芸術性理論研究室:
 
font face


text navi
contents
目次
up
進む
down
戻る
window
 
014
有生的無性について

システムと構造が連鎖・連動すると安易に主張できるような楽観的なアルチザンには「考えが自動的に(*)」浮かび、書き考える、考え書くなどと言えたり、また思考段階が介在しないような「読み」と『理解』の同義的主張ができるのかもしれないが、思惟空間の先行的とも思える有効性を知ってしまった我々にはそれがファンタジーに聞こえてしまう。秋毫のズレもなく密に過不足ない対応関係を等価していくことができるのならば、考察といった論理的段階や苦悩といった停滞がなくなるだけではなく、様々な種差の喪失によって統合原理の全てを不必要とした混沌が前景に位置するような前社会形式が用意されていたことだろう。コミュニケーションや表現は決して「達成」があり得ないがために、その行為意義(必要性)があることを忘れてはならない。それを見落として独話的な認識理論から誤謬や失敗を除外してしまうと区別の発生契機が見出せなくなり地平の無限拡張によって、あらゆるものを等質的に記述・内包していくことだろう。それは特殊と普遍が浸透しあう未分化、否、無分化の創世理論である。この連動の理論機構は非連動的現象があったとしても、その軌跡を残すことなくワープロのごとく「改竄」していくためにプロセス・ループをどこまで繰り返したとしても決して自律意志が産出されることなどない。我々が『意志』を産出形成するには『自由に操作できない他者の存在を感受する自己』に気付く時を迎える段階においてである。自他分化の営為とは意志と同期的にその形式概念を得て、意志の自己作用による充足活動によって脱形骸化を図る全体である。そこで分かたれた自己は分かつ自己によって保持され分かたれた他者は非言及域へと配置される。しかし分化現象の論理過程で行われている全体とは主体的で単純な選択/非選択だけではない。それは分かたれた他者によって拡大保持される地平もあれば、ルーマンが指摘していたような超選択項とでも呼ぶべき分かたれなかった自己のストック的現象もあることだろう。自己を擁護する思想を用意するは容易である。自己を思考停止語として捨てるも容易である。しかしどちらに加担しても我々は『人の弱さ』を直視することの出来ない超越性(超越論性)をどこかに潜ませなければならず、いつも『苦しみ』を必要以上に苦しまなければならないような思想ばかり創ってきた。それによって多くの公益を作り上げてきたことは不動の事実であるが、またそれによって裏側を豊かにしてしまったことも事実である。我々はここで純理へアプローチするための準備を行わなければならない。それは拭われた石版やマジックメモでもない、ましてやワープロでもない。紙の上にペンを走らせていくような連続軌跡的なシステム史となる。それはあらゆる動因概念からシステムを解放することになるだろう。

(*) 土方 透[1996]『ルーマンの背後─プロローグ』 「ルーマン、学問と自身を語る」所収 土方 透/松戸行雄=共編訳 新泉社1996 4頁以下。

そこで我々は『心』だけの存在へと仮想的に回帰してみることにする。分かり易い比喩から始めてみよう。まず両方の眼球を剔出して捨ててみる。次に鼓膜と鼻腔を更に奥へと穿孔し、舌をなるべく根元から裁断してみる。そして粗悪な麻薬のようなものを使って触覚と内部感覚を司る神経の全てを麻痺させる。ここで脳だけを賦活することが可能なら、おそらくその器官なき喪失者は純然たる思考のみの存在性を獲得することになるだろう。ここで身体構造的なイメージを用いるとVR的なサイエンスフィクションを想起する方も多いだろうが、そのような話をしたいのではなく端的に心的な原初的段階を知るための比喩であることに留意されたい。あえて蛇足を述べるのならば、この器官なき喪失者は入力/出力の機能を失った思考空間のみに生きることになるので「内/外」の区別のない単一世界の住人ということになる。操作可能性も表現する機能もないにもかかわらず、そこに「生命」を期待できる存在はまさに完全なオートノミーと呼べるかもしれない。そしてこの自律的な単一者が生きる論理世界について考察してみると通常を生きる我々と本来的に変わらない原様相に気付くことになる。

良くある論述ではここで自律性を自己言及性に対応させるところから始めるだろうがそれに倣うことはできない。「私は私である」「私は私ではない」トートロジーやパラドクスは既に自己形式を前提にしたものなので、無から始まるオートノミーに該当するものではない。ここではオートノミーの自己充足による自己形式の発生論から始めなければならない。まず字義通りにとれば論理的な「無」には地平すらないように思える。しかし何もない物理的な「無」といったものは任意の区画を外部から観察する場合にのみ記述可能な概念であって、純理的な無とはたとえ階梯のひとつを占有していたとしてもプロセスの全体の中ではささやかな刹那でしかない。オートノミーから始まる認識論における第一場面(無)はその一性によって劣位へと後退する。しかしそれは消えてなくなるわけではなく、シークエンスのすべてを通してその論理基底にいつも潜在し積極的な活動に浸透することになる。無は現象全体の舞台を提供し全活動内容に臨在する。無は還元点として充足素の振る舞いを保障している。無を端的に語る場合それは古典的な二元論の範疇に留まるかのように「有生」や実在性を内属してしまう。しかしここでの「無」はそれ以上の意味を内包したものであり、有に対する無差別な対概念ではない。この局面は全ての「語り」を可能にする重要なものであるので、以下にオートノミーの前提として「無」を『有生的無』として定義していく。

一般的に無は何もなくとも無であり、有は可能性として無を前提にしなければ有ではないことを論拠に存在性を無に与えることはないかもしれない。無は前提や含意や定義項からなくなることなどあり得ないために無は定義不可能なもののように思える。スコラ的な意味での超越論的な挙止をみせる無は瓦解不可能であり、あらゆる論理に先行するものであるため、まさに絶対不可侵の第一性のように思える。無が被定義項となり何らかの述語や繋辞が積極的な意味で接続可能ならば無はその内奥に要素を享有することになってしまい原定義に違反してしまう。無はトートロジー以上の論述を斥けるという意味において純然たる『一』であるかのように透過的に纏いつく。

確かに完全なトートロジーなどといったものがあるのならば、それは『一』であるのかもしれない。しかしここで詳述を試みている『一』は何かを産出可能とする第一原因としての『一』であることに留意できるなら古典的な無の定義に甘んじるわけにはいかないことに気付く。我々が欲している無とはリングを描く循環性ではなく、定点なきエンドレスであることを忘れてはならない。そのためには『無』に対して実様相を賦与しなければならないのである。何処かに存在する無、脆く壊れる無である。

ながきにわたり「無」は被定義項として優性の位置価を与えられることがなかった。しかし一般的な論理学に依拠した「無」に何らかの真理値があるのならば、それは認識対象にはなり得ず、また産出現象の背景に配置することもできない。そこで定義項なき「無」は無効のものとして、無を『無意味』から『判断不可能項』へと変換したい。つまり伝統的な「無」とは無でもなければ有でもないパラドキシカルなものとして設定し、「有」の対立項としては存在性ある『無』を配置したい。我々は既に何かある場面へと不可逆な文脈を紡ぐ存在として投げ出されるために、消極的な論証によって有生の無を認めざるを得なくとも、それ自体を知ることができない。そこで論点先取的にそれを形容するに留めざるを得ないのだが、できうる限りその振る舞いを描写してみたい。

**

先に述べた器官なき喪失者が迎えることになる第一場面には仮定された有生的な無が確定的に存在しなければならない。しかもその有生的無は全ての可能性を可能的に含むものでなければならない。制約された無の措定はここで試みているオートノミーに決定論を与えてしまうことになり、後に重要になる意志の記述ができなくなってしまう。そのためこの無は有生でありながらも非有限であり先行的に無限界が約束されたものではなく、アプリオリに有限が否定されたかたちで存在する。つまり我々が本来問いを禁止しなければならないものとは無ではなく有なのである。「無から」ではなく「なぜ有から無が産まれたのか」と問わなくてはならない。この問いこそが形而上学の真のアポリアなのだが、ここで論述すべきことではないので論を先へ進めることにする。

原初様相が『非有限』であることの意味を確認し、有生の無が瓦解していく前論理過程を叙述する。非有限は論理的に無限と同義であるが、それが単一構造でないために、有限性を否定するかたちで現象する無限は単なる無限と内包量を同じくしているわけではない。後者はどこまで微分しようとも決して地平があらわれることのない完全等質な単一者であるが、前者は前過程的に過程を含み込む複合かつ有機的なダイナミズムであり、それは地平を能として含む無限界である。地平拡張が既に開始されたかたちで表れるため、それが即自的であったとしても観想可能な領域にそれを捉えることなどできず擬似的に有生的無は脱有限化することに成功し制約なき位相空間を提供することになる。またそのため視点から運動性を隠蔽し有生的無は静的に見えることにもなる。この空間はオートノミーの論理過程に対して先行的であるため、それが自己域における現象であろうとも受動的に提供されなければならない。それが始まりも終わりも不可知である我々の記述域の限界である。仮に有生的無が指し示す地平が観想域のそれと同期・同一もしくは超えたとしたら、それは生と死の直知を意味してしまいパラドクスすらない全き無へと変位してしまうことだろう。

有生的無は間断なく既にある有の素因を薙ぎ払い原初空間を拡張する。そこで整斉されていく空間は全ての可能性や偶然性を内包可能としたものである。つまり判断不可能な無すらも自己域へと取り込む可能性を約束していなければならない。これは単なる無とは決定的に異なる点である。伝統的な無を前提にした理論では創造的現象を描けても破壊消滅による無を描くことはできないはずである。それは還元的な現象ではなく後退や回帰を意味する超越的な可逆理論であり、人の性に反したものである。我々が「全き無」と思えてしまう第一場面から「何か」を創造的に現象化できるのは有生的無が蚕食する際に有の破片を軌跡として散在していくためである。それは形式の枠組みを『辺化』した無意味な未有意味化の質料であり有生的無の構造を意味する。それが枠ではなく単一的な『辺』でしかないため生得性を意味することなくオートノミーは形式から充足へと過程を自由に紡ぐことができる。類なき種を単位として総合的な関係を残していく有生的無はそれが構造・組織を成しているため確かに存在し『生きている』といえる。そして認識によって意味論的な構成作用を受けることによって有生的無は部分を殺されていく。しかし殺されることにより産出される有意味は認識なき有生的無にとって単なる有でしかなく、それは破壊の対象でしかない。ここでオートノミーは有を構成素集とし、無を構成素とすることがあきらかになると同時に、それらの混在によって我々は西洋論理の記述範囲を超え出ることにもなった。次に上述した生きる無/有とオートノミーを適切な場へ布置し、動因の残滓を形容から払拭して、その遷移なき励起性を叙述するための準備だけを述べておきたい。

***

古来より認識論から感覚与件のような認知レベルにおける形容記述の一切を排除してしまうと『地平』や『区別』が発生するシークエンスを理論的に描けなくなり、観念論の亜種はどこか懇願めいたメランコリズムを含意してしまい、行為へと導かない没道徳的な宗教のようなものとして批判されてきた。それは言語記号を筆頭とした全メディアが構造であるための拭い切ることのできないディレンマなのだが、ここでその非対称性を描ききるためにシステム域におけるプログラム化のプロセスを『動因』からではなく『視点』からの滲出・流出現象として捉えることにする。外部器官を前提にしたような言葉を用いるとまた誤読を招きそうであるが、ここでの『視点』は概念的な第一原理であり非受容的な『自己自体』を意味している。もともと視点とは実在域に占有する場を持ってなどいない。他者の眼差しの奥に潜む眼球を観察してもその裏側に視点など現れるはずはなく、また同様に自己の身体構造をいかに観察してみようともそれは理論の背後へと無限にまわり込み影すらも捕らえることなどできない。我々は描かれたパースペクティブを外挿することによって背理的にしかその存在を知ることができないのである。視点は自己を成すものでありながら絶対的死角に潜む自我であり、それ以上の遡源を拒否している。我々はこれ以降の考察においてダイナミズムやエポケーを捨てて、システム域に対して無空間的な世界観を与えることになる。

有生的無と有による競合を視点がフォーカスすることによってシステムはその第一場面を自ら直知的覚知・獲得する。これは能動的受動とも受動的能動とも捉えられる点が重要になる。自己域における原初に弁証法が形容として既に介在していることは他者一般発生の必然性を意味するとともにそれは単一的なものではなく自己内容を産出する視点原理と産出される場である有生的無の複合的関係による構成的な全体であることを明らかにしている。自己発生の不可知が包むものとはこの全体を意味していたのである。

我々は次にそれが視点であるがために地平が必然的に産出されることになる理由・過程を論じなければならない。

Metaforce Iconoclasm

-014-

2006