芸術性理論研究室:
 
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懐胎と分娩 4

  >> 前々論『懐胎と分娩 3』からの続き。

 

それは一回の緒である。「一人」と『独り』を未獲得のまま、固有の位置価を与えられず、「どこか」に浮遊・滞留する胎児は、性分化の手前で価値を概念化できず、慈悲なく残酷なまでに、懐胎者の生理によって設えられた胞衣を破り捨てなければならない。胎児が子として腹部中央に傷を受ける分娩は、物理的な半了解による傷付け合いであり、増殖的分化を自/他化する手続きと階梯の始まりである。そのため破裂の蠢きを感じ取り、読解できた分娩者は難なく自己を母へと導く道程を切り開くことだろう。通常、出来事としての始まりは「おしるし」と呼ばれる羊水の漏出にあるかもしれないが、それは固く閉ざされた「子宮口」によって保たれているわけではなく、胎児が羊水ごと卵膜に包まれていることによって、かろうじて安定しているだけであるため、その緒は破裂から描かなければならない。またそれ故に「懐胎と分娩」の接続は操作不可能であることも重要である。臨月・出産日とは胎児の企みによって、懐胎者を分娩のパフォーマンスへと急き立てる場面といえる。まずは、その焦燥を把持へと導くために、破裂・爆発の基礎を確認したい。

爆発のみを見るには、市販の花火等を分解し、火薬自体に点火すればよい。粉の散在様相によって、焔の表情は千変あるだろうが、直感する爆発とは異なる出来事に落胆するかもしれない。力強さは「一時の間」続くものの、然したる干渉を発揮することなく、現れた焔は消沈してしまうだろう。爆発とは「何が現出するのか」ではなく、「何を行なうのか」に含まれる純自他動詞であるため、周辺を吹き飛ばす主張がなければ、爆発自体は燃焼と変わらず、独話に終止する。そのため破裂をつくらなければならず、また、それさえ抽象すれば、当該予科を得られることになる。破裂とは、字義のとおり、破り裂ける物理的現象による脱自の亜種である。被膜によって内外自他がつくられ、内圧が充填され、一瞬間に平衡していく。ニュートン物理学的な比喩は単純ではあるが、事後に直感的な自己は失われ、観察者までもが含まれてしまう世界全体が残る点は重要である。破裂は同一性を保ったまま継続することのない世界への臨在であり、潜在する内圧時に環境知をプログラムとして獲得しているかのような脱自である。それは、死の形容だけでは済まされない危うさを孕んでいる。

空圧による破裂を見てみよう。ゴム風船を口に銜え、勢いよく息を吹き込み膨らませる。ゴムの弾性を利用しながら外圧を押し返し制作される内圧は、(力)がつくられることによって、直感的な認識レベルでは外圧を変化させることなく、ただ突発的に現出する。それは世界の部分がひとところへ流れ込み凝縮し、複雑性が縮減されるだけではあるのだが、作動によって境界を構成していく一般的なシステムとは異なり、境界先行によるゴム風船は、(力)の担体が不明確となり、第三項である聖霊を要求してしまう。ここに「破裂しうる者」と『死にうる者』とを峻別すべき理由がある。死にうる者にとって多くの場合、破裂はあり得ず、仮にあったとしても、それは死を意味しない様態のひとつでしかなく、存在は継続していく。現象学前後の系譜を受け継ぐ、動因や(力)を飛躍的・秘匿的に内包する閉鎖系では、作動の軌跡こそが境界に位置付けられるが、可触であるにもかかわらず、不可触なる動的分化は、(力)の所在が超此岸的となり、その境界は便宜を超え出ず、(力)の側面のひとつに留まってしまう。地(面)への着床を拒む所在なき(力)・臨在者は、それ故に外気なき裸体のまま身をふるわせ続け、境界に線をもたない。しかしながら、外骨格的な存在階梯を経過した系は、(力)が擬似的にも構造化してしまうため、観察記述の有効性が復権してしまい、世界を見つめながら喪失してしまう(*)。殊にゴム風船は、弾性からの超構造性によって線が(力)を含み込む。それは含み込まれる気体がなければ(力)にならないが、被膜・筐体に弾性や強度がなければ、(力)の充填は完了されえない。ここには自・他ではなく、自己のみによる即自的平衡があり、外圧問題が消えかけている。周界圧が問題にならないことによって、(力)塊は破裂様態を自問へと回収し、壊れ方についての論を開いていく。

(*) 叙述を真理妥当とした場合、エレメントに質差が与えられず、区別は無意味になる。

(力)の充填と同様に、破裂も被膜との共働によって行なわれるため、論述は一様にはならない。どれほどに内包(力)を増大させようと、被膜の壊れ方次第では、事態は平衡を維持していく。膨張したゴム風船にテープを貼付して、針で穴を空ける。部分であろうと、テープによってゴムの弾性が硬化し、強度が増してしまうため、内圧に打ち勝ち、壊れ始めは裂け始まらず、収められていた空気の滲出で終止してしまうは、良く知られた遊びである。しかし、破裂様態は被膜の質のみによって決定されるわけではなく、その周界(圧)によっても趣を変えていく。「膨張したゴム風船」を堅く丈夫につくられた箱の中へと収め、うまく細工を凝らし、中の風船を割ってみる。すると、風船は箱の中で破裂するかもしれないが、観察現象としての「破裂」は発生せず、何ものも吹き飛ばされず、圧殺された破裂音の聴き触れと、僅かな箱の揺れを視認するのみだろう。密封されたパッケージ内での『破裂』は「破裂」ではなく、圧搾された空気・内圧の再構成・再充填しか意味延長してはくれない。破裂に周界は必須項である。世界とまでいえなくとも、(力)の内包量を均等配分するに足りる「周り」がなければならない。匿名的な共有項ではなく、占有なき自己開現の予地として、横暴と許容の共約界である。そこで何が行なわれようと、第三者へは寸毫の干渉も及ぼさず、世界は変わることのない存在の同語反復を継続していく。物理的ではなく、認識描写的に破裂はネゲントロピーではなく、単なる伸縮のひとつである。それが世界の動因を担っているわけではなく、破裂(脱自)したからといって、新たな系が構成されるわけでもない。出来た皺をまったき延長へと伸ばしていくかのように爆風が巻き上がっていく最中は、非可逆的な前進であり、そこにあった内圧(自己)は、どこか無限へと消え入ってしまう。これを世界の戯れとするのならば、破裂後に周界は世界へと吸収されることを意味する。その脱自は前場面の自己を失い、取り戻せない営為へと歩を進めはするが、現れる新たな系は、観察者までをも内包する世界全体である。認識論的に浸透的現象を企てられた周界・共約界は、身勝手な脱認識論理によって、そこに含まれている第二・第三オーダーを巻き込みながら、前視点残存的な世界へと設えられてしまう。

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その残存は本論において、破裂を受け止める(母)に妥当する。そのため卵膜の破裂は(母)にとって空白となってしまう。それは固体差があるものの、激しく自己感応(vibration)を惹起する契機である。内部触覚の蠢きの中で、破裂によるものである点だけでも特殊ではあるが、本来、創世場面の終了、論理階梯の末尾に、浸透的に描写・現出させられるだけの周界項が超時間論的担体として先行存在している点は、懐胎から分娩へと移りゆく者のみが知的経験可能な期(首)である。その一瞬間における破裂封殺は懐胎者を置き去りにして、分娩者を壊し始める。分娩者は瓦解していく様態・相こそが自己制作であることを忘れてはならない。ここで仮に胎児が自らの力によってのみ、子宮内壁から腹部表皮までをも突き破り、完全自律によって地(面)へと生まれ落ちたのならば、分娩者は他者と出会えるものの、その存在論に己の意図的介助が不在することによって、母にはならず、子と出会えず、抱き締める契機を失ってしまうことだろう。力強く最小強度を描けなければ、手を差し伸べる理由など、なくなってしまうかもしれない。

原初的な芸術性にふるえている懐胎者が被る破裂の衝動は、それまでの安寧を断裂させ、闇に灯る輝く闇を構造化し、「気付き」を与える。暗黙の侵犯禁忌である共約界を内属的に所有している強度と、附帯的に抗おうとする(力)との相即的共働によって守りぬく姿は、遅延も操作もない無矛盾な過去の現在制作であり、産まれ出る『許し』の始まりである。陰部から溢れ出る羊水は、制御不可能な勢いで股を濡らし、現出した新たな『ぬくもり』と、それを拭い取り、付着する手の感触によって、前場面の破裂を比喩付ける。ここではまだ依然として、胎児は自らの臓器のひとつではあるが、もしもなぞる手の指先が自身の膣口に触れたとするのならば、懐胎=分娩者は、その質感の変化によって、そこにある自己に只ならぬ何かを感じ取ることだろう。それは最早、我々が良く知る不明確な淑やかさではなく、強度を増した(出)口へと変貌している事実を知らせるに至り、未知へと臨む漲りを開かせるはずである。内実的には、開いた子宮口が膣内壁と連続化を果たし、同一(面)を形成し、分娩の予科が整うのだが、観察的に見落とせない点は、外部・内部に関係なく、女性器全体が通常のそれよりもコラーゲン質等を多く含有することによって、視認可能なほどにまで、しなやかな弾性を獲得し、産道化している変位である。くりかえすが、破裂を通過した女性器は、構造関係を大きく変えることなく、質的変化によって膣を産道へとシフトさせている。ほぼ同一構造のまま機能を変化させているので、セルフ・カップリングによる系の入れ替えのようでもあるが、小陰唇等の外部性器を含めた産道全体は、指や舌、唾液等を必要とすることなく、確定的に姿を現し、見せつけている。

生殖・泌尿器同様に、相変わらずの超構造性内属体にあるので、観察記述(視述)には妥当性が値されないものの、「何かを吐き出そうとする形」であることは認めざるをえないだろう。内側から外側へと延び開く小陰唇は、拒絶しながら身を隠すような弁や衣ではなく、男性器を包む補助でもなく、自己否定の機能によって退き、陰茎に相当する陰核は包皮の奥へと沈み込み、存在の痕跡すら見つけられないほどにまで縮小化を果たし、生れ出る世界の予料化を手伝っている。膣口は自らその口を開き、産道化した膣腔内を晒し、受精と膣鏡等による挿入の一切を拒み、破裂の事後を表現している。卵膜の破裂は、どこまでも、懐胎=分娩者の秘匿であるため、女性器の産道態は『表現(代表)』に留まるものの、とめどなく流れ出る破水現象は、なんらかの前場面を指し示し、押し戻せない方向性(力)によって、膣腔の肌理は外へと向かい、外をつくっていく。まるで泣いているかのような濡れた姿は、自己とむつみあう分化・浸透となり、対象枠を滑らかに躱していく。すり抜けたそれは、男性を切り捨て、脱性差の中で、あらゆる関係代名詞を無効化して「口」となり「莢」であることを知らせる。

破り裂ける衝撃によって、胎児は遷移の蠢きを開始して、自重分化の劇場を懐胎・分娩者へとつくり教える。その衝撃は自己のボリュームを諭し、胎児のボリュームを告げ、振動による含意関係の中に僅かな空隙を挿入し、「剥離」の時期が訪れた旨を囁く。そしてここから分娩者の器物語が始まる。  >> 次論『懐胎と分娩 5』へ続く。[2009年12月更新予定]

Metaforce Iconoclasm

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2009