芸術性理論研究室:
 
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015
視点の単一性について

数えきれないほどのレンズが集合する複眼をもつ昆虫達はそのひとつひとつに独自の環境映像を写し、類似した風景画が千も万もレイアウトされた展覧会の真中に立ちすくむような認識世界に生きているのだろうか。単位が複眼でなくとも複数の単眼をもつ生物、たとえばハエトリグモのような節足動物は八つ(六つ)の映像与件からそれぞれ別個の判断を導出し、それらを何ら統合することなく行為規範にして獲物へと飛び掛かっているのだろうか。この問は揺るぎ得ようのない一性の絶対性を知る者には論説を必要とすることなく『否』であることが理解できるであろうが、稀に誤解を見受けることがあるので若干以下に注記しておきたい。

仮に上述の問どおりに視覚域において対象Aの映像を何枚も羅列している生物が存在したとしたら複雑性の拡大によって可能性のパラドクスが起こり、能動的行為の一切をなくしてしまうことだろう。これは人であっても同様である。目の前に入れ立てのコーヒーに満ちたカップをひとつ置いてみる。持ち手のある射影xと持ち手のない射影yが同等の真理値をともなって、今まさにカップを手に取ろうと思っていた行為者の視覚認知域に写し出されたとした場合、その者はどのように対象へとアプローチすればよいのであろうか。一方では持ち手に指をかけることができ、もう一方ではカップ全体を包み込まなければならない。もちろん持ち手を無視して握ればよいので行為者は難なくカップを手に取ることができるように思える。しかし価値同等の並列映像を生きる者には右手で取ればよいのか、左手で取ればよいのか選択することができずに熱かったコーヒーを冷ましてしまうことになるだろう。我々が行為者である所以は構造域からの情報提供によるボトムアップにあるわけではなく、自我の一性に保証された可能性の拡大からその縮減にある。この命題は非整合的な構造論理に面前しても何かしらの対処を可能にするであろう自明性によって首肯される。これらは必然や事実に当為や価値が含まれないことの再確認であり、構造主義が度外視、語らなかったものの再剔出である。情報とは都市デザインやパワーシステムが担っている誘因ではない。また行為内容とは観察記述による事実描写が言い当てているわけでもない。情報の提供にエージェントなどといった概念は無効である。行為の可能性は認識主体によって創られ制御されなければ、情報によって身体構造が引き裂かれてしまうような空想を我々は実際に観察できてしまうことだろう。この情報概念についての誤った理解は現代システム論における環境の定義にその端を見出すことができるのでそれをまず修正しなければならない。

一般的に環境とは任意のシステムが選択していないものとして定義される。つまり関数を図で示した際にグラフの軌跡が残らない余白の部分がそれに相当する。しかし「選択していないもの」という定義は曖昧である。最適判断の不可能性から環境に価値中立性を与えたいのだろうが、あきらかに「選ばなかったもの」がある以上「選択していないもの」とはいえない。仮に捨象していたものを次の場面で採択したとしても、前場面において環境の中立性は崩れているので、やはり厳密性に欠けるだろう。またこの局面を「非選択」として形容するテクストを良く見かけるが、それも的確なタームとはいえない。本来「非」とは排除すべき異物を含意しているので「非選択」などといってしまうとシステムが予め選択可能とするエレメントから更には不可能とするものまでをもすべて把捉しているかのように読解できてしまう。それは全知を謳うも同義であり論外的である。部分としては該当するが代表させるわけにはいかないだろう。これらのような科学的視座に基づいた環境はシステムと弁証法的な関係を構築してしまうので前述した「一義的決定を入力する情報」などといった呪文を導出することになる。システムと環境が同一地(面)の上に隆起しているわけではないことを知る我々はそれが単なる裏返しではないことをも了解できるはずである。つまり「構造と環境」とはいえるが「システムと環境」という対置並列は特に意味をなさないのである。限定的にシステムは環境項を選択的に区分しているのであって「選択する/しない」などとはいえない。環境とは構造にとっての選択の否定/未然項であり、システムは越権的な判断を行っているに過ぎない。あえて心的システムから環境を定義するのならば、それは背理的に自己を外挿するスクリーンであり、システム域における有生的無(*)に対応する。しかし有生的無も環境概念とは部分的にしか定義項を同じくしてはいない。後者の位相空間に座標軸があるのに対し、前者にそれがあれば我々は空間の学習を必要としないことであろう。

(*) 拙論『有生的無性について』参照。

ここでシステムと環境が未関係の関係、関係なき関係である事実を知ることによって冒頭の行為選択の場面を整理することができる。我々は視覚による映像を規範的に見せられ教化させられているわけではなく、見たものを見ることによって自ら自己を行為者へと至らせている。映画のフィルムのように認知情報を並べ重ねてみても、それらはそれぞれ完結したひとつの絵なのであって、映像自体に非自己(前後のコマ)へと自己を結びつけ文脈をつくり意味化する必然的要因など埋め込まれてはいないはずである。知覚・認知与件は認識批判することによって初めて有意味なものとなり、行為へと至るまでの参照項となるに過ぎない前素である。仮に隻眼の者がコーヒーカップへと向かったとしても環境からの行為選択は描けないことだろう。持ち手しか見えない射影xの側に座していたとしてもカップを手に取る方法は幾通りもあるだろうし、持ち手が複数個も取り付けてあるデザインカップなどに面前した場合はもはやアフォーダンスなどといった楽観は無効である。構造論理は常に前行為者に対して非整合的なために多義的ではなく無意味なものである。ここには古典的な「自由意志」を守る論拠があるが、自由は没行為も含むため何も述べていないに等しい。そこでここまで前提としてきた「一性による産出現象」についての理論的解体を行いたい。これまでの論述をとおして我々は『一』を第一的な産出原理としなければならないことを消極的に証明してきた。その過程で捨象され表れた『一』は確かな個を与えうるものであったが、それを持ちうるものとしても理論立てなければ単なる叙述と変わるところがない。それ故に我々は単一性による創世場面を確認する必要があるはずである。以下に我々はその原初へと臨むことになる。そのゲネシスは西洋思想を躍進させることになったギリシャ語聖書の内外に寄り添っている。

創世記において「天と地をつくった[1:1](*)」神の第一場面には「闇が深淵の上にあり、神の霊が水の上を漂っていた[1:2]」不可視無形の「地[1:2]」があるとされる。そして『つくる』ではなく「生まれよ[1:3]」といった他動詞・命令によって「光[1:3]」をもうけ、それを「見た[1:4]」ことによって昼と夜の命名記述が可能となり、論理段階を過程化することに成功する。「夕方となり、ついで朝となった[1:5]」光と闇の区別だけならば、この時間論的な記述は不必要である。そして神は一日目の開口に「水の間に天蓋を生じさせ、水と水の間をはっきりと分つものにせよ[1:6]」と述べる。ここで初めて神は自ら要求を遂行する。「神は天蓋をつくった[1:7]」この天蓋によって上下が分け隔てられ天と地の設定が終了する。創世記の空間創造である第一章において神が能動的に手を動かし制作したものとは光源体と星辰とこの天蓋のみである。コーランやヘブル語聖書の神は無から有をつくる創造主であるが、ヘレニズムの洗礼・批判を通過した七十人訳の神は多くの箇所で論理的な相をみせる。我々がランプを作り、部屋の天井に取り付けるように神は太陽「大きな方の光[1:16]」と月「小さな方の光[1:16]」を制作し、昼と夜の空間内に灯しただけのことである。光自体については「生まれよ[1:3]」の一声によって自動的に創発された以上の記述などない。のちの学問に期待不可能なものについての理由は不明だが「そのようになった[1:6,9,11,15,20,24]」に過ぎないのである。時間の流れ、水や植物の誕生についても物理的な制作者などといったものは聖書に登場しない。それらは神の命令と事実描写の行間に姿を消したまま語られることなどない。天と地の構成要素となる原質料である「地[1:2]」ですらも先行して存在していたのである。

(*) 『七十人訳ギリシャ語聖書 I 創世記』 秦 剛平訳 河出書房新社2002 20〜23頁。以下括弧内は同邦訳より引用。二重鉤括弧『』は引用ではなく強調なので注意。

そこでひとつ疑問が現れる。視覚認知による時間文脈の認識を経て、天地を創造する場面において唐突につくられる「天蓋」の解釈である。天と地の境界を覆い尽くす『かさ』などといった誰の眼にも写らないようなものをなぜ聖書記者達はつくり出してしまったのであろうか。特にギリシャ語訳では「天蓋」に固形[ fixation ]を意味する“ στερεωμα ”を当て、確かな事物として描写している。それは周到に組み立てられている第一章でただひとつあきらかに疑義を指摘されるであろう稚拙な作為のように思える。現代のシステム論者達にこの論理過程を批判させれば天地創造は『区別』の一言で済ますであろうが、コードが欲しいのならば「天蓋」をつくる必要はないであろう。それによって水を上下に分割したのだが、神は上にあった水ではなく厳密には「天蓋を天と呼んだ[1:8]」のでコードの産出現象を描写したとは解しがたい。この局面は現象学に特有な地平概念に近似しているが、神はここで限界設定を行っているわけではないので境界概念の不可解さをあらわしているとも考えられない。また天と地の同質を維持したままの往還不可能な断裂を表現することによって位階秩序へと通じていく座標軸を設けたいかのようにもみえるが、その間隙にある絶対的不可侵性は叙述だけで自明のものとして主張できるであろうことなのでそれも論拠としては弱い。ではこの不可思議な布の正体は何なのであろうか。

ここで我々は「天蓋」を自己域の空間なき第一パースペクティブとして主張したい。そもそも空間創造において最重要な特性とは『生まれる場(発生を可能にする場)』ではなく、自ら産出(認識)したものが『定着する面』であるかである。産出現象は場に依存することなく自動的かつ連続的に豊穣化していくことなので問の対象にはならない。過程化する第一担体が途上に含まれればプロセスは始まらないであろう。それは単一性の内属項である。認識者にとって空間とは延長性の獲得などではなく、自己産出した構成素因を面前へ押し出し集合化させるためのものである。つまりそれは『記述域』なのであって「天蓋」がつくられる場面とは超越論的な反省契機が自律的に生まれるひとつの階梯なのである。創世記は被造物による観察態度によって書かれたものかもしれないが、そこでの現象を可能にしている神の視座は聖書を超越している点に留意しなければならない。地に立つ視点からの「天蓋」は行為領域を円形に切り抜き上部を覆うものとして見えるかもしれない。しかし制作者の視点から見れば、それが水平の膜でも半球体でもないことに気付くだろう。その視点は天(上)から地(下)へと注がれるものではない。創世記は天を神が住む領域として記述・定義してはいないのだから神は足下に「天蓋」や「地」を配し、それらを見下ろしてなどいない。同様にそれは神にとっても水平のものではないことを意味する。地と同じ質料からつくられたものであるにもかかわらず一切の形容がない「天蓋の上に(あった)水[1:7]」とは神の住処でも認識域全体でもない。それは神にとっての知覚認知域の確保である。つまり天蓋“ στερεωμα ”とは第一的には『神の肌』感覚器官を意味しているのである。神はその肌をとおして地と自己を対応関係で結ぶことができる。それによって地の知となる素因を天の領域に構成することができる。だがその構成体は被造物自体を拾い上げたものではない。また拾い上げようと思っても自体的抽象は天蓋によって禁止されている。この充足なき対応はまさにシステム域の形容なのだが、天はその全体を意味しているわけではない。天地の区別が行われる前場面では「神の霊[1:2]」は「水の上を漂っていた[1:2]」ことを忘れてはならない。述べるまでもなく「霊」とは三位一体論における聖霊であり関係化や結合を担う愛である。その愛によって対象と天を一体一対応的に関係付け神は世界(聖書)を知ることができるようになる。そしてこの知の獲得過程を可能にしているものこそが聖書において語りや登場を禁止された『神の視点』である。天蓋を軸にして天地を閉じ、世界を無へ還元しても決して滅せられることなく残存するものがある。それが閉じられた書を見つめ想う神の単一視点(思点)である。

聖書を超越した位相に純粋視点が位置しているがために原初場面がいかに無であったとしてもそれを有生化して神や我々は開いていく世界に臨むことが可能になる。視点のそれ自体を超え出る一点性と聚合性によって自己域は概念のパースペクティブを自己触媒的に産出し組織構成することができる。映し出された点はそれ自体が無意味であろうと外挿された視点を介することによって他の点と関係付けられ構成素集となり有意味化することになる。視点はそれを自己が定着する第一テクスチャーとして自己域内にある超視点域に措定する。その定着面が視点と『対峙する環境』であるため内省契機の自律的産出が期待可能になる。それがいかに暫定的な位相であろうと、また任意の構成素集との関係内容に往還性がなくとも『思う』や『思った』を思える理由は視点-対-面の不即不離に照射し合う様相が自己関係の原的な総体を織り成しているためである。そして更に視点原理が視点自体を死角にしているがために自己を思うことが可能であることをもここで再確認しなければならない。初めから自己域に自己のすべてがあきらかになるのならば、いかにして反省契機を得ることが可能になるのであろうか(*)。聖書の中に神の視点が存在したら判読する者は超越(脱自)を体験し、それと同化してしまうことであろう。視点自体は決して表れ現出するものではないがために我々は独りを生き、他と共に生きることが可能になるのである。

(*) 反省とは視点によって確保された自己形式によって自己内容を観察する営みである。ここにエポケーの誤解がある。

神の視点が認知・認識域(上の水)と自己構造(天蓋)そして環境(下の水)を、それら聖書全体を包み込むように我々は不在を超えた臨在する視点の単一性が後光[ halo ]を担うことによって自己の定着面を照らし切り開く。それが単一であるがために産出原理のオールタナティブを設定されたとしても自己の生として紡ぐことができる。視点は常に脱インコヒーレントである。多様な視点を含みつつも一冊の書[ object ]として編纂されている聖書は我々が様々なパーソナリティーを構成、解体、統合しても『純然たる自己』から生を開始可能とする素朴な有り様と理論性を端的に指し示している。

Metaforce Iconoclasm

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2006