芸術性理論研究室:
 
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016
可塑性について

数枚のドミノを任意の間隔で並べてみる。並んでいる方向へむけて端にある一枚に力を加えれば、一枚目が二枚目を、二枚目が三枚目を押し、力の伝達によりドミノは難なく倒れていくことだろう。これが何百、何千枚となり、複雑なコーナーや段差のある構成になると、力の伝わり方が非均一化してしまい、どんなに美しく並べても最後の一枚まで倒しきることは難しい技になる。そしてドミノ倒しに途中で失敗した場面に遭遇すると多くの方々は「倒れなかった」形式事実のみに着目し、その原因は何だったのだろうかと頭を悩まし、より良い「結果を導くための原因」を探り出すことに苦心する。しかしドミノという遊戯が教えてくれる概念はそれだけではない。例えばドミノを三枚並べ倒し、側面からそれを観察してみれば、作用・干渉は他者の結果を制作するだけのものではないことが見て取れる。自己の能作によって引き起こされた他者の受動が終わると同時に、それは自己の結果の決定因として働き、原因の担体の自己結果・終点は自他共働の平衡点として位相化されることになる。平坦なテーブルの真中に倒壊した三枚のドミノを用意した場合、斜めに傾いている一枚目は同様に傾いている二枚目と、そして二枚目の傾きは水平に倒れている三枚目と、それぞれ過去の働き・自重とのバランスによって自己構成している姿を我々はデッサンすることができる。また三枚目をテーブルの端に置いて倒した場合、それは床へと落下してしまうので、その構図は大きく変わってしまうこととなる。一枚目の傾斜角度に三枚目の結果が関係している点は特に重要である。自己の未来相がさらなる他者の相の影響を受けているかのように見えるこの局面はループなき一回性のものなので、未来からのフィードバックによる現在決定とはいえない。ドミノの倒壊していく様を忠実に描写すれば、倒れ終わっているにもかかわらず、何をもってそのコマを倒れ終わったと定義すればよいのか分からないことに気付くだろう。すべての連鎖過程が漸次的に浸透しているので、一枚のスティルに定義項を見出すことはできず、それをフォワードバックとするわけにもいかない。ここで我々は結果は既にあるものだが、原因は創り見出さなければならない概念・思想でしかない帰結に辿り着く。原因と結果は超越的な関係で並置されている目論見である。そのためそこに可逆性や弁証法は当てはまらない。結果はプロセス全体を決定原因とする構造であり、結果を決定する他者言及的な原因は社会性から要請された「デウス・エクス・マキーナ」でしかないものなのである。それによって無限後退の可能性を擬似的に無効化し、社会的段階を次へ進めるための契機製作に利用しているにすぎない。ドミノ倒しの中に単一的な原因描写が困難である所以は言語記号が静的な個物であるために惹起されるパラドクスである。しかし“ Why ”の意味がスタティックなシニフィアンで表現されることによって我々は自己でありながらも有機的でありうる始点の獲得に成功しているので、それは必要なディレンマといえる。そして上述の帰趨を人類史は黙殺することによって不必要な誤謬の数々を作り出してきたのである。

三段論法が事実を描写しきれないことに悩む論理学者や、想いを込めた作品に対する評価に嘆く芸術家は歴史の系によって編み込まれた真理によってミスリードされた供物にすぎない。この局面はアリストテレスですら子を「第二の自己(*)」として誤った形容をおかしてしまった程にナイーブな問題である。ここで我々はそこへと到達不可能であるが故に筆を折る芸術家を二度と生み出さないために、システムと構造域における強度の有機性として、相互の可塑性について吟味しなければならない。

(*) アリストテレス「ニコマコス倫理学」下(高田三郎訳)岩波文庫1973 98頁以下。(友としては)121,136頁。

現代素材を代表するプラスティックの語源である可塑性[ plasticité ]は我々のあらゆる生活場面に組み込まれ遍在しているその有り様が表しているように、ある程度の固さをもった不定形な素材の質を主に形容する言葉である。それは融解し再度硬化しかけた鉄、渾身の力を込めて練られつつあるパン生地や粘土のようなものの様相を飾るために使うのであって、せせらぎや疾風に寄り添い説明するものではない。それが可塑物であるか否かの尺度が人の『手』にあることに留意できるのならば、可塑性とは単なる未決定な不定形ではないことに気付くだろう。液体や気体、原子や分子は操作次第によってによって、如何様なる形体にも組成することができるが、それを可塑的と呼ばない理由は“ plasticité ”に「全能」は含意されないためである。可塑性が我々の延長性の周辺に位置するのならば、それは対象と概念に浸透した両義的な縮減であるといえる。構造的位相の先にエンコードすることなく、全能や万能の担体があれば、位相の否定によって無へ帰してしまい、我々は知識なき全知者となってしまうことだろう。任意の素材に絶え間ない形相の可能性を見出せる事実は対象からの自己提示でもあるため、その可能性は限定された未決定といわねばならない。全能が自他を超えた無形であるのに対し、可塑性は常に自己形式と視点からの自己域を含む個物なのである。そのため未決定な否定形とは、単なる歴史的、過程的、論理的段階を内包する存在を形容する暫定語といえる。しかしそれはオートノミーの楽観を意味するに留まらない。その暫定性は『手』から始まることによって、可塑性は他者の受容を含み、観察を超え、『概念』を要求するのである(*)。それは単純な複合性では記述不可能なものである。

(*) カトリーヌ・マラブー[2000]「可塑性への願い」(桑田光平訳)現代思想vol.33-8所収 青土社2005 138頁以下。

そこで無生的な素材を念頭において、様相変化を辿ることにする。まずバケツから粘土を一握り取り出して、その塊(固まり)を観察してみよう。しばらくの間、目の前にある形容しがたい形をした粘土に見入れば、形相なき形であるかのように佇む無愛想な物体が、それが「固まり」であるが故に確たる形をなす、数えられる個物であることに気付かされる。ここで我々は制度化された言語記号・辞書の無力や意味自体の自由な超無限性を再確認すると同時に、非接触という関係の断裂は可塑性を予期の向こう側へ排除することをも学ぶことができる。それが硬化以前の粘土であることを知っていようとも、構造域における不即不離的な可塑性を具現と反目させるのである。この段階での粘土はソリッドな即自態をなす有形物であり、決して「未決定な否定形」などではない。それが可塑物であると同定されるには他者との接触受容を待たなければならない。

しかしその接触は粘土の固まりに手の平をやさしく沿わせることを意味しているわけではない。「ふれる」や「なでる」で現象化される触覚情報は物体の温かさや表面の肌理であり、ボリュームの強度は言及域外にある。可塑性とは複数の延長性による衝突によって、少なくとも一方が他者を参照しつつも自己の可能範囲に従いながら、他律的に自己構成を組み換えなければ観察され得ない。正しくは衝突後に両者が離れようとも、接触時に発生した他者受容を継続保持する慣性によって、それは主題化されることになる。

「形を受け取る」と思われているこの原場面を粘土を用いて確認してみる。利き手の人差し指を力強く緊張させ、粘土の固まりに1cmほど突き刺してみる。そして慎重に指を抜き出してみれば、恐らくそこには小さな窪みができていることだろう。用いた粘土のクラスターが微細なものであったのならば、その中には爪や指紋の痕跡が美しく出来上がっているはずである。過去の出来事化によって我々はその対象を可塑物と同定するに至るのだが、この出来立ての窪みを注意深く観察してみれば、それが他者(原因)受容ではないことに気付くはずである。窪みを作ろうとする目的遂行的行為によって多くの場合「形を受け取った」と形容される場面ではあるが、もし可塑性が形を受容するものならば、突き刺した指を抜き出した刹那に、指先を外側から観察することのできる彫刻が出来上がっていなければならないはずである。しかしそこにあるであろう窪みは「窪み」でしかなく、指先を内側から見た空洞の鋳型にすぎない。複合的な形と純然たる形相とは意味が異なることを忘れてはならない。つまり可塑性における他者受容とは干渉を契機にしつつも、それまでの自己を脱却することによって超他者(原環境)を自己組織化する対象の内属項についての表れを意味するのである(*)

(*) ここで粘土の固まりに「自己(最小単位)」という言葉が妥当するか否かについて疑義をもたれる方が居られるかもしれないが、不定形な粘土は液体のような単純等質な組織ではない点に留意されたい。

この可塑性の発現によって我々は他者知ではなく、他者による自己知「なぜ彼/彼女は私を知ることができるのだろうか」についての期待・可能性の構成を試みることができるはずである。粘土における可塑性の前提に延長性があるように、その発現に関与し、知るに至る「手」にも確かな延長性がある。しかしここでの延長性とは境界なき空間とは異なり、自己の位相の不可侵性を絶対化するような自明性がなければならない。それは視覚や視点による越境の禁止である。接触と別離の非条件として視覚が含まれるという素朴な知は窓なきものでなければ、触れ合うことができないことを再度確認させる。覗き込むだけで強度自体の取得が許されているものとは、自己の視点域にある構成素集のみである。他者のボリュームという強度は不可知であるが故の擬似知なのである。それは尺度として常に自己を含まなければならないという一点において相愛を約束している。自己愛なき者に他者愛などありえないなどといった通俗命題はその意味で妥当である。特に別離に可塑性がある場合は弾性によって阻まれた愛撫とは異なり、恋と愛が無限に接近する特殊なシークエンスを体験することができる。弾性が発現する別離は受容否定による二重の自己肯定が対象に起こるため、不即関係は常に刹那的で、概念を排撃してしまう。それが構造域に限定されているために、時間論との相克が起こってしまい、肌による肌どおしの愛撫の終わりには満充の未然形が残滓となり『永遠』などといった空概念を産み出しミスリードすることになる。愛撫は原因も結果もない連続史であり、把捉対象には含まれない。それに対して可塑的な別離は上述したように鋳型─鋳物といった痕跡関係が視覚によって概念域へと統合され、自己の含意期待が可能な他者を相即的に不即構成することができる。触覚だけによる可塑性の知は再接触による局所定在を必要とするが、視覚は地平に包囲されつつも別離を超越し、時間位相を論理段階へ還元することができるために、視覚との共働が可能な触覚現象は複合化によって自他関係を相即的不即へと編成し、他者へと臨むエートスを維持することができる。自身の『手』を観ることができる者は自己知の確保によって可塑物に対して自己を含ませることができるのである。愛撫は常に他者否定による自己肯定へと帰結するのに対して、可塑物との接触別離は自己依拠的に相互を補完する。それは我々が知りうる相愛の臨界現象である。相互に他を含み、自己を他へ向けて挿入させるかのように論述可能な可塑性は自他同一に近似しているためである。我々はこの局面全体を誤読してはならない。主体概念や多元論的な他者一元論、未分化に留まる彫刻家は無用である。可塑性は構造契機を視覚によって関係付けられたものであって、再統合したものなどではない。次に可塑性と視覚を再度分化することによって、その限界設定を行ないたい。

そこでもう一度、先に作っておいた粘土の窪みに同じ指先を宛てがってみる。自己を密に包み込む他者の先行的存在によって、それは完全概念を想起・産み出す場面かもしれない。文脈なき全包囲的な触覚情報は境界を曖昧にし、自己図式を失ってしまうためである。しかし宛てがった指先を方向性を変えることなく、更に奥へと挿入し、向こう側へと貫いてしまった場合、相愛現象がフェイクであったことに気付くであろう。それは可塑物ではない他者の身体を銃やナイフを用いて打ち抜き、串刺すことと同義である。一見すると貫通の上位によって、それは可塑性に反するものと思われる方が居られるかもしれないが、それは貫通のフェイズによって物性の種が無効になっているためである。従って貫通は可塑性を否定する行為となり、包まれた自己を他者の内奥へと深く押し入れる相互環境化の拡大は可塑性による能動受動批判の無効によって、相愛強度の増大を意味する。貫通は述べるまでもなくその自他肯定の強度が最も励起している状態を前場面に迎えなければならないために劇的であるかのように思える。しかしそこにある排他力は詩的を超えた構図にある。粘土を指先で貫通した場合、着目すべきは貫いた指先だけではなく、粘土の手前にある自身と、それでもなお粘土に包囲されている関節部分である。それは弾性における二重の自己肯定以上の意味がある。愛撫の終わりにある他者の拒絶は否定ではなく受容否定であって、単なる自己肯定でしかない。しかし指を用いての貫通は粘土と接している関節部分が相愛を保持したままなので、身体と指先による二重の自己肯定は二重の他者否定、否、自他パラドクスの否定となり、問いに対する答えのように他者否定に必然力を与えてしまうのである。その貫通がトンネルを抜けるように粘土(他者)を通過点とするようなものになると、相愛の過去化が概念を呼び、空環境に包囲されている自己肯定によって劣化され、その排他力の強度は更に固定化していくことになる。

ここから我々は貫通することのない可塑性自体、例えるなら女性原理について学ぶことができる。述べるまでもなく截然とした前景と背景をもつ開示的な男性器とは異なり、隠蔽的な女性器(や肛門)にそれはない。初めから限界を与えられている男性器に対して女性器は異物の挿入によって、相補的に内性器の境界を探り出さなければならない。女性器を図説する際に大陰唇や小陰唇、陰核や尿道口といった外部構造だけを描いても満足な回答とはいえない。卵巣や子宮の存在を示さなければならない。そして『膣』を描かなければならない。膣は通常不可視のものでありながら、不特定な対象を密封することのできる可塑的な弾性体である。そのため膣自体に境界などなく、それは機能体であるといえる。そのためそれを図で示そうと、解剖によって部位を剔出して面前に差し出そうと、普遍的な首肯は得られないことだろう。そこに明確な膣口があろうとも、それは構造的形式でしかなく、観察者自身による断続的な接触挿入によって可塑性の触覚的発現が行なわなければ、膣の同定は不可能である。女性器は視覚による把捉を拒否しながらも自他分化のシークエンスに他者の介在を必要にするという意味で、粘土やプラスティック以上に可塑的な構造である。しかしそれは必ず概念を要求するため超越的である。ここではモティーフになりえないそれを超構造と呼びたい。

一般に観察とは経験科学の領域でのみ用いられ、妥当性を得ることのできる行為概念である。しかし視覚と触覚の間にある架橋しがたい質差に気付いた者にとって、演繹は閉じた特殊存在の前では帰納化され脱普遍化された無力であることを思い知らされる。そのため「超構造」なるジャーゴンが必要となるのである。女性器は不可視の可塑性を本有する膣の超構造性によって、心的な素材といえる。それがふたたび閉じてしまうものであったとしても、視覚なき触覚の残余がかつて挿入されていた対象との視覚的邂逅によって不即関係で対応化され、姿なき構造である女性器は、それを有する者にとっては、肌とは異なる臨心する可塑物なのである。

ここで、それは観察対象ではなく分析しなければならない素材であることが明らかになった。次に我々は有機的な産出現象を正しく描写するための道程へと誘われるように回帰しなければならない。古来より智のジェンダーが女性である妥当な所以を堅持するために。

Metaforce Iconoclasm

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2006