはバルトリン腺液やスキーン腺液によって押し出され、中和作用が未完了の場合、女性器からの性液である膣分泌液は酸味を感じる。もしもそれらが無味のものであったならば、我々は舌による愛撫に『他我』を見出せず、触覚構成による他者から懐疑可能性を払拭できずに、相愛現象の大部分をも失ってしまうことになるだろう。それはやがて ... >>続きを読む

017
定着と剥離 2007,2006
天を仰ぎ見て、彼方へと手を伸ばしてみる。地へ視線を落とし、足を踏み締め、大地の感触を確かめてみる。一瞬たりとて把捉場面がないために前者が無限を示すのに対して、後者は部分的であろうとも、手に取り抱擁することができる有限である。焦点は決して留まることなく彷徨い続け、肢体は必ず他者に自己を含意させ、脱文脈的で非情報的な没動因与件を創発する。構造的な限界設定は視覚ではなく触覚を司る器官によって決定される。そこで再度、天地様相を確認してみると、無限に延びていく天に対し、垂直軸上に ... >>続きを読む

016Cool
可塑性について 2006
数枚のドミノを任意の間隔で並べてみる。並んでいる方向へむけて端にある一枚に力を加えれば、一枚目が二枚目を、二枚目が三枚目を押し、力の伝達によりドミノは難なく倒れていくことだろう。これが何百、何千枚となり、複雑なコーナーや段差のある構成になると、力の伝わり方が非均一化してしまい、どんなに美しく並べても最後の一枚まで倒しきることは難しい技になる。そしてドミノ倒しに途中で失敗した場面に遭遇すると多くの方々は「倒れなかった」形式事実のみに着目し、その原因は何だったのだろうかと頭を悩まし、より良い「結果を導くための原因」を探り出すことに苦心する。しかしドミノという遊戯が教えてくれる概念はそれだけではない。例えばドミノを三枚並べ倒し、側面からそれを観察してみれば、作用・干渉は他者の結果を制作するだけのものではないことが見て取れる。自己の能作によって ... >>続きを読む

015Cool
視点の単一性について 2006
数えきれないほどのレンズが集合する複眼をもつ昆虫達はそのひとつひとつに独自の環境映像を写し、類似した風景画が千も万もレイアウトされた展覧会の真中に立ちすくむような認識世界に生きているのだろうか。単位が複眼でなくとも複数の単眼をもつ生物、たとえばハエトリグモのような節足動物は八つ(六つ)の映像与件からそれぞれ別個の判断を導出し、それらを何ら統合することなく行為規範にして獲物へと飛び掛かっているのだろうか。この問は ... >>続きを読む

014
有生的無性について 2006
システムと構造が連鎖・連動すると安易に主張できるような楽観的なアルチザンには「考えが自動的に(*)」浮かび、書き考える、考え書くなどと言えたり、また思考段階が介在しないような「読み」と『理解』の同義的主張ができるのかもしれないが、思惟空間の先行的とも思える有効性を知ってしまった我々にはそれがファンタジーに聞こえてしまう。秋毫のズレもなく密に過不足ない対応関係を等価していくことができるのならば、考察といった論理的段階や苦悩といった停滞がなくなるだけではなく、様々な種差の喪失によって統合原理の全てを不必要とした混沌が前景に位置するような前社会形式が用意されていたことだろう。コミュニケーションや表現は ... >>続きを読む

013
関係等価性について 2006
賤劣な嫉妬は他者の自由を許容することができず、支配統合の原理概念を産み出すことに辛苦、画策する。無能な似非者は不安や恐怖を払拭する学才がないために自己の虚構を有能なものから奪取する。その略奪を擬似的にも可能なものとするために社会は自己遂行的なシンメトリズムをいつからかイデオロギー化することに成功した。虚偽の開示、適合の形骸によって幻想を超えた虚飾が、それが虚飾であるがために個の本性を尊重することなく暴力的かつ不可避の重圧を加える(*)。対称化されたそれらに対して訂正や却下などあるわけがなく、無意味なメディアが心化され、本来的な『心』は無辺のどこかへ忘却させられることになった。哲学的 ... >>続きを読む

012
自己平衡について_幸福とはなにか 2006,2005
我々は行為から不可避の存在であるがために、そして行為理由がなければ許されない社会形式に組込まれているがために目的-動因説による自己説明の論拠を万人が持たなければならないように不文律の強圧を受けている。目的-動因説は「目的達成」といった分節があるために人の日常的・本質的な生の連続性をうまく記述することができず、往々にして矛盾を産み出す。生の連続性がもつ本来的な優位性によって、その差異を充足即虚無として ... >>続きを読む

011
無根拠性について 2005
文学から学問へと至るまで今も色濃く纏綿し続けるキリスト教思想を理解するために新共同訳聖書を開いてみたはものの、その前評判とは裏腹の空虚な内容に落胆された方は多いことと思う。「人や宇宙の真理」などといった空想めいたものから現代生活においてもなお有効な徳を得ようとしても聖書にそのようなものを期待することは行為的カテゴリーミステイクであり、かつてアウグスティヌスが嘆き唾棄したように無為な読書に時間を費やすばかりである。 ... >>続きを読む

010
構成素の集合間における関係性について 2005
社会的位階秩序は古来より様々に批判され、多くの国家において投打され代換として民主主義を原理とした「自由」の体系を措定したと一般的にいわれる。果たして我々は自由が妥当する全抱括的社会を獲得したのだろうか。また、それは人類にとって運営可能かつ普遍的有効な概念装置といえるのだろうか。 ... >>続きを読む

009
形式と内容について_死の記述不可能性 2005
死を想う時、我々は不安(予測不可能性・ハザード)と恐怖(形式的絶対性・リスク)の前に怯え、無力を感じる。死は誰もが最後に経験する普遍現象として我々を不動のごとく待ち伏せる。死は最大のインパクトを与えるがために、古来より大衆を統合する原理・テーマとして、今もその有用性をもち得ている。しかし心的システム論において死は言及不可能な捨象項である。以下に留意してほしいのはシステムがアポトーシス的な自死機能をもち得ないことを主張しているわけではなく、死による内容的構成を不可能といっているに過ぎない点である。我々の自由意志は ... >>続きを読む

008
肯定系と否定系 2005,2004
遍在する構成要素を統合し社会という系を形作ることが第一目的であった未開社会において価値規範の発生原理は事実超越型であった。共通了解的な概念の拡充なきまま本来的に多様な可能性を所有した自然的人間を肯定することは「結束された社会」へとオリエンテートできないためである。そこでは徹底して人間を否定しなければならない。非境界的な自然状態に浸透した未定義、未規定な多数者へ王や神的概念といったエントロピー(*)を投入することによって種差を産み出し社会システム固有のダイナミズムを獲得編成するにいたった。接近しようにも接近できない不可侵なる永遠の ... >>続きを読む

007Cool
複雑性の拡大について 2005,2003
システムは無限であり、かつ無限ではない。システムは有限ではなく、かつ無限ではない。
システムはパラドクスやトートロジーを用いた否定神学以降の神秘神学的にしか記述できない。システム論は往々にしてシステムを前提化した論点先取で彩られている。なぜなら自己意識にとってシステムとは無媒介な環境であるからである。自己概念である形式/内容は構成素域に属するものであり、それがシステムへ干渉しては記憶的な保存現象の説明が不可能になってしまうであろう。仮にそれを否定すると、現段階の素因が ... >>続きを読む

006
信仰と前提 2005,2003
距離感の無効化を実現するほどのコミュニケーションツールも科学という演繹的絶対者も不在であった西洋中世において、その社会システムの免疫機能の担体は絶対的超越者である『神』的概念に委任せざるをえなかった。地平なき領域において初めて地平を確立する場合、それは無根拠な暴力によるものである。初めから根拠があるのならば地平を引く必要もない。しかし11世紀末カンタベリーのアンセルムスが『プロスロギオン』によりそこへ論理的暴力を加えることによって神学はスコラへと開化した。それはそれまでの暴力を批判可能な対象へと変貌させることであった。つまりアンセルムスは皮肉にもキリスト教を瓦解へと向かわせるエントロピーを創造した嚆矢であった。 ... >>続きを読む

005
自己定義の定義 2005,2003
我々が命題の言明を可能とする普遍原理とは我々が不完全な縮減された個的存在(*)、非全知的存在だからである。完全なる超越者による命題が仮に提示されたとしても我々はそれを認知不可能とする。超越者による命題は完全な命題であり、有限の命題は無限の命題に包摂され、不完全な命題のみを述定することはできない。それは完全性の定義に矛盾することである。完全命題を認知する可能性は我々にとってあり得ない。これを偽と判断することは我々が個的存在性を有し他者、非自我と対峙、関係化される事実に反することである。超越者と我々の間には ... >>続きを読む

004
愛と恋 2005,2003
愛と恋とは論理プロセスの最終項として質的飛躍を架橋する把捉しがたい関係化現象とされる。しかしここでは愛をシステム(ファースト・オーダー)に内属したシステム/構成素間を飛躍する機能として、恋を構成素/構造間を飛躍するシステムにとっての付帯的な属性であるアプリケーションとして論述する。
愛とは対象を絶対唯一と描写することによって自己と永劫の関係化を構築するシステムが内属し、自己完結した本有的機能の一つである。それは ... >>続きを読む

003
自立と自律 2005,2002
社会システムとは複合的複雑系と称される閉鎖的自律システム(*)である。システムの構成素はコミュニケーションであり人間は社会システムの外部、つまりその環境に存在する(**)。その為に社会という主体の所在は鵺のごとく不可視となり、未だそのコードは「見えざる手」であり共同幻想的(マルクス、吉本)にしか語られない。
支配者は奴隷の欲望を満たすよう、奴隷は支配者の欲望を満たすようプログラムというコードによって自己完結的に相互関係を構築する。自己の存在容認は ... >>続きを読む

002
心的システムとはなにか 2005,2003
本研究室において論及考察される「システム」とはおもに心的システムを意味している。そこで準備過程としてシステムについての初歩的確認から始めたいと思う。
一般的にシステムとは複数の要素が組織化され、観察者によって何らかの機能が第二次記述されえた場合、その構造体を指し示すものとして定義される。これはシステム/構造の区別を不要とする科学者などの対応主義者による定義文であり、システムの語源であるギリシャ語の『シュステーマ』を準拠としている。シュステーマとは合成されたもの、集められたものを意味する。機能を観察される複合同一体をシステムと呼ぶのならば機械も生命も共に同一同等体として包括されてしまい、叙述の可塑性を得ることがない。そこでシステムという類概念に種差を包摂しやすいように ... >>続きを読む

001
超越不可能性について 2005,2004-2003
芸術家が切実な想いを伝えるために命懸けで作品を制作し発表しようとオーディエンスはその表層に付帯する形体の差異に戯れアドホックなカセクシスに終始して、相互確認のプロセスもなく沸点を超えるようなムーブメントの継続化もなく『何も理解していない』『何も伝わっていない』『何の評価にもなっていない』と芸術家は不平と嘆きに苛まれる。特殊な表現者に限らず日常の生活空間で行われている言語や身振りを用いた相互作用や相互表現に纏いつく拭いきれないコミュニケーション不全感を(それが仮に成功しているかのように見えようと)我々は必ず抱き『なぜ言葉は想いを伝えられないのだろう』という疑問と虚無感に犯され慢性化している。我々はこのありふれたコピーの一掃を ... >>続きを読む