芸術性理論研究室:
 
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019
肌と肌理

指先に塗料や接着剤等が付着・硬化していると、それまで滑らかだった対象表面が突然に変質してしまったかのように知覚する。研磨された貴金属も、上質なアート紙も、指先に対し整序された肌理の与件を見せなくなり、無害であった完全性が破綻する。当然、認識のコードは有機的に恒常性を維持するように働くので、一部の美術家やモデラー、研磨作業を本分とするようなカット職人達ならば、認識コードを再編成するか、付着物と指先を対応付ける新しいコードを別個にもうひとつ用意・挿入する等の策に成功し、以前の肌理情報をいとも容易く回復することだろう。触知における相対場面を日常の我々は特視することなく必然であるかのように看過しているかもしれないが、ここには論述しがたい多くの形而上学要求場面が潜んでいる。本論考はそのシークエンスのいくつかを確認することによって、(立体)造形と自責の不文律を剔出し、理論化へと穿孔したい。

まずは手袋を装着してみよう。革製のような厚手のものがよいだろう。そのまま普段使いなれている何かに触れてみると、対象の質感が分からなくなるばかりか、対象強度までをも変更してしまう。誰もが経験するであろう日常のひとつであるが、ここで最初に留意しなければならないこととは、構成要素間における関係内容の総和である強度が変わっても、構造体の形式知としてのボリュームは、ほぼ一定のまま不変維持される点である。手袋という疑似皮膚によって、自己の硬度・力を得たとしても、自己の延長枠である直知的前提は守られている。構造的境界概念が分割する場面は、無限経験の不可能性を再度学ぶだけではなく、自己の客体化場面でもある。手袋を着けたまま対象に触れ、その肌理や温度が分からなくとも、どこからどこまでがその対象の実的な所有域であるのか知るに至る過程は触覚の含意性による自己の経験をも意味している。その具象は自己の皮膚の知的経験として表すことができる。衣服の布置の曖昧性を地(面)のなさによるものとしての説明が許されるのならば、手袋も同様に脱・拡大身体として描かれるはずである。この肌理の無理解による自己の境界経験というパラドクスは手袋と接する手の表面(皮膚)とシステムが指示する境界(皮膚)とを共に体験する二義性がある。被験者は手袋をとおして質感与件を取得するために対象表面に沿った遷移運動を試みている最中、「手袋をとおして」ではなく、自身の腕全体の運動具合から肌理内容を予見しているに過ぎない。装着している素材自体の形態変化によって指先への弾性刺激があったとしても、肌理内容の素因にすらなっていないはずである。それがどれほどに密着していようとも、指先や手の平は手袋の内側の質感を感じ続け、手袋を非身体項として拒絶する。認識は腕の動きと手袋の連動性から肌理内容を創発するが、指先の拒否によって統覚内容に矛盾を来してしまう。一般的に自己の肌とは内外の区別がないものを周辺に位置付けたものである。肌の外側を感じ記述できたとしても、構造的に自明であるはずの内側を日常の我々は描写困難としている。単一視点の営みを反照させたとしても、肌の始まりを認められる同心円などない。始まりを欠き、終わりある肌は既存するどの時間論的『永』概念にも当てはまることなく、新たな延長性のアイディアを希求している。そのため自己の肌は没単位的となり、観察対象ではなく、超構造体のひとつとして数えられる。手袋の体験によって知覚・創発するパラドクスは、この肌の超構造性を破るかのように思えるが、それでもなお肌は把持を免れ、自己の延長の末端で所在を隠蔽している。構造的な相即性があるにもかかわらず自己の皮膚は表れ出ない。ここで伝統的な対自概念は何の効力もなく、自己の裏側へとすり抜けていく。そもそもの即自点がない肌を二元論によってバインドすることなど不可能なのである。

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そこで我々はいま一度、視覚を停止させる必要があるように思える。肌を触覚へと純化し、その本来性を知るためである。一片の光もない完全なる暗闇の部屋を用意する。立つか寝るかの体勢は問わないが、一点の光源・一点のLEDすら点灯していない闇ならば、自己を相対的に位置付ける視覚定点がないために、一瞬間、見当識が揺らぐかもしれない。しかし地(面)との不即性により、即座に触覚環境構成へと臨み始め、自己の位置価は安定していくことだろう。連動性の公理によって「安定する」ではなく『安定していく』である。触知の第一性によろうとも、暗闇における自己の座標は上下左右といった方位記述が不可能なためである。この状況において、初めて触覚環境を知ることができる。手足を動かし、もがいてみる。自己の移動を許す行為可能域・テリトリーの確保・拡張である。予め可能の可能を描いたうえで行なう視覚との連鎖とは異なり、触覚のみに立脚した単一運動は原初的な環境概念を知ることができるはずである。

腕を振り上げ、もとに戻してみよう。通常なら、振り上げた先の点ともとに戻した点とを結ぶ線分は、前場面の運動によって行為可能域として確定的に定義されるかもしれないが、暗闇での同運動は何事もなかったのごとく還元していくかのようである。振り上げによる開拓行為を振り下ろす動作によって打ち消していく知の喪失・忘却のようである。しかし闇を遷移する腕を注意深く叙述してみると、それは否定ではなく、現在限定的な肯定運動であることが分かる。闇は視覚把持を奪うと同時に、触覚の観察的な自己言及性を禁止する。触覚のみに統一された運動は「動き移動している自己」を認められても、具体的にどのように手足を動かし「どこからどこへ」動いたのか、その座標記述が不可能なため、前場面の確保ができず、文脈記述が破綻しかけることになる。触覚運動という語に含まれる「運動」は通常の運動概念には当てはまらない。自己の閉鎖的なダイナミズム・疲労も、知覚する大気の肌理も、地平を切り開くことなく、自己を常に同一記述へと没風景化してしまう。振り上がっていく腕は行為可能域の拡張を意味する以前に、行為概念を現象化することなく、変わりない自己の腕という普遍の中で世界を無効化していく。闇への潜伏は『動作なき作動』を続ける自体運動を全体化してしまい、指示代名詞の対象になる環境内容の定義項を形容可能外へと追放し、自らもその被定義項を抹消していく。光を奪われた刹那にある者は視覚知による言明的なリスクを恐怖とともに訂正し、本来的な平衡へと至る。ここまでならば諸々の宗教的真理が諭してきた混沌や照明説による前創世場面と同様の帰結になるが、視覚ではなく触覚に着目・限定した世界配置は以下に異なる方向へと進んでいく。それが地(面)の不即性による自己の自発である。闇でのもがきが自己限定的な肯定ならば、闇で佇む静止は自己の否定を超えた無の向こう側への還元であるかのように思える。確かに、そこでの「動かさない手足胴体」は経路を絶たれた不在の自己項であるかのようである。一度開けた扉(可能性)の扉(ディレクトリー)を失うことのように思える。しかし自己構造の存在論を茫漠化している最中においてもなお密接性を断裂などしていないことに気付けるのならば、我々は景色なき闇の中で自己に出会っているはずである。日常の覚醒時において感覚遮断をどれほどに試みようと、触覚与件の不在だけはあり得ない。それは身体構造の背面だけにあるわけではない。以前の拙論(*)では跳躍場面を自己没化として描いたが、空中へと飛び上がりながらも、舌・口内構造を忘れない者は確かな自己との認識契機を獲得可能としている。指先以上の敏感性と繊細で自在な動き、目蓋の内側と眼球との関係内容を超える立体性を身体の内部構造として唯一構成する第一志向対象のひとつである「舌と顎」は視覚把持を免れた純触覚性だけではなく、準絶対普遍的ともいえる所有性によって、自己を自体的に区別する第一的な自己関係器官である。上顎の粘膜、歯の裏側の硬質感、それらを知覚する舌の蠕動は上顎や歯肉に知覚され、能作が受動性を含意することになる。通常志向対象として描かない上顎も自己構造という自明によって、舌の口内遷移はリカージョンを形成すると同時に多様な質感を自己相補することによって、自体的な複雑化に成功している。ここで第一者は一人称を複数化して反省可能な自己を現象する。

(*) 拙論『定着と剥離』参照。

原初的な触覚環境は超越性も超越論性もなく、ただ自己に到達するだけの循環のようである。口内における接触事故は舌の意志と上顎の認識・判断との同一源によって、単なる飛躍的な円環でしかないように思えるが、様々な種類の肌理を遷移することによって現象化した自己豊穣が延長性の直知を指示する点は重要かつ前進的である。この自己触媒的に他者言及なく環境化していく論理過程を理解するには、論述しがたい肌理の形而上学へと踏み込む必要がある。そこで次に我々はテクスチャーへと臨んでいきたい。

***

闇に潜伏したまま愛する誰かを愛撫してみる。それはきめ細やかな人の肌かもしれないし、丁寧にグルーミングされた動物の皮毛かもしれない。重曲線や双方向を描くことなく、順目・一定方向のみに同じような箇所を撫で続けたならば、単調な等質性によって触知に単位を感じ取るかもしれない。しかしそれも腕の一動作と対応化された外延でしかなく、触知内容は「程度」などといった消極的な説明しかできないはずである。統語とは異なり、触覚における文脈は成分記述を斥けるため、遷移運動が認められても、何から何へと移ってきたのかの過程把持ができない。初等教育の教材等ををとおして誰もが体験させられるであろう「閉じたコンパス」の一点知覚のディレンマが示唆していたように、触覚与件取得の場面には様々な曖昧さがある。これをソリッドな神経原理によって描写すれば、点と距離の弁別閾的な立論になるかもしれないが、この論法では、動かすことなくそっと触れたままの状態にある肌理以前の面認識が説明できない。触覚に最小の識閾を認めつつも、面の現象を可能にするには、システムの連動性による知覚待機を積極化する必要があるように思える。当然、肌も他の感覚同様に刺激という未規定な他者項を待たなければ情報創発は不可能である。何かに触れなければ、誰かに触れられなければ、部分としての肌は何も感じないことは述べるまでもない。しかし、時速的問題を内包しているにもかかわらず、面概念は触れた途端に悟り知るかのように表れてしまう。そこで我々は触知の「動作なき作動」は面性を第一的にプログラムすると設定・定義したい。熟読しなくとも一瞥でそれが文章であると判別可能であるように、面は部分の鳥瞰として認識される。前提としての面性は肌理形式の確保となり、読解的な遷移運動が面性を充足することによって、肌理内容が現象する。単一視点のパースペクティブ延長を自己同一的な面として認識する点は首肯期待が十分可能であるが、面性原理による点認識については、多少の吟味が必要かもしれない。そもそも認識論理において点なるものがないように「点対象」の認識は自己の裏返しであるかのようである。そこで研ぎ澄ましたニードルを用意して、その先端部分を自らの肌におしあててみよう。数理的に複合性を指示しないそれに、誰もが「一点」なるものを認識することだろう。しかしその「一点」はどこまでの「一点」なのだろうか。次に、ニードルより細い毛針、それより太いボールペンの先端をおしあててみる。これらもニードル同様に、それぞれ『一点』現象の契機として知覚するであろう。ここで被験者は点の強度や点の集合による面なる概念等へと至るかもしれないが、可塑性ある妥当な描写は面の強度にある。幾何学的な点と実制作的な点とでは、後者に必ず面積がある点を見落としてはならない。触覚において点とは面に包摂されるひとつの種でしかない。このエレメント不在の帰結によって、触覚における文脈がコンテクスト理論や生成文法とは親和性なきものであることが分かる。肌は文字も単語も文法も分節もなく、内容を創発する。そこにカテゴリーミステイクなどあるわけもなく、無知を無効化していく。有機的な面性原理によって、無意味であるかのうように思える脱境界的な「永き抱擁」にも情動の豊穣が許される。この面の豊饒性により、生得性を誤読してしまいそうになるが、次場面のクローリングによって、それがミスリードであることに気付く。

肌理を感じ取る連続運動の最中に第一場面における「面」は存在しない。静止と運動は背反的であるがために、対象表面をなぞる肌も当初の面を失ってしまう。遷移運動を与件として創られる肌理内容には静的な面などといったものは見つけられないはずである。複数の対象が擦れあう摩擦場面という観察は心的現象的には無機的な広がりを超えている。それは「接点」という不可視・不可侵の絶対的な闇の中で、当事者どうし、もしくは第一者のみが巻き込まれ続ける境域である。他者の肌を触れ続ける指先は触れている箇所のみを知る無理解であるが、愛撫する指先は知なき理解というパラドキシカルなディレンマの中で他者を求め、ただひたすらに言及の隙間を閉ざし続けている。

Metaforce Iconoclasm

-019-

2007