芸術性理論研究室:
 
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023
懐胎と分娩 3

  >> 前論『懐胎と分娩 2』からの続き。

 

もしもそれが叶うのならば、ひとときをとこしえへと、またたきを畏れへと変え、相愛を単一化する愛の禁忌へと臨むかもしれない。胞衣を脱ぎ捨てることなく、切り裂き剥ぎ取ることもなく、懐胎者は超越する流動に抗い、『自己相愛の脱自』へと嬰児を止住隠蔽し、張り詰めた腹部表面に平衡記述を試みるかもしれない。ふたえの拍動にひとえの世界を羽織らせ、苦に満充を与え、懐胎から免れの価値を奪い取るかもしれない。しかし、望む想いは空へと舞い散り、その場面は訪れてしまう。

現在系に従うのならば、懐胎者は自身が子を孕んでいる事実を知らない。前場面における性交内容を懐胎と変形した腹部の契機として関係付けるには、あまりにも遠い過去であり、懐胎は子との出会いを意味しない。微細に把持描写した陰茎の蠢きも漏出する精液も『いま、ここ』にはなく、あの時のオルガスムは最早『わたし』をふるわせない。懐胎者は「二人」でも、ましてや「三人」でもなく、ただそこに佇む「ひとり」である。胎(児)による妊娠期は、父から母を奪う脱文脈の策略として描写され、その災いは己を身籠ったが故であることを告げる告白日を待望する全体である。それを直知できない懐胎者は自身をハザードの被害者として描きながらも、無理解から芸術性へと至り、摂理に心を与え、自己から他を奪う。そのため、この次場面に位置する分娩は裏切りを意味することとなる。

その災いは恩寵でも夷狄でもなく、自律的な内属力の表れである。位階秩序めいたインスピレーションや不意によせてはかえすさすらいの強制などなく、自己の身体を自ら増殖・制作・再構成した静かなる営みの帰趨のひとつでしかない。そのすべてが自己のエレメントであり、自/他化できない自他総和の不可侵である。宿る命に魂なきは、地(面)なきが故であり、胎感は自己客体へと回収・幽閉され、敵なき懐胎者は凛とした姿に無謬の存在美を本有する。臨月へと向かう懐胎者の論理階梯は純然たる自己であり、それは夾雑物などではなく、クロノスからカイロスへと、心から身体へと往還するための臓器のひとつである。ここから始まる分娩は自己分化による他者製作となり、「境界ある内外の同一体」による「世界」に環境を自ら設ける周界製作を意味する。そこに明確な制御性がなくとも、これが裏切りと描写される所以である。この基礎理解を道具化するために、以下に背かれ育む分娩過程の形而上学を詳述していきたい。

これは「うまれる」ではなく、「うみおとす」他動詞の物語であることに留意できるのならば、我々はどこまでも『懐胎者から』分娩を捉えなければならない。観察者から見たそれは約束された決定場面であるかのように映るかもしれないが、懐胎者にとって分娩は必ずしも自己の挙動内容・所作を定めてなどいない。立位で産むも、水中で漂い産むも自由であり、何を排出するのかも分からない。それが形式決定されたパーミュテイションであろうとも、災害的なタイミングで訪れる出来事に体位や体裁を取り繕わせる「圧」などあるわけがなく(*)、また、分娩をアフォードする環境圧などもありえない。「うみおとすもの」も分娩後でなければ様態記述は不可能であろうし、それが「ひとつ」なのか「ふたつ」それ以上なのかも分からず、生かし落とせる約束も不可能である。分娩の最中に死産を制作してしまうかもしれず、そもそも「ひとり」である懐胎者の行為自由によって、堕胎と自身の選択死が守られているため、分娩とは懐胎者による意図的行為・パフォーマンスの相を含み持っている。そのためそれは懐胎の定義項のみを担う単一場面ではなく、余情あるシークエンスとなり、破水から胎盤脱落までの描写が許される。

(*) システムと環境は密なる浸透関係にあるわけではない。

そこで我々は戸惑いなく構造分化をメタライズする段階へと着手したいところだが、第一描写においては、ひとつの感覚内容を消極化しておきたい。『痛み』である。周期的に出血や血液自体への恐れを背景化され、痛覚への価値に自己抽象の相を与えるよう慣らされる訓育を受けている者であろうと、分娩時の痛みはあらゆる知的営為を没化する『狂気』であろうことが容易に想定できるためである。摂理的にはここで論理的飛躍を挿入し「一から(一とn)になる」構造現象を「一からNになる」未分化へと集束させる分化を行なうかもしれないが、本研究室は生命至上ではなく人文・芸術的な概念『人類』の制作・区別・確保に眼目を置いているため、与件自体は無意味な未然の質料でしかない。それを認識の道具とするか否かは知覚者の自由に秘匿され偏向される。本論考の基本態度に従うのならば、分娩を「泣く子が泣く子を産む」場面として描くべきではなく、分娩者をひとりの私人へと誘い、ミスリードさせる立論を組み立てなければならない。不用意かつ不必要に『痛み』を前景化してしまうと「うみおとしたもの」が『人』ならば、安易な原罪桎梏へと終止するだけであろう。一般的に痛覚内容が排除項や排除要求の比喩として捉えられ、価値判断されているとするのならば尚のこと『痛み』への言及は閉ざさなければならない。分娩は「分けて出会う」であって「切り捨てる」ではない。

**

そろそろ満ちる時がざわめき出し、ここまでの相即即自に反動を加え始めるようである。これから何事が始まるのか知らない懐胎者は何を思い、どこへ揺れていこうと望むのであろうか。もしもそれが幅なき場面であり、展開が跳躍的だったのならば、懐胎者は分娩者になることなく子を抱くかもしれない。しかしそこには漸次的に浸透する繋辞が助言を構成している。それによって懐胎者は自己懐疑を忘れることなく、逃れられない息吹にからみつくことなく、分娩者から母へと自己先導の自律史を紡いでいくことだろう。破水以前の痛みの「前触れ」は胎(児)を孕む自重の相にある。膨張から始まる胎感の後期にはトランスホメオスタティックな懐胎史の加速度によって自重が前景化しているはずである。通常、自重の与件化は他(者)を媒介還元しなければならないため、積極的な環境制作といえる。既に「側」という自己の領域化に成功しているため、その環境制作は難なく執り行われていくかのように思えるが、地(面)なき前分娩場面では抱擁とは異なる特殊な理解がある。

それは潜みながら音もなく着実に進行し「形」を得ていく。つくられた強度とボリュームは腹部を膨張させ、行為規範へと干渉し、動きによって「原初的な芸術性」を指示するが、どの場面においても介助となっている懐胎者の「手」によって、その問題に気付くことができる。胎(児)が自重を得始めると、環境をすり抜けていく無・自覚な行為構成には安定できなくなり、自己(自重)を差し出し、環境と自己の位置関係から位置価までをも平衡させるように再構成しなければならない。行為から行為へと、状態から状態へと移る際に、自己の強度や延長度を計り直し、構造契機による災いを回避し発現させないようなシステム存続の務めである。殊に状態変位の場面で、自らの手で自らの体躯を支える挙動には重要な意味がある。これを張り出た腹部に重みを感じ、意図した行為遂行を妨げるが故に添えられているものとするのならば、この場面の換言理解は自己言及による自己の部分化を意味する。厳密には自己圧殺を手によって封殺するといった、二重否定による自己肯定行為である。前・分娩者は立位と横臥の移行間においてすら、激しく自己要素に引きずられ、前・自壊の経験に抵抗を試み、天を望む仰向けの際には、自己圧が平衡する訪れない恒常を待ちわびるしか術はないことだろう。そして事実上、俯せが禁止されていることに気付くと、行為領域の縮減によって、ますます前・分娩者は自己去勢を進めなくてはならず、『一なる』身体全体を四肢・部位として捉え直さなくてはならなくなる。これは再度、手足を動物らの尾のように再構成することを実的に意味するが、この行為前提に潜む問題を見落としていなければ、我々は前・分娩者の『重さ』を観想できるはずである。

その手は自己の重さを与件化しているが故であり、それまでの挙動線の中心から大きく外れた身体部位を議題としながらも所有描写し、対自措定しているが故であり、その場に留まろうとすることによってシステムに抗おうとするプログラム構造をオペレートの範囲へ組み込み保存しようとする『想う心』の表れである。臍帯をとおして拍動やわずかな動きを可能とする胎(児)であろうと、その重さは孕む者にとっては「寝る子の重さ」に等しい。それは決して先行する重心へ自ら身を寄せることなく、しがみつくこともなく、手足を折り曲げ、球体構造へ近づきながら被触知体となり、世界を拒否する“ objective niche ”の中で頑な相を維持し堪え続ける。羊水・子宮越しに伝わる振動のみが他となるものの、それによって寝る子が目覚めることはなく、胎(児)というひとつの全体は懐胎者・子宮というひとつの全体に包まれ物化し続ける。そのため前・分娩者は自己臓器のひとつであるにもかかわらず、「重さ」を感じてしまい、『自己相愛の脱自』は静止から挙動生活へと移行する場面で周辺へと押しやられてしまう。感じないはずの自重の与件化はシステムと構造間の落差を発現してしまうため、選択不可能な行為の可能性を拡張してしまい、苦を孕みやすくなるのだが、前・分娩者の場合は苦の内容構成が一般的描写とは異なり、絶対性を帯び、磊落的な“ physical ethics ”への隷従を余儀なくされる。通常の自重に『重さ』を感じても、『重い/軽い』とは認識されにくい理由は、重量測定も触覚営為のひとつに含まれているためである。その前提にある自重をゼロ・ポイントへ設定し、価値中立・無価値化しておかなければ、対象重量を外延化する際に妥当な価値判断ができない。その「重さ」は「私」を圧するものなのか、その「重さ」は私によって押し潰されてしまうものなのか、といった認識まで至らなければ、接触行為は不可能に近似する。それ故に前・分娩者の自重知覚は自己客体を積極的に意味する。勃然と現出した半球構造は境界の境界化による明確性とともに、自己を圧する自他同一の反志向力として、その重さを働かせる。この「自他同一」の「自他」は、自己客体であって「自己と他者」ではないことに留意できるのならば、創世以前のひとつの階梯で、予め縮減の力能が内属され、分娩時における周界制作の際に役立つであろうことも期待できる。

***

『この重さは私のものでありながら、私に抗う。それは私から捉えられる私であるにもかかわらず、私によって捕われることなく、私は斥けられず、耐えと自壊の間でまどろむ。不即的相即は分ちがたく、色なき内包量を絶対的営為の中で相対化していく。私は為す術もなく、ただこの重さにふるえるばかり。』直接的な重量測定は触覚器官を使わざるをえないため、「重さ」にも含意性がある。腕の中へ引き寄せ、抱き上げる抱擁によって見出される『重さ』は、先行的に内包している自己の『重さ』によって外延化された他者である。他者の「重さ」は非自己として私を含み、抱きつく他者は地(面)喪失とともに重心を投げ出し委ね、相互含意関係にある外延を内包域へと再度還元統合するためのアンチ・フォーカスを企て、「二」が「一」へと溶け合っていく。しかしながら前・分娩者は「二」から「一」ではなく、単一系の複合化であり、地(面)を喪失していく場面もなく、孕まれる(者)は動かざる自律挙動によって己の重心を維持し続ける。そのため、留まる懐胎者にとっての胎感が円環的な自己言及を成していたとしても、動態にある前・分娩者は遅延後行する胎(児)の重さによって引きずられ、また、引きずらなければならない。自己の行方を妨げる自己の存在は胎(児)に重さがあるが故であり、この桎梏関係を字義どおりに維持する腹部表皮は、それが分割不可能であるが故に枷を自己流出のプラトニズムへと帰結させる。前・分娩者は挙動生活の中で、その『重み』を感じれば感じるほどに、自他自体(inter self)の蠢きによって「畏れ」を豊穣化していく。それは他者不在の自己直知を意味しつつも、他性という自己懐疑を孕み、ひとつの狂気構造を構成する。決して制御可能であるわけではなく、システムの描写原理の中心へ胎(児)を設定できるわけでもないが、自己流出体と相互主従を結ぶ「自己他律」とでも呼ぶべき関係は狂気と形容できる。

『重さ』と『挙動』によって発生する“ vibration ”は没環境的な無音の営みの中で多様な文脈を構成し、自己感応のヌミノーゼ充足を増大させ、自己介在の狂気をも増長させていく。それは胎芽が胎(児)へと至る成長・メタモルフォーゼにともない乖離関係が主従化され、形容しがたい認識内容を孕み掻き乱していく。前・分娩者が朝に喜び、夜に憂えようと、無関係に事は進行し、励起絶頂が訪れる。ここで胎(児)は言葉なく過ぎ去って行くわけではなく、スタティックな自己直知の最大を終わらせるために、ひとつの起爆を残す。卵膜の破裂である。  >> 次々論『懐胎と分娩 4』へ続く。

Metaforce Iconoclasm

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2008