芸術性理論研究室:
 
font face


text navi
contents
目次
up
進む
down
戻る
window
 
017
定着と剥離

天を仰ぎ見て、彼方へと手を伸ばしてみる。地へ視線を落とし、足を踏み締め、大地の感触を確かめてみる。一瞬たりとて把捉場面がないために前者が無限を示すのに対して、後者は部分的であろうとも、手に取り抱擁することができる有限である。焦点は決して留まることなく彷徨い続け、肢体は必ず他者に自己を含意させ、脱文脈的で非情報的な没動因与件を創発する。構造的な限界設定は視覚ではなく触覚を司る器官によって決定される。そこで再度、天地様相を確認してみると、無限に延びていく天に対し、垂直軸上に位置する地には幅が一切ないことに気付く。地は常に足の裏、もしくは肢体のどこかと接触することによって、下方への位階記述を禁止しているのである。高層建築の屋上に立とうと、戦闘機やロケットに搭乗して音速で移動しようと、我々が人類的な社会生活を確保するには、当然的にソリッドな非自己と密接なる関係を持たなければならない。つまり『上方の無限、下方の無』である(*)。もし下位記述に幅があるとするのならば、それは自己構造が担うことになるだろう。最大は起立時であり、最少は俯せに横たえた時、額と鼻、胸の頂点を結んだ相対関係によって導き出されることになる。しかしこれは演繹可能な下位モデルではない。天は不特定な他者と無限性を共有することができるが、自己構造による下位幅は他者観察では水平軸上に位置する対象でしかない。下方は自己へと無限に還元される限定された概念である。これはヒエラルヒーとハイアラーキーが本来的に非同等であることの論拠であり、位階秩序自体が誤った概念であることを教えてくれる体験である。人は自責へと臨む自己契機を現象化できるような存在性を本有している。

(*) 十字架の原初形体が上位幅のないタウ十字 [ T ]にあるのとは対照的である。

そこで今度は目蓋を閉じて、遥かなる天をつかみ取るかのように手を伸ばしてみる。視覚不在による触覚のみよる対象探索は予期の一切を禁止されてしまうので、ハザードへの『恐怖』を知ることになる。空を遷移し続ける、定点なき視覚以上に触覚器官の「彷徨い」は無限である。何かを触れようとして伸ばした手の平の先へと続く空間は無であって、場ではない。「何か」が『何であるのか』分からなければ、場の位格は表れないはずである。暗闇での肌の外側は対象接触を待たない限り、無の無限に包囲され、自己すら喪失した前器官なのである。手の平が何かを捕らえた刹那に我々は自己の身体シェーマを取り戻し、被接触者と共にある社会相を知るに至る経験はありふれた日常である。

しかしここで先述した『下方の無』によって疑問が現れる。暗闇を浮遊し続ける手を没世界内存在的に描くことは妥当なのであろうか。前空間(場)的な空を手刀が斬り続ける最中においてすら、我々は自らの足で大地や床を踏み締め、立ち上がっているのではないだろうか。触覚与件の取得期待を集束させている部位が無の態にあろうとも、我々は常に足の裏や身体構造のどこかを確たる非自己と密接させることにより、絶え間ない自己の存在性の創発・現象化に成功しているのではないだろうか。足の指を大地へ深く突き刺すように把持させたまま、無へと手を臨ませる体験は、自己含意可能性の不在を自己含意可能性の先行存在の手中によって導出されたパラドクス、否、誤謬ではないだろうか。ここは無が生と交叉する重要な場面であり、現象化可能態が迎える場面なのか、それとも自明のものなのか判断・吟味するための論理段階でもある。無が生によって約束されたものならば、ふたたび知や性を意志へと還元・再考することが許されるだろう。

我々は少しだけ立ち止まる必要がある。筆を置き、マウスを置き、素足で外へ出てみよう。普段あまり感じることのない土やアスファルトの冷たさ、温かさ、個性的な肌理を足の裏に感じ、感動しながらも、昼間なら太陽を、夜間なら月や星々を、天の定義項として前景化することができるだろう。それが自己を空間内在者として定義する定点として働こうとも、眼によって確かに対象把捉されようとも、触れることを禁止され、決して到達することができない無力が視覚と触覚の非均衡によってディレンマ化する場面は複雑な階梯を経なくとも知るに至る。何かに触れることにより現れる触覚器官が接触不可能性を自律的に現象化できないのならば、この体験は足の裏と地面との共働によって、自己の延長性を予め獲得構成できていたためと考えられる。不完全な身体図式であろうとも、そこから自己の構造概念と環境一般を構成できているはずである。皮膚全体が対象把持しなくとも、そっと触れるだけで体積性を知覚する触覚は部分/全体記述を無効にするため限局的には単一器官である(*)。単一性と構造機能との相互背反的な非対称性が揺るがないのならば、前者の自律性により、延長性の直知が主張できる。そして下方の無と自己の延長性の不即性により、ここにはシステムの原初様相である有生的無性の創発現象の理が潜んでいる。

(*) しかし対象強度の知覚に関してはこの限りではない。片手と両手によるそれは、それぞれ異なる対象内容を創発している。これに関しては別の論に譲りたい。

自重を支える任意の身体部位と大地の接触は古典的な二元論の一切から断裂をなぎ払い、相互自律性を保持したまま流通的な架橋を可能とする繋辞を担っているはずである。厳密には「である」の「る」であり、「is」の「s」である。それは存在性の定着であり、画家のフィキサティーフである。自己強度の中心を大地に含意させることにより、表れない自己位格を構成し、まだ見ぬ他者との『関係一般』を創造している。地面は非自己でありながらも、第一触覚与件であるが故に「自己と○○」の『と』を担うのである。ここでは多様性によって超構造化したそれを地(面)と呼ぶことにする。そしてここから我々は『移動』の概念を導出することが可能なはずである。心的本性を前提とした場合、物理的な変位を安易に論じることは許されないのだが、地(面)の理解により、そこへと到達できるような期待が十分に可能である。そこでまず地(面)による存在性の定着から存在の遷移の前提となる剥離を体験・確認したい。

**

屋内へと戻り、飲みかけのグラスをコースターの上に置いてみる。コーヒーカップをセットになっている皿の上に置いてみる。無造作に投げ捨てられているフィギュアを丁寧にポージングを施し、台座の上に飾ってみる。そしてそれらをテーブルの上に並べ、同じテーブルの上に自身も手をのせてみる。たったこれだけの体験で地(面)が定着と繋辞を担っていることを知るだろう。理解しにくければ、カップを皿から降ろしてみるとよい。テーブルの上へと直に置かれたカップを暫く眺めた後に、再度、皿の上へ戻してみる。暫定的に手の原・定着相を担うテーブルの上面へと直接的に配置されたカップは「手が置かれている地の位格の延長上」が「連続」を含むために存在等級、否、存在ニッチの同等化が可能となり、単一結節によって相互到達が保障される。しかし皿の上へと戻されたカップは存在の跳躍を行なわなければ、到達不可能な異界者である。それは「私とテーブルの上にあるカップ」ではなく「私とカップをのせた皿」である。台座の上に飾られたフィギュアは、飾られた刹那に最早現在形の『私』と世界共有のない準超越者となる。「台座と私」に含まれる「私」がフィギュアを手に取るには、現在世界の跳躍ではなく、脱定着による世界再構成・自己の再定義によって、台座を地(面)へ含ませるか、新たな定着相を見出さなければならない。「フィギュアをのせた台座」の「フィギュア」と「私」が並列へと編成されていくシークエンス内にはリミナリティー跳躍的な記述は当てはまらない点に留意する必要がある。この場面の要素には襖を超える以上の意味がある。それは冒頭で述べた『上方の無限、下方の無』について正しく吟味・理解する必要がある。そもそも下位幅のない垂直記述は単純な矛盾である。無限に幅があるのならば、この上位には尺度によって下位概念を含意・内包しているはずである。しかし、それでもなお「下方の無」とするのならば、この命題は不可逆なアスピレート相を形容していると理解すべきであり、従って原空間に垂直軸が有り得ないことの示唆と解釈すべきである。水平移動による回帰的な再帰は可逆性を必要とする垂直移動による再帰とは原理を異にしている。回転運動を波形で表現できるように、後退場面を用意することなく有機性を得ることができるはずである。ここで我々は垂直軸とともにパースペクティブをも失ってしまったことに気付く必要がある。つまりX軸とZ軸による水平延長こそが原・空間相であるということである。それが地面との共働によって地(面)を創発し、自己強度を自充することによって『ボリューム一般』を獲得している。その積性が無限に自己へと還元されるために、プロダクトは哲学にとって科学ではなく超形而上学となり、皿の上にあるカップを難なく手に取ることができなくなってしまうのである。

我々は定着相の再構成をしなければならない。ます始めにカップをのせた皿の上に自らも手をのせてみる。そしてカップの方へ、ゆっくりと手を滑らせていく。指先がカップの底に触れた瞬間に初めてそれが存在者であることを知るだろう。コーヒーカップを見ているといった視覚把持はカップの地(面)に権威を与えているに過ぎず、皿の上へ手をのせることによりカップとの繋辞を確保し、カップに触れることによって、自他往還の反照強度知を構成しなければ、それを「コーヒーカップである」と記述するは不可能なのである。そして最も記述困難な場面は日常普通に行なっている「手に取る」シークエンスにある。グラスやコーヒーカップ、フィギュアを台座から降ろし、持ち上げてしまった場合、それら対象と自己は同一地(面)を見出せなくなり、知覚対象でありながらも、没関係的なディレンマを知ることだろう。関係記述に自重期待は必要条件である。それは自身の着衣を普段特別に気にすることもなく、自己への帰属項としていることと同義である。持ち上げられてしまったフィギュアは備え付けられた両足で自重を支える地(面)を失ってしまい、持ち上げた者の手中、つまり所有域で擬似的な自他同一化を企てられてしまうのである。それは「フィギュアと私」ではなく「フィギュアを持った私」であり、一単位である。我々が愛する者への激情に駆られる時、彼/彼女を両手で抱きかかえようと、逆に抱きかかえられたいと切に想う所以はここにある。それは意図を正しく反映した表現行為といえるだろう。一見すると抱きかかえられた者は抱きかかえている者の腕や胸を地(面)化し、自己の中心強度構成に成功しているかのように思えるかもしれないが、それは誤謬である。自己と地面の自立の弁証法は重心移動による断続的な地(面)の再構成によって、静的なそこへ有意味な文脈性を与えなければならない。通常我々は存在構造が ─それが自律的であるか否かに関係なく─ 非自律的な対象との関係内容に対して再定義の可能性を見出せる場合のみに、それを自立構造・存在の単位として同定しているはずである。しかし抱きかかえられた者は抗いの努力を試みようと、その腕の中から逃れ出なければ、地(面)の再構成など不可能である。そのため、それがグラスやフィギュアであろうが、新生児や子猫であろうが、抱きかかえられた場合、彼/彼女らは自重を失い、母系列のエレメントとなり、没対象化してしまうのである。

***

地(面)は自己の延長形式創発の契機となり、我々は自己還元的な斥力の中で地という非自己に対し、自己同等の延長性を触覚的に期待する。その論理構成全体を視覚把握と対応・統覚することによって、初めて自己は他者への出会いへと延長していくことになる。触覚による地(面)と視覚による地面によって、自己は己の強度を含意的に投げ出し、他者との存在性共有の可能性を企て、他者が知り得る自己と自己が知り得る他者の相互構成に成功している。これが「共に生きる」という俗語を可能にしている論理背景である。しかし、それでも尚ここには疑点が残る。存在性を定義することによって存在化を計る自己が、なぜ他者の元へと出向き、出会えるのだろうか。先に地(面)の再構成と述べた場面は自己否定なのではないだろうかという疑点である。それは普段我々が移動を試みる際に、なぜ私が動いたと描写し、なぜ周りの世界が動いたとは記述しないのかという問いでもある。非常に奇異な問いのように思われるかもしれないが、「システム/環境」という区別がカテゴリーミステイクであることに留意できるのならば、この問いの重要性をも理解できるはずである。対象移動の記述は存在位格の同質性によって可能になっているとするのなら、システムによる自己言及的な遷移記述は不可能なはずである。この局面を自己構造との無謬的な浸透性によるものとする楽観では満足はできない。なぜなら地点Xから地点Yへと移動した場合、その「〜から〜」に存在性の未定着相が含まれるのならば、文脈破綻ではなく、超文脈化が起きてしまい、自己移動の記述など不可能なはずだからである。

この移動の前提となる存在の剥離現象の問題を把握するために、我々は歩くことを止めて陸上競技を次に体験する必要がある。初等教育で習うように「走る」と「歩く」の体育的な区別は両足が地を離れる場面を運動工程の単位に含むか否かにある。そこで再び屋外へと出て、走り出してみる。利き足が地を蹴りつけ、もう片方の足が一歩目を踏み出し、二歩目に踏み出された利き足が再度地に着いて、「走る」の第一単位が終了する。述べるまでもなく二歩目が着地する間際に二歩目の力点となっていた一歩目が地を蹴り上げることによって、体を空中へ投げ出し「走る」という行為を実行化するに至り、この繰り返しによって“ running ”することができる。しかし通常の走る者は離陸の相を把持できていないように思える。それは運動する者の多くが手足の運びを具体的に詳述・自覚することなく反射しているように、「運動」とは停止不可能な連続性を含むため、行為者にとって理論的記述を拒否するからである。これはベルグソン的な運動理解になるが、我々はこの局面に地(面)の喪失を加えるべきと考える。

理解しやすいように、走っている我々はそのまま別の競技へと移行したい。剥離現象を捉えるには可能な限り長い間、地を離れたほうが良いだろう。幅跳びが最適のように思える。目の前に踏切線が迫ってくる。始まってしまった運動を繰り返すだけの我々は難なくそこへ辿り着くだろうが、運動場面の展開要求を容易には受け入れられないはずである。上述したように連続を実行する者にとって場面展開や停止はパラドクスであるためである。 ─ここに幅跳びの選手が踏み切りのタイミングに悩む論拠があるのだが、本論考にとって直接的ではないので帰結へと急ぐことにする。─  超記述的な運動展開の障壁をなんとかして突破した者は、さらに記述困難な跳躍へと臨むことになる。足腰に衰えのない健常者ならば、数メートルの距離を飛び越えることができるはずである。仮に5メートルの記録を出したとしよう。通常砂場に着地した者は必ず後ろを振り返ることによって、自らの跳躍距離を把握する。当然的であるかのように思われるかもしれないが、この「振り向き」の場面が跳躍の定義項を担っている点は重要である。これは現在を過去化しなければ、その意味理解不可能性を主張するような古典的なコンテクスト理論以上の示唆がある。「振り向き」という可逆的な回帰行為によって意味化される場面は「5メートルの跳躍」である。観察者にとって軌跡を辿ることができる明確な幅が、行為者自身にとっては分節不可能な最小単位として体験現象化されるということは、跳躍自体の無内包を意味している。跳躍の最中において行為者が「飛んでいる私」として自己言及できない没パラドクス性によって、「飛んでいる私」に意味を喪失してしまうパラドクスは地(面)の不在によって現在自己すら失ってしまうためである。「5メートルの跳躍」と「5メートルの歩行」とでは、意味の構成過程が異なるということである。歩行する者が「歩いている私」として常に何らかの距離を移動しているように自己記述できる所以は地(面)との不断接触によって、場面毎の自己を連続結節することにより、剥離なき移動の構成に成功しているためである。歩く自己は地(面)によって自己の構成継続を可能にするが、跳躍する者は反照契機との乖離が存在化を存在性へと還元させてしまい、把持構成不可能な自己の連続創発を許してしまうことにより、没内容化した自己の絶対形式へと埋没してしまう。手を伸ばす自己は繋がろうとしない自己内容を繋ぎ止めることができないのである。

以上が剥離の形而上学要求の声明であり、地(面)の背理的な論拠である。

Metaforce Iconoclasm

-017-

2006