芸術性理論研究室:
 
font face


text navi
contents
目次
up
進む
down
戻る
window
 
018
相愛

その成分の約0.6%を塩化ナトリウムが占めるため、人の汗は塩辛く感じる。また抗菌として働いている乳酸菌の一種であるデーデルライン桿菌は精子を殺傷してしまうので、性交の際にはバルトリン腺液やスキーン腺液によって押し出され、中和作用が未完了の場合、女性器からの性液である膣分泌液は酸味を感じる。もしもそれらが無味のものであったならば、我々は舌による愛撫に『他我』を見出せず、触覚構成による他者から懐疑可能性を払拭できずに、相愛現象の大部分をも失ってしまうことになるだろう。それはやがて安易な独我論による社会を描き出し、理解不可能な『空間なき場』を用意し、共にある孤立の中で、生の穿孔を受容することになるだろう。到達不可能であるにもかかわらず、我々がそこへと臨もうと試みる不可避の所以は、自ら真理を隠蔽するミスリードの力が内属されているためである。正誤コードではなく、間違いを積極的に現象化する誤謬原理がなければ、愛を感じ知ることすら許されないはずであり、真理が誤謬をも含み込まなければ、知は残存し得なかったはずである。本論考は『愛する』でも『愛される』でもなく、『愛し合う』へと超越する自己関係的な裏切りの現象を辿るとともに誤読を道具として妥当化するためのものである。それは閉じた相愛の系を自体的に社会化し、制度を免れた本来的な婚姻へと導いてくれるものであろうと期待している。それではその必要契機を以下に論じたい。

相思する二人が寄り添っている。もしここで、どちらかの一方が「私と貴方」という発話を行なわなければ、二人の恋は愛の手前で立ち往生してしまうことになるだろう。それはディスクールである必要はなく、二人が並んだ写真でも、二人で選んだ雑貨でも、二人で作った料理でもかまわない。非質料的な行為への参加でもよいだろう。共通場面を含み指し示す単位構造である点が重要である。それによって即自的に構成した恋人の像を弄ぶだけの自己沈潜者であった二人は『二人』を両者の間隙へと現前化し、愛へと至る必要条件である共性を概念構成できるはずである。恋による反照なき同化現象は単一系による創世になるので、すべてが操作可能という意味で、自他同一化なのではなく、自己を複数化した自他なき自体者でしかない。そのため相思は制御不可項の創発を待たなければならないのだが、それが干渉行為による点は日常的な理解以上に示唆的である。行為が自ら自己を制御不可域へと再配置することに留意できるなら、『二人』を系とする構造(体)は対峙ではなく、対等関係の担体として機能するはずである。観想を超えた発話による「私と貴方」という機能の確定記述は発話者による自他分化でも他者素描などでもなく、自己を投げ込ませた「私達」である。しかしここでの一人称の複数形はシステムと構造の質差によって同化ではない。それは外挿期待の他者形式と自己構造の他者性による自己保留・含意によって、第三の系が制作されたことを意味する。この命題が相互に同義といえなくとも、もしも共有できるのならば、二人の場は空間化されることになるだろう。当然それが系と呼ばれるには議題充足へのエントリーを相互に継続していかなければならない。その継続性による有機的動因を定義項として見出されなければ、自律的な連続性を公理とする者達にとって認識対象になるわけがないためである。そのためコミュニケーションとはツールによってカップリングされるといった固定的な描写は妥当ではないことが導出され、共同制作の最中によってこそ、コミュニケーションが定義されることが分かる。そしてこれは上述した「私と貴方」や写真や雑貨といった構造体を逆説的に首肯するものでもある。二人の間に佇む静物らは経歴を原理として単位記述された刹那、最早それは普遍永続体などではなく、確かに今を形作る進行形の現在者となる。その原理内容が「二人の思い出」ならば、その接続力はなおのこと強化・無謬化されることになるのだが、発話の場合は多少の読解・誤読が必要になる。「私と貴方」の「と」を解消しなければ、「私達」の即現象化はありえない。そこで発話シークエンスを分析してみることにする。

再度「私と貴方」と囁いてもらおう。これは呟きのような勝手な独話ではなく、向かい合う対話の配置関係で行なわなければならない。それによって有限者による行為の本質である閉鎖性に定義項が実行即帰属され、観察されることになる。他者を見据えての表現行為は返答を待つことなく、同様に見据える他者の眼差しによって、行為以前に表現として形式定義されているためである。ここには「見つめ合い」を特化する理由がある。公的空間におけるような他者を待ちわびる受動性の強い一方的な活動はオーディエンスやユーザーの登場遅延・後行によって、相互作用に三回性が見出されなければならないのに対し、相思する二人の間における作用は自己視覚による他者眼球の把持によって、相互他者知の期待可能性が構成され、この可能性によって「見つめ合い」における第一表現は一回の作用で意図的行為として同定される。囁かれた者は囁きを受容するのではなく、前場面での自己の可能性をそれによって確認的に断定・確信の記述へと再構成し、「見つめ続ける」ことによって、第一発話者の一回性を妥当化する。そこから見つめられ続ける第一発話者は「私と貴方」という言語記号へ構造的融解への疑念を持ち始める。日常的な場面での発話者ならば、多くがここで賛意の返答を期待するかもしれないが、被発話者による眼差しの継続行為によって、三回的な論理が一回的に守られる。それ以上の段階的分割によって、場面を剔出できなくとも、連続的な「見つめ合い」における一作用は他者の眼差しが自己を証明することによって、相互確信の関係となり、有意味化してしまうのである。ここではその不即的浸透を「ケリュグマ的関係」と呼ぶことにする。

そして場面の融和性からくる発話者の疑念は次回の単位構成によって払拭されることになるのだが、ここにもケリュグマ的関係の特殊性がある。日常的なコミュニケーションにおける相互性は必ずしも必要ないのである。ここで第二者による作用を許すのではなく、前回同様、第一者に同一のディスクール「私と貴方」を繰り返し発してもらえば理解できるだろう。二回目の発話も一回目のように場面自体で発話内容が定義されるのだが、第一場面とは異なり、第二場面のディスクールは被定義項でありながらも、第一場面へ追加される定義項を担っている点に留意する必要がある。通常ならば、連続する異なる場面での同一者による同一行為というトートロジーは字義どおり無意味かもしれないが、他者による連続する自己定義下におかれ、かつ連続する他者定義を行ないながらの発話作用は、その内容に関係なく、自己の言葉が他者化され、「見つめ合い」が第三の系を担うことによって更に伝言化し、相思継続の動因となる。つまり現在によって定義された現在における過去が未来を指し示していくことになる。それが「私」が『貴方』をも、「貴方」が『私』をも意味内包している「私と貴方」の場合には、「私と貴方は私と貴方である」という命題は自他性を失うことになる。これは組み合わせの問題ではなく、厳密なメタレベルが『私と貴方と私と貴方は私と貴方と私と貴方である』になり、構造上の自他性が便宜上不必要になるためである。前場面で確約されたものへの定義項の追加はここでは並立関係を融解させ、私を意味する私達を構成する。それは深淵する二元性に守られた自他分化を保持したままの疑似同化といえるだろう。

**

ここから恋人達は愛へと臨み始めることになる。必要なものは他者を味わう舌であり、味蕾を具えた触覚器官である。本論考で求めている相愛現象が満充の自他同化ならば、我々は性交場面や唇を重ねるだけの接吻に満足できないはずである。なぜなら触覚のみによる自他構成は自己延長の前提により、自己形式が絶対化してしまい、及びうる範囲は自己否定の含意による他者か、もしくは不可知の知で終止してしまうためである。触覚の権能をどれほどに働かせ応用しても、触知から「ふれている」という形式知を除外することはできない。そこに境界喪失的な脱自性を見出せたとしても、自己という単一性を超えるものなどない。脱自が論理どおり現象化された場合、それは単なる「新しい自己」などではなく、「過去を思い出せない新しい自己」になる。仮に境界突破が脱自の実様相ならば、それは自己の再構成でしかなく、当然的な生の有り様でしかない。自己の超越が内から外へという方向的な転移記述に妥当するなら、脱自完了後も過去の自己との互換性が残ることになり、なんらの脱却性もなければ、死もなく、誤った形容になる。脱自とは未包摂な現象原理の創発であり、過去把持も未来への予見もない洶涌者の第一場面である。そのため「過去の自己」として構成されるものがあったとしても、それは自己へと配分されるような内容記述のない非具象項になる。それは他我性が見出される対象としての『過去の自己』である。脱自者にとっての現象原理が二人の間隙を空間化する第三の系によって担われるとするのならば、『過去の自己』とは他者一般に包摂されるような超越的な位置価が与えられ、前場面での情動記述は想起ではなく期待のみになるはずである。

ここで脱自者は忘我によって『過去の自己』と対峙する。この段階までならば神との合一を目論む神秘主義者らの論理記述と何ら変わるところがないのだが、相思する二人による脱自はエクスタシスを超える場面があることを忘れるわけにはいかない。相愛とは無限の超越者へ向かっての超越ではなく、超越域に位置する有限の他者へと臨む超越であることに留意できるなら、『過去の自己』と同様に『過去の恋人』とも出会わなければならない。それは単純な他者の描写ではなく、『過去の自己』へと無矛盾に包摂されなければならない。なぜなら相思する二人による脱自は、二人ではなく一人の脱自者が誕生しなければならないためである。この局面は二人の行為の完全連動を必要とするため、介在性あるケリュグマ空間では現象不可能である。ここに味覚的な触覚器官である『舌』が必要とされる重要な所以がある。相愛とはその多くが舌によるミスリードによって現象化される社会的なロマンティシズムである。その論理場面を以下に確認し、『私と貴方』を単一化へと終結したい。

***

日常生活における我々は「舌」という器官を味覚を司るものとして特化しているかもしれない。しかしそれは手の構造・機能と視覚認識を発達させてしまった人類特有の先入見でしかない。多くの動物種が細やかな対象操作を舌によって行なっている事実を鑑みるなら、それは味覚以前に触覚器官の筆頭であることが分かる。しかも身体器官の構造上「なめる」という能作の最中において、舐めている対象を視覚把持することができないため、舌は純粋触覚と呼べる。その超視野性と味覚情報の自体性との共働によって第三の系へ自己の視点を観ることができる。なぜなら味覚の情報域とは、その本来性によって系を形成しないためである。確かに我々は味覚内容によって、可食(自己)/不可食(他者)の判断を行っているかもしれない。しかし厳密には前場面での学習を参照項とした相対的な判断であって、味覚自体には一片のコード性もないものである。当然それが食物であるか否か、有用であるか否かを判断するには体内での消化や文化背景といった遅延を必要とするのだから、有内容な判断性を味覚へと求めることは、生得観念を謳うも同義である。仮に今この一瞬の摂食行動が先取的な味覚判断に基づくものならば、現代に生きる我々に栄養学の大部分が不必要になるはずである。現在における味わいによるカセクシスは過去の現象化と未来の過去化を指し示すのであって、明文的な充足現象があるわけではない。この論理的記述を拒絶する味覚の特殊性を形容しなおすのならば、即自感覚と呼べるだろう。くりかえすが「まずくて吐き出す」という一見免疫活動であるかのように思える全身運動は通時的に形成された味のホメオスタシスのようなものであり、無根拠的な反射でしかなく、味自体には決定性のない動作である。それがどのような味であろうと、味覚内容を創発し、自己域へのプログラムへと列挙・構成していく様はまさに即自的であるといえる。そしてここに舌による愛撫にはエクスタシスを超えうる可能性が潜在している。

二人はそれを道具として利用することにより、互いを記述外へと再配置することができるのである。恋人や配偶者を愛撫する舌は構造的に下から上へと肌の表面を沿っていく。この際になんらかの体液が表面に付着していた場合、愛撫者は他者を味わいながら触知の含意性によって、自他の上位下位軸を同化することになる。それは相手の頭上から足もとへ向けてクローリングしたとしてもである。味覚の即自性によって『他者の味わい』は自己の構成素集となり、舌と肌との連続的な密接性により、前場面での「自他分化」を明らかに分化し、第三の系へと自己を止住させ、新たな行為原理を得ることになる。すべての指示代名詞を没化する味覚情報・与件によって媒体性が原理化し、舌という感覚器官は受容性を超えていく。その触覚との相即的浸透により、愛撫者と被愛撫者の位置的な緊密関係という条件が視点へと変位する。この時、愛撫を受ける者は干渉を許すという能動的な連動性により、愛撫者へその変位を与え、他者としての他我と自己としての他我を創発する契機を提供し、それによって相愛現象が守られることとなる。相愛とは相思という前提にある寛容性を味わうことによってのみ原初場面へと至ることが可能な誤謬の妥当性・理解である。

****

真理のみを抽象項として設定してしまった人類は、いつからかそれが揺ぎない仮説といった必要体であるにもかかわらず、無理解であるという多くのディレンマを抱え込んでしまった。相愛もそのひとつである。ここに我々は形容と概念制作の浸透場面を叙述・テクスト化することにより、「私と貴方」のアマルガムを創出した。相思現象が記述外のものであろうと、恋する者らはここから相愛の実様相を観想することができるはずである。それが一時の幻想であろうと、二人という絶対不可侵に創発した相愛は反駁しがたい有限の真理であり、その後の歴史を構成する結節項である。

Metaforce Iconoclasm

-018-

2007