芸術性理論研究室:
 
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024
肌を切り裂く

ひずんだ世界への眼差しに映る等質の構図自体には、画面を分割する理由も、要素を剔出し構成する理由もなく、ただの理解なき光でしかない。形ある色、色ある形、それらは確かに映像を組み立てる要素ではあるが、眼球運動を妨げる因にはならず、視線は自由に滑空を継続していく。四等分した球体に二等分した円錐を埋め込んだパースペクティブは、瞳孔によるフォーカスと邂逅するオブジェクト群によって打ち破られ、視覚環境の境界は前理論のまま現場従属となる。一時を遠くへと過ぎやる観察の営みによって消失点の制作に成功しようとも、割れた円錐の頂点を自己へと反転させる印などそこにはなく、見る者は傍観の平衡から動けないまま、我を忘却する。風にゆれて舞い落ちる表情に懐疑させる圧はなく、面前の雑貨が見せる輪郭自体には、認識域に単位化を要求する力はなく、どれだけ豊かな実りが映像内にあろうとも、部分は特化・前景化されず、虚像批判を受け入れなければならない。泡沫なる光の分析は、粘性なき無限逗留に終止して、始まりなき無為へと垂れいく。

フォアハンデンな可感的事象と戯れる経験的営為をとおして、自己発生の論理、否、自/他創世の緒へ辿り着くには、自己の前提・先行でも、他者や環境といった超越域による被臨在性でもなく、自由な流動営為によって、不自由な粘性場面をつくることによらなければならない。そのためには意志と身体をもつ自己と他者のみが存在すればよい。ラカン流の父を待たなくとも、子は干渉・接触活動の中で、自己の身体を父へ、環境内営為をファルスもしくはその契機として、存在論から認識論へとシフトしていく。者化を果たしたパワーが不在であっても、母と子は二重の相互主観を第三項として社会を形成し、『ひとり』を育んでいるはずである。

光と視覚から始まる創世の認識論は単位着目の理由が不確かなため、なぜ「それ」を見ているのかの説明ができない。「そこ」にある「ペン」や「グラス」をどれだけ注意深く観察しても、網膜・眼球が捉える与件は光に限定され、色や影といった波長の違いがあるものの、焦点はそれらに関係なく跳躍的な連続遷移を継続し、オブジェクトを超えていく。光は視覚の可能/不可能を担う誘因であって、対象構成を理由付け、視覚認識の構築を始める契機ではない。そのため我々は「そこ」へと「手」を伸ばさなければならない。

「ペン」を手に取り、「グラス」を握る時に起こる事件の最大の特筆点は、如何に「手」を伸ばし、握りしめようと、それ以上に前進できなくなる不可能性・不自由にある。触知の特性上、それが即単位を構成はしないものの、「何かがある確かさ」は触覚が必須である。対象を持ち上げ、移動しようと、対象自体が所有・本有する自己領域は何者にも侵犯されず奪われない。たとえ対象を破壊し、構造領域を解放したとしても、それは自己領域の喪失であって、「侵犯」は意味されず、接触による「何かがある確かさ」は絶対性を帯びることになる。この如何様にもしがたい「絶対性」があることによって、我々は創世を可能とし、また「創造」を誤読できている。本論考は多くの芸術家達がひた隠す劣等感を触覚共働によって描き直す原初創造の制作・確保である。

漢字文化における「創造」の直訳は『刃物によって傷をつくる』である。なぜそれがコーランで用いられているような『無から有をつくる』行為へと相当・妥当するのであろうか。『傷をつくる』は、それ以前の「刃物をつくる」といった構造再構成と何が異なるのであろうか。この漢字理解・疑義を手掛かりにして、以下に叙述・立論していくが、まずは多くの宗教理論がそこから始めたように、原初に「混沌・カオス」を設けたい。

その無は「まったきもの」である。それは全体自体であり、故にエレメントも時間もない。これは無の系が存在しえないことを意味し、没境界・没超越を指示する。一般に没境界は超越を意味するかもしれないが、超えられるエレメントが存在しない無にとって、それは没超越となる。この完全なる同語反復による自己言及は、上述した統覚以前の映像にある。延長性を創造しない視覚のみによる光との関係営為は止住定点不在のため「まったきもの」である。映像を視覚によって分析しても、二次元へと無限後退していくばかりである。そのため「見る者」は「見ながら触れる者」となり、強度やボリュームを映像と対応化させ、色や輪郭をメタライズしていく。この触知による創世場面は最重要な点である。視覚至上による創世描写は「天と地」といった言葉が代表しているように、存在論限定の区別のコードであるが、視触による区別は前景と背景だけではなく、触覚の含意性によって「他(者)と周界と自己」が分化し、無を否定する。ここには神と呼ばれる超越者を制作するトリックと、世界内存在(ハイデガー)が生活世界(フッサール)から受け取らなかったものがあるが、それらの吟味は歴史作業家に任せて、我々は先へ進む。

「見ながら触れる者」を分析してみよう。たとえば「グラスを握る者」にとって、そのグラスは前景に位置する対象・他である。周界は「グラスではないもの」として含意化され、背景へと沈潜している。背景には地(面)延長(上)に可触項が遍在し、天上には可触・不可触項がまたたき覆っている(*)。グラスを握る手・腕はグラスの触知と関係付けられ、意志に抗うグラスの存在によって自己となる。無の自由は不自由によって殺される。しかし、接触を軸とした視触認識論は無を永眠させられず、グラスを手放した刹那に、再び無は復活を企ててくる。触覚の現在性によって、それは不可避であり超克できない仕方なさである。そのため我々は触知の絶対性を刻印することになる。

(*) ここで、海(面)が黙視されている点は批判すべきである。

手放したグラスは、前場面の掌握によって輪郭に意味が与えられ、対象化へ至ってはいるものの、手放されたことによって光へと舞い戻っている。場面の過去把持が、それを有の可能項へと配置するが、目に映るグラスをもう一度握れる約束は光にはなく、既視の理解は創造をなさない。「それ」が創造の認識論を啓蒙するには、触覚営為の軌跡を「そこ」へと残し、絶対性の痕跡を視覚化しなければならない。それによって既視が撹乱され有機化し、理解は系を構成していく。有ではなく生をつくらなければ、それは創造ではなく、単なる製作に過ぎない。

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それでは以下に本研究室における原初創造の比喩的な論述を行なう。まずは脱血した(死)体を用意して、その肌表面を観察してみよう。見るだけではなく、直接手の平で愛撫することが大切である。骨格や筋肉、目鼻や生殖器等の隆起によって遷移文脈に豊かな起伏を構成するかもしれないが、なぞる手の平は他者の肌表面に断裂する「間」を読み与えることなく、密なる連続によって他者の周界を輪唱していく。ひとときも離れることなく愛撫する手の平は、そのまま開始点へと舞い戻り、終点不在の触覚営為から逃れられず、遷移を継続していく。部位があろうと、孔があいていようと、細かなディティールを含めて、身体は「一枚の肌」によって包まれている。肌はプロダクト製品の筐体とは異なり、後付けしたものではないので、パーティング・ラインの一本すらなく、分割できない。対象表面の立体的な連続性と「作り始めと終わり」のない分割不可能性は二重の完全性となり、肌は「まったきもの」、無を意味する。ここに限界効用の増減なき触覚が加わると、観察者は別離の契機を概念構成すらできなくなり、無限愛撫に泥酔していく。その「捕われ」は編み目も境界もない『無限の一面』によるものなので、被捕獲者には論がなく、穴がなく、解放された一面から抜け出られなくなる。愛撫による脱自がオルガスムによるそれと異なる所以は、辿り着く階梯が突破ではなく、無と平衡してしまうためである。それは内外批判や超越批判が当てはまらず、自体記述化されてしまう。

ここで我々は観察者による他(者)の肌は「まったきもの」であるが故に無であることが分かった。しかもそれは接触によって前景化可能な無である。しかし、それも視触営為による「ひととき」のものであるため、捕えた無は捕らえられない無へと再度回帰していく。それを引き止める術は創造による殺傷が必要になる。幸いなことに健常者ならば腕が二本ある。(死)体の肌をなぞる手とは他方の手に刃物を握り、自由に操作可能なはずである。刃先を肌に押し付け、突き刺し、切開が可能なことだろう。執刀者は二本の腕を操り、容易に創傷制作可能であろうが、その端緒で着目すべきは、肌が切り開かれていく過程・運動ではなく、刃先を肌に押し付ける瞬間、もしくは、突き刺す決意にある。鋭利が肌の弾性や硬度を超え、切り裂きつつある過程は、始まってしまった運動であるため問が立てられず、自動化されているが、その決意場面は意志による行為接続問題があるため吟味が可能である。肌を押し付ける刃先は、それを突き刺さなければならないわけではなく、再度「空」へと舞い戻れる可逆の相にある。肌を切り裂く行為は「まったきもの」に始点と(終点)をつくるため、圧迫の場面にこそ執刀者の力が問われる。この力は“ force ”でも“ power ”でもなく、聖霊・愛である。短絡的ではあるが芸術力と理解してもよいだろう。

なぞる手の平によって、自己を含意し、自他の補集合を形成する他(者)の肌の切開は無と根拠への超越重複を意味し、執刀者は理由なき所以を無限に責められることになる。知的かつ心的な存在であることを絶対項として、無への恐怖から切り裂きを肯定・説明する行為過程に対して、創傷の位置価は「まったきもの」の中では強度を与えられず、その所在は没最適化を継続していく。『愛』が「まぐわい」を指し示すとは限らないように、『憎悪』が「あやめ」を招くとは限らないように、切開の志向は、そこにつくられる傷の具象内容を決定付けない。執刀者の器用さ・技術、握る刃物の形・大きさ・研がれ具合、横たわる(死)体の肌の質・強度等、様々な相関的要因によって、なめらかな外科的創傷にもなれば、引き千切られたかのような裂傷にもなる。そして、つくられた傷=口は制作の前後に関係なく、「そこ」につくらなければならない位置的な当為理由がなく、ただ認めざるをえなくなる。これを「存在の同語反復」と呼ぶのならば、我々は「傷=口」の視触把持・単位化が可能なはずである。しかし「傷=口」は絶対性を帯びているにもかかわらず、その超構造性によって境界賦与を斥け、光に闇を灯す。

ここから「脱血した(死)体」を用意した理由が明らかになっていく。切開は湧出する血液や臓器類、ともなう痛みを制作の眼目としているのではなく、あくまでも「傷=口」による創造にある。生きる肢体を切り裂いた場合に起こるであろう筆頭的な諸問題は、構造再構成へと帰結し、臨在自体、もしくはそれ以前の階梯に還元されるのみであり、切開による創造を成さない。そのため、それらは本論では捨象され、「傷=口」のみを着目の対象とするが故の(死)体ではあるが、それだけではなく傷=口を癒さないためでもある。痕跡による無ではなく、腐敗の途を歩ませることによって、破壊対象としても傷=口を開けておかなければ、無へと舞い戻る場面において「意志ある人の生」を挿入できない。保護と瓦解の可能性を絶やさない事後でなければ、創造ではなく物理である。

それ故に我々はその傷=口を読み取ることになる。まずは可感対象の性について確認したい。日常における統覚認識の「対象」とは、観察者の包囲力を守り、環境に位置しながらも、地平上にはなく、逆パノラマ化された集束的な局所存在である。それは通時的かつ共時的に視触化可能な「一なる延長」である。そのため、手と目による被抱擁を許し、唯名論を至上要求しながら単語化を果たし、文法・系へと侵=入してくる。往々にしてロゴスを利用しなければ客体化できない心的存在は、対象に界域を与えず、文字のごとく截然なる輪郭を構成する。対象とは内部期待のパッケージである。そこで切開による制作物が問題になる。そこにある「傷=口」は『何』を梱包しているのであろうか。その口は『何』を銜え含んでいるのであろうか。銜え含む構造に強度・ボリュームの読解賦与は可能なのであろうか。切り裂かれることによって、肌はバインド可能な皮膚化を果たしてはいるものの、どこからどこまでが傷=口に妥当するのであろうか。

再度、傷=口を制作してみよう。まったきもの・面へ刃を刺し、肌が描く線形方向と平行して腕を引いてみる。これだけで難なく傷は口を開く。それ以前には存在しなかった切断面が発生し、ゆがんだ線(分)に囲まれた間隙が生まれる。腕を引き、一線を描く単一行為によって複合的な傷=口がつくられる。しかし、その行為の軌跡上には何もなく、何も残らない。一本の刃がつくる切開は触れられず、執刀者は行為後に積極的な文脈構成を没却してしまう。握るナイフの冷たさ、皮膚を突き破る衝撃・反動、引き降ろす腕に込めた力、裂かれていく肌が奏でる連続的な旋律、それらの感触を覚えている確かさは、それ自体に対応する構造変化がなく、切断面によって指し示されるのみである。不定形な切断面は傷=口の境界ではあるものの、それが内包する充足的な内容構造は同一地平上にはなく、飛躍の読解が要求され、被臨在化されることによって召喚される。

その質的複合性を纏うため、傷=口は制作行為の残滓であるにもかかわらず、作品の必須項である『中心』がなく、その占有的な不在性によって区別すら意味しない。鑑賞の偽法によって存在の矛盾を有機的に溶きながら解きほぐされ、傷=口は創造化されていく。その傷=口をなぞる手の平をふるわせる二本の切断面は傷=口の「側」に対応するであろう「何も触れていない」手の平の部分に自己直知の含意自体を指示・要求し、切り裂いた過去を意味として引き寄せ、超越の循環の中で生を満たしていくのである。

Metaforce Iconoclasm

-024-

2008