芸術性理論研究室:
 
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オルガスム

未去勢の雌猫は、定期性がありつつも、理なく頻繁に発情の相を見せる。介在する者が綿棒等を用いて処理を施すと、絶叫とともに飛び出ていき、しばらく無言で激しく悶え続ける。左右へ身をくねらせながら、かきむしるように後ろ足でシーツを蹴り続ける姿は、彼女の性的絶頂を誤読するには十分すぎる反応である。それが快楽であるのか、苦痛であるのかは分からないにしろ、オルガスムは人ではない動物種にもみられることを教えられる場面のひとつである。当然それは性分化を果たした動物種に限定される知的現象かもしれないが、オルガスムほどあらゆる原理記述を斥ける特殊な感覚はないように思える。いま「感覚」として形容したが、それは必ずしも正しいとはいえないだろう。外部感覚器を使用する性交や自慰を経ない夢精のような意志不在のものもあれば、どこかの詩人のように手すら必要としない男性オルガスムもある。正報告ではない底面下では女性の突発的な絶頂体験がたびたび聞かれる。生物学や認知レベルにおけるそれらは性成熟や性交・子孫へと向かう性的欲求の有用な余剰として描かれるかもしれないが、感覚対象を不必要にする帰納的現象は、認識域において予科なく創発されるため、有意味化するには何らかのパーミュテイションを画策しなければならない形而上学である。以下にオルガスムについて論考していく。通俗的に描かれる自己蕩尽は、本研究室において延長性を剥奪され、自己制作の一階梯となるだろう。その眼目はエクスタシスからの分化・特化による実的な道具・プログラム化にある。なぜなら紛れもなくそれは脱自などではなく、我々の生に組み込まれているためである。

それでは、オルガスムの一般指示構造から確認したい。日常の我々がオルガスムを創発するには、どのような方法を選択しても、生殖器を用いる。性別に関係なくそこへ断続的な摩擦をくわえると、一頻りの後に、性成熟を通過した成人男性なら射精を、女性ならば膣の蠕動・収縮を観察(自己省察)できるに至るだろう。出来事としてのオルガスムはこれ以上の叙述を不必要にする単純な器官表情であるが、多くの者が上記だけでは絶頂を観られないことと思う。字義どおりに「生殖器を断続的に摩擦」しても、一時の性的感覚があろうと、オルガスムへとは帰結しないだろう。生殖器を傷付けることなく性的感覚を創発する(させる)ような肌理を持つ第二構造が足りないばかりではなく、それ以前に「断続的な」という単線系記述と「くわえると、一頻りの後に」というプロセス記述がオルガスムを何ひとつ指し示してなどいないのである。「絶頂」という形容に着目すれば、連続愛撫が妥当ではないことに多少は気付けるが、上昇性だけでは連続/非連続を両立しているので、自らの自慰を注意深く再読してみるとよい。すると、即座に生殖器という比較的限られたせまい器官領域の中にも、様々な種類の性的感覚の帯域があることが分かる。それを「手さぐり」で探し出していくのだが、その探索は最も過剰に性的感覚を創発する箇所の特定・剔出だけが目的ではなく、詳細な区別(コンビネーション)と順列化(パーミュテイション)にある。あらゆる情動変化にイントロダクションがあるように、「あまり感じない箇所」も「弱く感じる箇所」として確保していく。それは絶頂への入口と道のりを構成する。自身の生殖器を愛撫する指先は規則正しい律動ではなく、自慰者の現状に応じて、アドホックな動きを見せる。繰り返されていく慰めは、反復の中に「まよい」とも「ゆらぎ」ともとれる休符・読点を含む。この一瞬の滞留が前場面までの数々を文節化し、次場面の愛撫を特化する。休符という現段階における帰結は自慰以前との差異をつくり、目的遂行への動因・次場面の愛撫を要求するが、同時にこの休符は再構成を担っているため、オルガスムへの産出系とは並列関係にある制御系になる。つまりこの段階の制作内容は反省的であるため「隙」となり、再び自慰行為へと戻るには、オルガスムへの意志が必要になる。ここでそれを感覚とするには乱暴であることが分かるとともに、性交が相愛を裏切る理由も分かる。連続する意志によって、間断なる愛撫内容をひと綴りの文章構造へと編み上げる。その最後の句点が絶頂ならば、それは感覚を超えているといえる。一般的な自慰行為は感覚対象を契機にしつつも、愛撫の休止段階で非対称的な文脈をプログラムしていく。この前場面までの文脈強度をオルガスムは条件とするが、それを「強度」としか形容できないため、メカニズムは無効となり、愛撫とオルガスムは無理解なコンサマトリズムで結節されることになる。オルガスムに限定対応する対象は不在によって相変わらずの超越を示唆侮蔑しているかのようである。生殖器に障害を持たない健常者であろうと、帯域を寸分違わず見つけ出し、性的感覚を激しく導いていく指先であろうと、オルガスムは行為者の意志(野心)の集束によって召喚(インスピレート)され、制作される作品である。そして、このオルガスムの知的自体性によって、「性」が『心ある生』と表記される所以が守られている。

以上はオルガスムについての一般部分であり、それは性交においても大きく変わらないと思われる。異性の生殖器を対象化していようとも、それは決して誘因性を超えることなく、オルガスムの創発は自己に委ねられているためである。しかし、オルガスム自体が内包する量や可能性は単純な一般原理を斥けるだろう。性別による構造の異なりは描写原理の違いをも示唆しているはずである。そこで次に我々は双方の内容描写へと踏み込むことにする。

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本論考では男性オルガスムについて確認しよう。日常的に目の当たりにする射精場面は男性オルガスムの表れとしての扱いを受けていることと思う。男性器の先端部分・尿道口から尿とは異なる白濁した液体が射出されたのなら、寄り添う者はそこに射精者の感覚内容の臨界突破を読解することだろう。それは多くの場合、間違いではないのだが、果たしてその判断はどの程度妥当性あるものなのだろうか。精液は男性オルガスムの内容構成に対し、どのような関与・役割があるのだろうか。この場面の内部構造を描く前に、ひとつ留意しておくが、オルガスムは性成熟者だけのものではない。精通していない未成熟者であろうと、エロティシズムによるオルガスムは可能である。射精とオルガスムは相互浸透的であるかのように思えるが、両者は必ずしも不可分な両立関係にあるわけではない。「射精なきオルガスム」も「オルガスムなき精液の漏出」もありうる。これを踏まえつつ射精場面を描くと次節以降のように、自己制作・構成のリカージョンを形成していく。

精液をともなう男性オルガスムの場合、その最大値は男性器の先端部分・亀頭付近の管を精液が通過し、尿道口から身体外部へと送り出される過程全体にあり、一回のオルガスムは一回の射精ではなく、数回の断続射出によって構成される。女性とは異なり、持続性なきものであるかのように思われがちな男性オルガスムも、注意深く観察・描写すれば、多少の連続する幅と時間差によるアニメーションがあることが分かる。それは自己触知を客体化する複合的な共働認識である。臨界にある男性器は前場面までの愛撫・対象化によって尿道球腺液を導かれ、強度構成を開始した自動者になるが、オルガスムの内容構成までをも決定化しているわけではない。愛撫によるオルガスムは射精形式を確保しているだけであって、快を一義化せず、精液と管の関係構成を意志に委ねることによってオルガスムは充足されている。それは精液の量と、量を知覚する管と、それらを滑らかに摩擦させながら射出する操作の如何によって、「程度」の問題を引き起こす。男性オルガスムは、その構成階梯に至った後も、積極的に制作関与しなければ、行き先を見失い、快の充足内容も低減してしまう脆弱なシークエンスであり、臨界突破の後に自動創発が始まるわけではない。

愛撫から射精までにある「通過」をもう少し詳しく描いてみる。精巣(睾丸)で作られ蓄えられる精子(精液)は、射精管をとおり尿道へと至る。しかし多くの男性は精子の製造・尿道までの運搬を知覚対象とはしていない。そのため精液は漸次的ではなく、突発的な認識となる。予科は到達点と異なるが故に「序」を意味するが、初めから完成されている発生現象は認識域おいて始まりを欠いているために永続原理を指示する。通過段階においての男性オルガスムは古典的な魂と同様の描写原理によって構成認識されるため、エクスタシスに無限接近しているといえる。陰茎に加えられる前後の摩擦は尿道球腺液による「尿道」の確保・予料化である。それはオルガスムの道程であり、筐体を意味するが、不可視であるため形式触知に意味限定されている。ここで形式性と永続性の拮抗矛盾が起こるかのように思えるが、尿道球腺液の微量性によって回避され、愛撫は臨界突破へと向かっていく。この微量性が精液の量を指示・特化している点は重要である。やがて始まるオルガスムの内容構成において、もしも精液の量が無関係だったのならば、男性オルガスムは一般化され、平衡へと近似してしまったかもしれないが、「量」という不安定な強度エレメントによって差異と一回性が補強されている。述べるまでもなく、この「量」は外延化されていない触知域のものであり、純内包量である。量化された精液は尿道を強く押しひろげ、遷移することによって認識されるが、尿道の可塑性(弾性)や速度・摩擦といった遷移法等、諸々の強度現象が構造を伴いつつも自己身体の内部感覚による触知になっている。経験対象を契機にする情動変化や、不可解な情緒のゆらぎとは異なり、「体内での蠢き」は認識内容に特別な意味がある。それは、自他の区別をひとつの眼目とする創世的な認識ではなく、没周界的な自己制作である。量化された精液が滞留しているのならば、単なる違和感にしかならないが、それが体内を蠢く時、自己は自ら自己を背負い込むように客体化していく。触知域にとどまる蠢きの質料性は視覚対象化されたものにある。背後の不在といった一対一対応の密接・稠密性によって前対象的ではあるが、「動き」がボリュームを創発し、蠢きの全体は両義性を更に曖昧化されている。射精管を通過した精液が、その後も留まることなく尿道内を移動していく様は、量化した精液によって尿道が、精液を包み込み送り出していく尿道によって精液が、概念構成される超構造特有の表れの現象を意味している。当然それらの内容構成は自己を同一の源とする相同関係であるため、分化・還元の浸透になる。相互の他者制作が自己制作となり、自己を知覚・認識していく。それらは触知に制御されているために、自己媒体性の完全性が守られ、分化即総合、否、客体化即分析的な自己知/自己理解が創発/構成されていく。ここでは、この自己触知の準アプリオリ的な自体場面を「即自把持」と呼んでおきたい。

男性オルガスムの内容構成は、多くの(時間)をこの即自把持に割き求めるが、鑑みると同様のアウトプットする構造論理は他にも(男性)身体一般に見出すことができる。口から肛門までの身体の中心を貫く一本の管が被る災いは大きな例である。排泄や嘔吐も構造的関係を射精と同じくしている。大便も吐瀉物も精液のように管を通過する蠢きを手立てに存在化され、腸や食道を脱・超構造化している。しかしながら排泄/嘔吐にある快/不快は明らかに男性オルガスムからは隔たりのある範疇に位置付けられている。この判断を仮に男性一般のものとするのならば、暗黙裏に済まされている布置の所以には男性オルガスム内容に関する記述可能性が潜んでいるように思えるが、本論考ではここに他感覚への共働要求を見出したい。先にオルガスム一般を感覚域から分化する論拠に意志を据えておいたことを忘れていなければ、これら蠢きの生理には自己目的性(*)を認めざるをえないだろう。便意や吐き気を排泄や嘔吐へと導くには、積極的であるにしろ消極的であるにしろ、自己の身体外部へ確実に送り出そうとする操作は不可欠である。それが排除の欲求であろうと、吐き出されるまでのシークエンス全体は当為的に一義決定されてなどいない。管と異物との関係付けを力の掛け方によって整えなければ、通過内容は大きく変化してしまい異物感も異物化されえないだろう。そして暗に「異物化」と形容した論点先取には、それらを射精から分け隔てる何かがあると述べなければならないような苦渋がある。吐き気や嘔吐がどれほどに不快で苦痛を伴うものであろうと、異物感が創発する最初の場面は、論理的に自己指示でしかないはずである。未文脈化の延長性にある触覚与件は無理解であるため、明文化できないが故に、触知域における異物の発生初期は厳密には異物ではなく、自己の身体強度を部分化した自己指示体である。この自己懐胎における免疫的現象は初めから同定認識できない。通過段階に創発する快/不快は抽象/捨象ではなく、指示体への同定期待と外部感覚への分化要求である。期待とは分化終了後の行為を可能にする助勢であり、ここでようやく男性オルガスムは射精を迎えることに有意味化への可能性がうまれる。

(*) 耐えによる小康も、ひとつの自己=選択にすぎない。

男性一般がそれを吐き出し、射出したいと思う所以は、それが何であるのか理解するための自己知への欲求、セルフ・レファレンスのためである。自己の身体構造から切り離し、他者域へと放擲するは、『手』以上に視覚(臭覚)への読解要求であり、記述原理の変更による自己深化への策である。分化物という視覚化によって、それらは境界を与えられ、統覚への対象化に成功し、初めて吟味される。その判断内容によって、前場面までのシークエンスに意味がうまれ、同定期待(系)に判断内容(プログラム)が組み込まれ、自己は存続と価値を企て構成していく。男性オルガスムの場合、それは射精によって終了するわけではなく、射出物を精液として同定することにより完成される。手の平かもしれない。女性器からの漏出かもしれない。どこに射出しようと、それを「精液化」しなければ、男性オルガスムは帰結しない。この精液の観察場面は触知(分析)の理解となり、性的絶頂(知的かつ心的な超表現域)と関係化され自己を至上化する。しかしその至上性には一片の排他性すら含まれない。なぜならそれは、どれだけ他者(自己)を愛した自己が存在したのかを知るための相愛強度構成行為なのだから。

Metaforce Iconoclasm

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2007