芸術性理論研究室:
 
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021
懐胎と分娩

自動詞・他動詞の区別なく、出産場面は規制・拘束からの解放として描かれる。本来、子の出生を意味する「免」は、女性の臀部から「人」が出てくる様の図案化であり、「娩」はより厳密に強調表現した文字である。古来より漢字文化に潜在してきた劣位への出産解釈は主意主義者にとっては首肯しやすく、ドイツの倫理学者の言葉をいくつか思い浮かべるかもしれない。孕む者にとっても、生れ出る者にとっても、受精契機は第三者を必要項とし、妊娠期全体は相互に自由を奪い合う。正しくは、母と子が略奪の系に隷従する。母は身体構造を大きく再構成させられることによって行為(価値)規範の大部分を変更せざるを得なくなり、子は生の予科の中で没表現的な振る舞いに悶えの相を見せる。母から血肉の素の提供を受ける子も、腹部の負担に疲労する母も、両者が不自由の契機になりつつ、意志介入不可能な自然形式に捕われ、「奪い合い」は自・他動詞を超え、出産は桎梏のディレンマからの「免れ」を意味することになる。

臨月を迎え、破水が始まり、陣痛絶頂後の自己干渉を通過すると、紫色の肌を持つ人の頭部が膣口から出現する。多くの場合、このまま半自動的に事は進展せず、助産師が例の『産婆術』を駆使し、母を諭し誘導しつつも、現れた肉塊を両手で力強く引き抜く。無事に首から下の体躯の剔出に成功すると、血まみれの子を洗い流すかのように子宮に残っていた羊水の漏出があり、胎盤が脱落する。後は良く知られた作法に従って臍帯を切除し、緊迫感を切り裂く産声を待つことになる。膣口の修復や産湯といった事後があるものの、母と子の分化によって「免れ」が完了する。重要な問題点は「免れの完了」を「胎盤の脱落」にみるか、「産声による切り裂き」にみるかであり、見落とせない構成要素として「助産師の介助」がある。本論考は以上の点を踏まえ、蠢きから分化への過程を形而上学的に描写し直すことによって、子を認識理解する偽法を確保する。それは制作でも増殖でもなく、ましてや製作などでは決してなく、他者との出会いを意味する。我々は「純粋邂逅」に畏れながらも、芸術家達による安易な僭称へと自制を促したい。

「作品」は『子』であるかもしれない。しかし「子」は「人」であり、かつ『人』である。この単純な区別を混同する段階契機は懐胎期から既に潜在している。一般的に経血の遅延・滞留によって気付かされる受胎告知も、卵割が進み、臓器類が形成され、心音が瞬き、知覚可能な胎動が始まると、母は腹部の変形とともに受胎理解へと続く闇を開く。現代においては、胎児の自律的な運動描写をもって、他者との出会いとするかもしれない。しかし本論考において、知識先行による形式確保は目的ではなく、現在知覚を批判材料とした認識充足の原初構成過程を把握する点に本論があるため、胎動だけでは満足に値しない。そのため、如何に自律的であろうと、それは「蠢き」以上の意味を有しない。留意すべきは母と胎児の関係は主従でも対等でもなく、乖離にある点である。胎児は人への定義活動の最中にあり、母は既に始まりを通過した自覚者である。母にとって胎児の心音は自己の拍動と同類に位置する臓器表情のひとつになる。自己の身体構造を構成する個々の細胞群にみられる自律運動と同様に、子宮内膜を蠢く胎動も母の制御外に位置しつつ、地(面)なき関係を維持するので、胎児は母にとって母体の部分として記述される。仮にそれが母体の生命を脅かす存在であったとしても、病の初段階を攻撃ではなく自己の謀反として描くように、部分は自体的に他者へと成れず、「蠢き」は自己組織へと組み込まれていく。

受精卵の着床によって始まる胎盤の形成過程は「蠢き」のひとつになりうるかもしれない。初期段階で起こる母性・母体変化の知覚的な潜在域に、血肉を再構成する指示情報があるとするのならば、孕む者は初めから自己を客体構成していると期待できる。下腹部内部に位置する子宮の、更にその内奥から張り付くかのように成長していく新しいもうひとつの膜状組織が内壁を圧迫把持していれば、母はそこに自己身体からの干渉を読み取り、反省的なモードシフトを確保するはずである。それがやがて、胎児の成長とともに、多くの消化器官類を押しやりつつ、腹部上方へと大きく内部侵犯してくると、身体の構造変化をも黙視できなくなり、母は自己客体と自己との平衡を模索し始める(*)。この自己言及的な自己操作は、自体的な相互性があり、二度目の主語が先行する主語と意味を同じくしないため、“ self-interaction ”と呼ぶべき場面である。

(*) 例えば、ヘッドフォンを装着してみる。耳元からのびていくコードが胴体シルエットの外部へ延長した途端、それまでの「人」は「人」ではなくなる。「ヘッドフォンを装着した人」は日常を失い、コードが引っ掛からないような行為を繰り返さなくてはならず、環境の意味も変化してしまう。自己身体の構造は行為規範の最小に関わっていることを忘れてはならない。

臓器発生段階にある母体と母は、構造的な相互依存性によって、自己の会話空間を構成しているが、堕胎の自由と流産の可能性・不自由によって厳密性を欠いているかのように思える。しかしここでは「知識」には触れず、胎動における重要な曖昧性について確認しておきたい。それは羊水の介在が「蠢き」へ、どのような充足契機を与え及ぼすのかという問いである。前論の『オルガスム(*)』で論じ確認したように、一般経験であろう「蠢き」の多くは、「蠢くもの」と「蠢かれ、蠢かすもの」とは間隙なき密接関係にあり、一対一対応の運動は連続文脈を構成していく。管は空洞による内部接触の可能性があるにもかかわらず、自己知へとは至らず、その知覚発現の契機は異物を必要とする。停滞/通過の区別なく、管は量化した異物を包み込み、異物のボリュームに圧迫されることによってのみ、その存在を知覚から認識へと導かれる。途切れることのない管の存在性は、途切れることなく異物を異物化していく。射精や排泄、食道の通過等に必ず終わりがあろうと、一般的な「蠢き」は有る限りは有り続け、最小単位なき接触の全体性によって激しく自己を揺り動かす。これは一定量を維持する異物を密封する場合に妥当する描写であり、ここでは“ solid-wriggle ”と呼び、胎動とは区別したい。胎感は大きく分けて、羊水と胎児の二種類の質・強度・ボリュームによって構成されるため、“ solid-wriggle ”にはない飛躍場面がある。上述した胎盤把持が空想、もしくは臓器へと平衡した後は、胎児の触知を阻む羊水の認識理解へと段階移行することになる。

(*) 拙論『オルガスム』参照。

羊水に着目する理由は、それが液体であるが故でも、懐胎によって発生する対象的な後行者であるが故でもなく、「胎児と母体の間を取り巻く接続の担体であるが故に」である。「接続」と形容してしまうと、まず臍帯を論じなければならないかのように思える。しかしながら懐胎中の母は胎児の痛みを感じ取れないはずであり、臍帯自体の知覚も不可能なはずである。それは胎盤批判の際に辛うじて触れられる準項目であるか、もしくは分娩まで待たなければならない視覚対象であろう。母が自らの血肉の犠牲を子への直接的な臓器提供として想いを馳せる時、実際的に認識域へと契機・対応している知覚構造は臍帯ではなく、膨張し皺ひとつなく張り詰めた腹部の肌理と羊水/胎児が織り成す胎感である。自身の腹部をなぞる手の平は、以前までの「柔らかさ」にはなかった「硬さ」に、それまでにはなかった意味を読解・誤読しているはずであり、羊水のメロディーと胎動のリズムが繰り返す楽曲に、単一的な“ solid-wriggle ”とは異なる複合的な文脈を構成しているはずである。そして、なぞり終わり、下腹部へと辿り着く手の平や圧迫を受け続ける臓器類等が胎動へ「重さ」の与件を与えているとするのならば、胎感内容は一般的な蠢きとは決定的に峻別される。

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それでは、膨張からメタライズを始め、胎動を「重さ」によって『畏れ』へと帰結させよう。日常の我々が自己の動体軌跡を読み取るための身体与件のひとつに「肌の伸縮」がある。筋の伸長や表面どうしの接触によって内感・触知しているそれも、目を閉じ様々な運動を試みると、ごく限られた部分ではあるが、「伸びきる肌(の痛み)」を感じ取ることによって運動方向の限界を設定している箇所が分かるはずである。例えば、指を外側、手の甲へ向けて反らしてみる。指は一方向へのみ曲がるように構成されているので、すぐさま内側の肌に収縮への要求を感じ取るだろう。逆に内側へ指だけを曲げてみると、ささやかな血肉の圧迫とともに関節部分に違和感を読み取るかもしれない。本来、物理的な直線・回転運動に限度などないので、「無理に曲げて、へし折れた指」は「破損した指」でしかなく、それがあってはならない禁止項とするのは、指を自己構造として所有描写するシステムのみに当てはまる価値である。そのため、我々の身体構造には必要以上と思えるほどのリミッターを描き与えることができる。「伸びきる肌」はシステム/構造の瓦解信号となると同時に、次場面で選択すべき項の規範になる。肉を切らずとも、骨を折ることは可能なので、正しくは骨が系であり、組織構造は参照項を担う。指の運動例で着目すべき重要な点は、運動の最小範囲を決定する骨と連動しつつも遅延する肌とが、相互に斥け合わなければ出会えない場面である。関節部を折り曲げて現出する「伸びきる肌」は、伸長の臨界だけではなく、「肌の始まりの発生」を意味している。肌は接触や視覚の対象になることによって境界を常に見せ続けるが、内壁の知覚不在により、日常的な場面において不確定なエレメントであり、またそれ故に自己を社会的な共有項へと延長させる可能を担っている。しかし、骨格のような内部構造によって圧せられた肌は、内壁の現象によって始まりの獲得に成功し、局所的ではあるが、構造的な単位を構成しているはずである。肌の弾性に「柔らかさ」を観ている時、我々は身体構造全体のボリュームや強度を読み取っているのであって、肌自体を何ら観てなどいない。それは血肉へと続く延長場面であって、バインドされて初めて「肌」が『肌』になるのである。これは懐胎による膨張も同様だろう。胎児の成長にともない増量し、満ち満ちていく羊水は子宮内膜から腹部の内壁をも現出させる第一契機である。量化していく羊水は内部構造を変化させ腹部表面へと、その延長性を現出させ、母の手の平に捕らえられる。子宮によって境界化された羊水自体が腹部内壁を圧迫せずとも、膨張によって硬化した肌を感じ取る母は、自ら臓器類を圧することによって、羊水全体の存在知覚を行なうばかりでなく、肌自体の単位化への道程を切り開いている。弾性を失った肌をなぞる手の平は斥力を受け、自己構造に異物部分を創り出し、肌という境界把持の中で、自己を観察する視点と心的視点とを肌によって接続させる。無論、この把持された肌は自己構造の一部なので、受動態は能動へと回収帰結し、微分不可能な境界自体を知るに至る。しかし硬化した肌は静的であるが故に産出系として弱く、ここで母は理解のために胎動を利用することになる。

もしも胎児が臍帯によって子宮の中心に固定されていたのならば、もしくは羊水が介在せず、子宮によって胎児が密に包まれていたとするのならば、胎感は蠢きと変わるところなく線形の文脈を構成し、母は自己の肌を知ることなく、分娩に対して、さほどの価値を読み与えないかもしれない。排泄と同等の自己分化として描くか、自己増殖“ alter ego ”として描いてしまうだろう。ここには肌理の触知における形而上学的な側面が大きく係わっている。単一の肌理をもつ対象表面をなぞる時、我々は前景を構成しつつも、触知の行為読解全体を等質化し、背景自体に擬似知を与えているに過ぎない。触覚における没単位性の意味するところとはそこにある。光沢に仕上げられている対象表面に『なめらかさ』を読み取る者は、非自己の細分化を行っているのではなく、触覚の限局性によって『なめらか』という単一文脈を梱包した組織的世界のみを認識している。それは差別・区別なき没対象的な混沌でありながら、なぞればなぞるほどに充足度が増していく。触知の同語反復が触覚の遷移運動によって時間論的に流動化され、自他円環のまどろみに捕われ続ける。たとえ触覚運動の挙動軌跡が角や重曲線を描こうと、「なめらかさ」は『なめらかさ』のまま深化を辿っていく。この非対称的でありながら相互に静的なダイアドを構成する触覚内容に「他(者)と環境」が現れるのは、他(者)を担う質差を待たなければならない。膨張した腹部表面を自らなぞる母の手の平に対して、傷跡(臍)が不意に現れた場合、その上を通過する段階と前後との関係が発生し、その刹那に肌理の触知文脈は単語構成を果たす。ここで初めて触覚環境は「他(者)と環境」の原概念を得ることになる。対象群に対して、どちらが他(者)で、どちらが環境であるのかの区別・配分は未完了・無根拠的であるが、傷跡(臍)の出現によって、前景と背景が生まれ、母は有意味的に自己の腹部表面を理解する契機を得ることが可能になる。

この描写論理は胎感にも当てはまり、上述の傷跡が胎動に代わる。それが自律的であろうとなかろうと羊水の中を浮遊する胎児(可能体)が腹部内壁に衝突した場合、胎感は質差を獲得するとともに意味が発生し、母は「始まりある肌」を得る。この場面こそが第一的に他の蠢きと胎感とを分ける点である。射精や排泄、嘔吐等における蠢きは内部触知に対応する観察現象がなく、没構造的な触覚営為の中で自己自体を全体化・世界化してしまう。たとえ蠢きに質差があり、理解への可能性を帯びていようと、内部に留まる非延長性によって触覚環境は不完全なまま次場面へと移行する。しかし胎感は「手」によって蠢きが現前化し、内部触知から「肌の始まり」を導出する。それは他感覚器官への共働要求なく自己を複合化していくばかりでなく、新しい問題を孕むことになる。同一系による自己境界のバインド問題である。

動的平衡以降、一般的に境界とはシステムの選択活動・歴史構成による外延とされる。そのため「システムと環境」という対概念が生まれ、それ故に境界はシステムと環境の相互浸透性を意味し、構造域に単語的存在は皆無とされる。内部から照射される自己境界と外部から観察されるそれとは、同一の被指示体であるにもかかわらず、視点・記述原理の違いだけではなく、描写される相の違いによって同音異義の接続体を担わされている。述べるまでもなく、これは超越不可能性を前提として作られた「境界」であり、ここには概念によって球体化・単純化されてしまった「人」の枷が潜んでいる。それはまるで脳と眼球のみで生きているかのような空想に見えてしまい、実存性が賦与されることなどないであろう。少なくとも健常性はないはずである。我々は四肢を取り戻さなくてはならない。

足を組む仕草。伸ばした腕で自身の肩を包み込む仕草。それらの足や腕の交叉場面は単なる自己知ではなく、肌を自己超越的に観察把持している。それが胎感のように内部確保に成功している場合は、内感と外感が同一の肌を指し示し、二重の感覚によって、ひとつの肌が同定される。母の腹部表面とは「内外の同一体」を意味し、過激な形而上学を要求している。  >> 次論『懐胎と分娩 2』へ続く。

Metaforce Iconoclasm

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2008