芸術性理論研究室:
 
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022
懐胎と分娩 2

  >> 前論『懐胎と分娩』からの続き。

 

それ故に我々は、この「内外の同一体」を吟味しなおし、有意味な産出系として再構成しなければならないかのように見える。胎感と孕む母の手の平によって心的構成された肌は、系の並列ではなく複合系であるため、単線形を描いていくテクスト構造には対応しにくいためである。しかし、この計画に迷いがないわけではない。「内外の同一体」をそのまま残した二重の論鋒の先で邂逅する嬰児と、単純化された道程の末尾で待つ嫡子とでは、認識内容に大きな差があるように思える。おそらく前者は越権的な並列記述の中で尊重を垣間見ることが可能であろうが、なんらかの思想的コードを用意しなければ、ひとりの他者の無限複数化が作用の動機や契機を奪い取り、他(者)無理解の没道徳へと至ってしまうであろう。また、後者は凡庸すぎるがために、分娩までの過程記述を把持するとともに、その後の余韻へと向い合う描写論理を構築しなければ、分娩は他(者)との出会いを意味することなく、物化された子を概念化してしまうことであろう。そこで二例にわたった論考を用意したいところだが、以後の本論考では前者を中心にして進めたい。後者の網に捕われても、遍在する無思慮への啓蒙に終止してしまうであろうがためである。それでは、自己の性的感覚や生殖器を愛でるような、子への愛憎を切開する場面群の順列化を始めることにする。

『私には内があり、外がある。内には側と面があるが、外には面しかない。両者はともに同種の感覚である触覚によって概念現象を果たす対ではあるが、それらは含意関係になく、往還が禁じられている。なぜなら内外を区別するコードは純概念ではなく、肌を契機にして創発し、ふたたび肌を指示するためである。』ここまでの命題群が自ら腹部表面を愛撫する孕む者が辿り着いている第一的な知の形式的様相である。手の平は肌の肌理と蠢きを胎感のそれらと対応化させ、肌を媒体化し、同様に胎感も手の平からのささやかな圧力を対応化させ、肌(内壁)というメディアを知るに至る。直接的には肌の表裏であるにもかかわらず、手の平と胎感は一線で関係化を果たす。その所以は複数ある文脈を懐胎者による単一系によって描くためであるのだが、それならば「内外の同一体」の認識理解も可能であるように思える。しかし二重三重の知覚によって把持されている肌は与件に留まろうとして、かたくなな相を見せ続ける。これは単にリミナリティにおける無限分割の問題にあるのではなく、概念構成されていない境界の種に気付いていないだけのことであろう。懐胎者によってなぞられる腹部の肌は、それ自体がバインド構成を行なっているので、理解延長への豊穣を容易に約束しているかのように思えるが、実際的には前景化せず、黙殺の扱いを受けているかもしれない。輪郭や国境のように線なき世界へ実線を与えることによって文化を構成してきたにもかかわらず、懐胎者の肌すら描けない実態は、我々が一般的に定義している境界とは趣を異にしているためである。通常論じられる構造的境界を確認しておこう。非自己に機能を描写する観察者は、それを傍証としてシステムの存在からメカニズムまでをも外挿・内挿し、システム自体は自己の挙動軌跡を歴史構成することによって、周界・他(者)を描き、選択された自己をプログラム化し、自己の根源を予見する。観察者は行為的境界からシステムへと想いを馳せ、終局にはソリッドな身体髪膚へと至る。システムはもがきあがき侵犯を目論もうとも、他を得ることなく常に纏綿する自己・身体から「私」へと至る。それらの「到達」は行為的にも認識論理的にも超越不可能な絶対の結文であり、それ以上の言及を不可能とする面前にある死を意味する。観察者がなぞるもの、まといつきシステムを苦悩させるもの、両者は同一構造を契機・指示している同音異義であるため、共有項となり、語り合いを可能にしている。それが「境界」であり、それ故に身体パフォーマンス/ジェスチャーが原初的な表現・コミュニケーションツールと呼ばれている。境界とは観察者とシステムの間に許された唯一の接点である。

しかし、境界は必ずしも「相互に同一構造である」とは定義できない。観察者にとっての他者の境界と、システムにとっての自己のそれは表裏=関係にあり、厳密には相を構成している形式構造全体をメタ共有しているのであって、シニフィアン的な外延共有にあるわけではない。観察者はどこまでも構造表面をなぞり続け、中心を概念記述することによって他を対象化し、同様にシステムはその裏面に自己の永遠を観想する。表裏は始まりも終わりも欠如した円環の相にある境界ではあるが、観察される境界には「面」のみが必要とされるのに対し、自己記述される境界は「側」がそれに加えられる。観察される構造[A]の周界は形式的に構造[A]の含意定義項となっているのであって、周界の個性は構造[A]の充足域へ関与の許可はない。世界内容は世界内存在の個体内容を規定する当為ではなく、その内部様態を抽象構成する活動において無関係の位置にある。そのため、観察される対象境界は「面」のみが議題となり、観察者自体の相対性は必ずしも問われることはない。またそれ故に、システムにとっての境界は「側」が要求される。例えば、白紙に閉じた円を二つ描いてみる。それら円形をシステム、紙を世界(周界)と見立て、一方の円形を黒く塗りつぶし、もう片方の円形は実線を残したまま内側を切り抜いたとすると、この寓意画は「世界に二つの個体が存在する絵」ではなくなり、「外部と内部に境界をもつ世界に、ひとつの個体が存在する絵」になってしまう。この例えは超越視点による描写なので越権的ではあるが、閉じた線形構造内部が記述の可能性すら禁止された「二重の無」である場合、構造様態がいかに対象性をまとっていようとも、その境界はシステムではなく、世界の帰属になってしまう。たとえそれが観察者へ向けてなんらかの機能を発現させたとしても、「二重の無」の境界によるダイナミズムは単なるハザード、もしくは空想的な世界変動・再構成として映ることだろう。肌を切り裂き現れるは、血肉であると期待できなければ、境界に限定された記述からシステム・イメージの予期はできない。現れた内部構造が新たな対象境界を意味するとしてもである。無限分解が限りない血肉との出会いを想定できる場合のみ、機能構造体はシステムとして描写される。そしてここから懐胎者の腹部に位置する肌の特殊性を導出するであろう基礎理解が叙述されていく。観察者にとって内部期待として捉えられる「側」は、システムから見た場合、どのように換言されるのであろうか。側の必要性は、それをシステムとして形容する以上は当然のように思えるが、その「当然」に過程がないわけではない。心を追求する眼目を忘れていなければ、この場面を未分化のまま見過ごすことはできない。

構造を構成していくシステムが自ら境界を閉じる時、初めて「自己」と「動作の可能性」を得ることになる。それが開かれた線分構造を成す場合、システムが「自己」からすり抜けてしまうパラドクスが起きてしまうためである。本来的な超越視点を限局化するアンチ・エクスタシスによって、それは地(面)へと着床し、周界への可能性が問われ始める。自己の境界を放射的に内観するシステムは、それが産出項であるがためにシステム自体と同一ではなく、延長性を帯びることになる。システムは常に現在形で作動を継続するため、延長性は距離となり、自己の部分でありながらも、そこへ辿り着くまでの「間」が発生し、システムは地(面)と自己を占有するだけの臨在を守り続ける。「側」を満たす充足内容/構成要素は、自己発生の初期動作において、システムによって関係を把持されていたとしても、第二場面以降は様態記述の現在形を免れ、制御可能体となる。ひとつの国家やひとつの会社組織の王やCEO/COOが、領土内部・民衆・社員の挙動軌跡を線形描写できないように、それは支配形式のみを普遍のものとし、具体的には連続かつ断続的な関係となる(*)。必ずしも自己の全知・全制御支配にあるわけではないシステム構造体ではあるが、完全なる制御不可能体が存在しない点に留意したい。トップダウン/ボトムアップ等といった制御項の再構成はもとより、外部刺激の全てに対し、システムは新たな内部関係を編成することが可能であり、この有機性にこそ「側」への着目理由がある。閉鎖されて初めてそれが境界となるため、システムは外部との直接交換・充足関係を構築できないが、またそれ故に、全次元的に不透明であるため、全干渉がすり抜ける等ということはなく、周界への妥当知を構成することが可能である。それが「周界への妥当知」であるとする論拠は後行契機的な消極であるため無根拠的ではあるが、自己の裏側に位置するシステムの死角からの『力・悟性』によって与件が与件化され、自己域に留まる面前へと押し出されるので、観想が働き、認識可能体や認識体が構成される。そこでつくられる構成素集の理解延長が抗力的であるか、受容的であるかの内容は問われないにしろ、この受動的な対応認識場面で周界自体と周界知が並列する平衡問題が立ち上がり、「側」が個性を得ていく。システムは独自に周界の系を構成し、未来を孕んでいくが、次場面において周界自体が対応関係の全体を維持しないため、システムは自らの特殊個性に気付くことができる。ここに自己ではない他者に対して「裏切り」を押しあて、憎悪を抱く半必然的な理由があり、不可能な超越を目論む愚かさがあるのだが、ここでは便宜的な平衡の下に非平衡関係が企てられていく非対称性の活動が始まった後には、境界が観察者的にもシステム的にも相互に無生的な構造ではなくなり、運動論的な軌跡構造・超構造性を帯びていく点に着目しておきたい。そこでは単語把持が不可能となり、境界は相対かつ絶対的な二重の両義性の中で、所在を不明確にしていく。

(*) それを構成(要)素という単語で形容した刹那に、システム内域にもうひとつのシステムが発生してしまうためである。

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以上のように観察者とシステム/構造の間に横たわる境界は、それが非境域的であろうと、構成原理的に普遍定義できないものであり、帰属こそシステム/構造へと賦与されるが、超越不可能の公理によって所有者にすら理解を拒んでいる。仮に自己の部分が超越を行ない、その観察記述を還元できたとしても、あるいは、観察者自体を自己域へ取り込み、相互の境界内容を並列対応できたとしても、その理解は意味しないことだろう。なぜなら、同一を維持したまま同時対応的なバインド記述ができなければ、対象構成にはならないためである。それを可能にするには境界自体を感じ取らなければならないのだが、日常の生活世界にそのようなものはなく、議題すらない。しかし、懐胎者の腹部の表皮だけは、胎感と手の平の蠢き・遷移を与件化する肌自体を感じ取ることができる。それが局所的なものであろうと、胎児と羊水に満たされ、膨張した子宮の構造性によって腹部は変形し、輪郭が現れ、境界に境界が構成され、本来的には部分なき肌に特化された領域を形作る。それは認識可能な単位となり、懐胎者は肌自体の理解にまどろむことが可能になる。子宮/胎児を覆う半球構造の肌は、全相が自己へ還元した絶対である。懐胎者はこの「境界ある内外の同一体」を窓なき窓とすることによって、自己客体化の営為を無限回収し、相互自己の円環と周界を取り込む。それは相対的な絶対性、絶対的な相対性を意味し、「まどろみ」は『自己相愛の脱自』となる。ここに他性など必要なく、他性が生まれる理由もない。それは完全なる自体者であり、完全なる自己媒体である。製作される胎感と表皮は肌自体によって結節化され、世界となる。

懐胎者はその完全性によって原初的な芸術性を孕む。観察者は胎感と肌自体とを取り込めないため、その芸術性は芸術化できない反現前の営為に止住するが、それは懐胎者にとって無謬の永遠である。「内外の同一」は自己複数化を経た自己同一を意味し、あらゆる矛盾が変位なく整合化され、恐れも不安もない自己を構成する。これが孕む者だけに許された、ひとときの絶対愛である。

そして、ここから分娩への予感が始まり、我々は第一的な無垢なる裏切りを知ることになる。  >> 次論『懐胎と分娩 3』へ続く。

Metaforce Iconoclasm

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2008