賤劣な嫉妬は他者の自由を許容することができず、支配統合の原理概念を産み出すことに辛苦、画策する。無能な似非者は不安や恐怖を払拭する学才がないために自己の虚構を有能なものから奪取する。その略奪を擬似的にも可能なものとするために社会は自己遂行的なシンメトリズムをいつからかイデオロギー化することに成功した。虚偽の開示、適合の形骸によって幻想を超えた虚飾が、それが虚飾であるがために個の本性を尊重することなく暴力的かつ不可避の重圧を加える(*)。対称化されたそれらに対して訂正や却下などあるわけがなく、無意味なメディアが心化され、本来的な『心』は無辺のどこかへ忘却させられることになった。哲学的テクストの知的消費のなさを知ればわかるようにそれによって我々は人類レベルで自己の心すら内観する力を失ってしまった。だから心の存在に気付いても心を創造・掌握する術を知らず、同程度に留まることに固執して自制なく戯言を並べ連ねようとする。そしてそこから我々は空転するシステムの周辺に産まれていくズレに対して「苦しみ」のオブラートを貼付けてしまうことになったのである。この「ズレ」は元々当然的な事実であって疑義を抱く対象にはならないもののはずである。我々はここでシステム/構造間における非連鎖性・非連動性を記述しなおすことによって安易な慰めなき苦しみの根絶を試みることにする。それは妥当な自己知を獲得可能とする道具となることだろう。
(*) 本研究室では言及不可なものに対して何らかの存在性を認めざるを得ない態度をとっている。そのため幻想ではなく虚飾という構造指向的な言葉が使用可能になる。もちろんこれは判断可能と述べているわけではない。
一般に「苦しみ」とは産出した構成素集に対して一片の構造要素も関係されることのないまま、それが自己域への構成要求を自ら保ち続ける場合に創発されるエマージェンシーとして記述される。閉鎖的利己性が前提となる現代システム論においても作動の可能性が無効化してしまうことを無媒介に当然的に描かれることだろう。それは行為規範となる情報を他者から与えられないことを意味するため、未来を含めた反省原理による自己制御は述べるまでもないことのように思われるかもしれない。かなわぬ願いを抱き続ける者が苦悩におかされ続けることは当然の酬いのことのように思われるかもしれない。しかしここで留意しなければならない。それは通俗的に描かれる「苦しみ」とは「関係」が『等価』と同義となる似非経験論的原理によって苦が無謬化され、捏造され、与えられたファンダメンタリズムでしかないといった点である。ここでまずこのプリンシプルを「関係等価原理」と呼び、批判したい。
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動因概念が有効性を保持しているシステム論では自己の作動継続の説明に苦心しなければならない。截然とした理論的区分のなきままに、その永続性をメカニカルに論述してしまうため、それらは往々にして永久機関開発物語的な空想的な錬金術の製作に終始する。河本オートポイエーシスですら連続創造を前提としているにもかかわらず、動因の再獲得・維持についての理論構築に拘泥している。作動の連続性を前提にしているのであれば自己の運動に組み込まれるものを自己、排除されるものを非自己(他者・環境)とするような関係等価原理は無用のはずである(*)。だからシステムは次回の作動を可能にするよう目論みながら現在の選択活動を行っているわけではない。それでは誤謬や失敗、苦は描くことができない。我々は超越論的な擬似到達を仕損じようとも自己の作動継続を保持するようなシステムを用意しなければならない。なぜなら苦は死を意味しているわけではないためである。苦とは偶然性であって本来的に内属したものなのではない。苦しむ必然性など寸毫もないのである。
(*) 河本英夫[1995]『第三世代システム オートポイエーシス』青土社1995 例えば221頁以下。
システムにとっての利己性とはシステム/構造の存続にあるわけではなく、単なる自己図式の再構築でしかないはずである。前進的であろうが後退的であろうが無関係に自己現象の中立的な知を求めて作動しているに過ぎない。分子化されたセットを構成素集の最小単位として自己組織性を描写する関係等価原理は接点なく同一位相に留まろうとする現象をどのように記述すれば良いのであろうか。プレ・セットのまま浮遊する構成素因も環境(他者)として位置付けるとでも主張するのであろうか。たしかに未関係の素因自体は構造的な論理文脈へとデコードできないために共有性がなく、積極的な操作性がないという点において環境的といえる。しかしそこに直知的な道具性がないからとしても、システムはこの素因自体の意味を把持している以上、それは間主観的な超構造体とは範疇を異にしたものにしなければならない。この局面を未分化にするとシステムは環境に遍在する他者的な意志を採取するような自己組成系となってしまい閉鎖性に違反することになる。
ここで未関係の素因自体を活動原理的なエントロピーとして理解することによって関係等価による批判の批判があるかもしれない。「同等の真理値を自体的に主張し続ける素因など初めから存在性のないものであり、苦や絶望はシステムの空転を意味するのではなく閉鎖的作動そのものである」とする主張である。どのような関係の断裂であろうと絶望の文脈を紡ぐのであれば、それはシステムの選択項であるとする反駁に対して、ここでは一般化されている現代システム論が謳う、未来を前提にした現在の選択原理を批判しなければならない。苦や絶望がシステムの空振りを意味しないのであるのならば「次回の作動を可能にするよう」などといった論述は不必要なはずであることを再度確認されたい。これは哲学/科学の区別が曖昧なシステム論が良くおかす誤謬であるので心的システムに則ったかたちへと後述するが(*)、その前に関係等価原理による還元・回収的機構を積極的に理解した場合の功罪を吟味しておかなければならない。
(*) さらに加え心的システムの理論構築において科学を批判材料にすることの批判があるかもしれないが、科学による越権的な人類記述が初めにあることを指摘したい。
イコーリズムによって抽象される素因はいったい何と等号化され構成素集となるのであろうか。何をたよりにして等価判断が行われているのであろうか。また等価・等号とはいったい何を意味しているのであろうか。これらは現代哲学においてもあまり触れられることがなくなってしまった質的飛躍についての問である。そのため空想めいた論述を想起して嘲笑する方が多く居られるかもしれない。しかし本論は自己域にありながらも背反し続ける素因を包摂するシステムの原様相へと迫ろうとするものであるため、それが諧謔的に終わろうとも避けるわけにはいかない。殊に関係等価原理はこの理なき局面を前景に含むアンチ・オープンソースであるにもかかわらず理論然とした態度をとり続ける不可解なものであるため、是が非にでも糾弾しなければならない。
そこで関係等価原理は真理対応説の異文なのかどうか確認することによって凝固した理解に切れ目を入れてみたい。古来よりある排他的な真理論である後者にとっての構成素集とは対象域での脈絡と無矛盾に整合化された文脈概念を意味する。これはその名称が示すように判断のコードを環境や他者が担うことによって条件付きの真理を作り出す非主体的な原理である。それは同一も複合も謳わない消極的なものである。「対応」は常に反証を含意した暫定性ある言葉である点に留意されたい。対応は概念の内容規定を一切含んではいないので真理の再構成可能性を保証している。そのため抱いた真理に対して主張から懐疑、または他者からの反駁までをも許容することができる原理として解釈可能である。つまり真理対応説は関係自体が目的となった系であり、原理を産み出すことなく既知のみを紡ぐ非自己言及的なシステムといえる。それは自己・動因・時間といった概念を不問にしていることになるのだが、これらの帰結は関係等価原理と共約不可能であることを以下に確認し、これを心的システムから還元性を排除する予科とする。
等価・等号は対応とは異なり、かりそめの関係化ではなく他者分析的な超同一的関係を意味している。ひとつの様相から全てのメタレベルを枚挙する能力を可能的にも主張できなければ、それは等価・等号を意味しない。対応は誤謬を許すが等号にそれがあってはならない。前者が構造域における関係と類似するのに対して、後者の様相は意味内容同化的な融合の手前で表相を辿り合う。他者を愛撫することが自己域の直知を意味する場合、それを我々は等号と呼んでいるはずである。等価・等号とは同化でもメタ記述でもなく機能的連動の永久保障であり、それは無限換言といえよう。ひとつの計算式がいくとおりものやり方で解答できるように、またひとつの解を導く計算式が無限的的に作成可能であることを我々は消極的にも主張できるように、それはシステムの重層的な構造化を同期的に意味している。等号概念は『神秘的』な自明性を要求するジャーゴンであり、これが機能構造主義と呼ばれたものの実様相である。
さらに等価・等号の不可解さはこれだけではなく、規定性を内属させたものであることをここで見落とすわけにはいかない。それはヘーゲル論理学的な『含意』の相をあわせ持っている。例えば我々は「X=Y」と主張する際に「X ≠A ≠B ≠C ≠D………」といった「それではないもの」を先行的にではなく論理的に知っていなければならないはずである。非自己言及的であるがために自他も環境も無設定にしてしまう対応概念に対して等号には必ず「周りの世界」が並存することになる。不完全な分化のまま第三者の存在を許容する点は等号律に特有な様相といえよう。この局面こそが、等号が全てを不問にしたまま関係を構築する対応とは異なるといえる最重要な点である。
ここで環境を第三として位置付けたが、等号は文脈性ある自己ではない一性と普遍的に関係化されて初めて実的な第一シークエンスを迎えるところが「自己ではないもの」の全てを「環境」や「他者」の一言で表す一般システム論とは決定的に異なっている点にも留意されたい。選択/非選択のコードによって始まるシステム論では環境ありきのもとに他者一般が表れるか、もしくは対象外のまま進行するかである。しかし等号律による世界創発に他者の不在はあり得ない。他者との準同一化によって自他概念が産まれ、世界地平に包囲されていく特殊な理論機構であり、伝統的な西洋的理解を超えたものなのである。等号律における「他者」とは我々が理解するような間主観的問題を一切含まない。それは単一のシステムによって複数個の構造体を組織化するようなプラトニックなイデアが垣間見えるようである。
初めから他者を届くことのない他我と知りつつも自己確保のために不即不離の関係を必要項とするメランコリックな等号律を知ることによって、それを機構化した関係等価原理を我々は批判することができる。上述してきたように等価・等号による自/他発生の原初段階における「スラッシュ」は通常描くような同一/非同一地(面)を記述原理にしていては知ることのできないものである。等号化された「自=他」において抽象される構成素集とは帰納的な普遍項のみであることに留意するなら、その間には浸透も間隙もないことに気付く。誤謬を記述外にしている等号律にとって自己と異なる他者の部分はそれがあろうがなかろうが認知真理域の外部へと配置されるため「同一機能による他構造」などといったファンタジーを関係等価原理は矛盾なく組み込んでいるといえる。またそのために等号は動因の再獲得を可能にしなければならないような理論機構であるともいえる。
代数によるメタ記述を含まない同一記述(トートロジー)では文脈的な遷移過程がなく意味空間の延長拡大がないため動因再獲得の問題は初めから問われることがないかもしれない。しかし異なる構造体を『同的』に関係付ける等号(同等)は外延の拡大があるため必然的に文脈が産まれ、意味の拡大生産が発生してしまうことになる。自律的な自己定義ができないにもかかわらず特殊をテーマ化できない等号にとって普遍からの乖離は許されない。そこで関係等価原理がいかにして自浄するのか考察してみると、それは改竄的な再構成を試みているしかないように思える。意味や可能性を不問にした対応では、そのつど関係構造を紡ぐことができれば良いので文脈からの飛躍からあらわれる過去との整合的な結節要求など記述域内に存在しないことになるが、自己言及性を無効にしていない関係等価原理にとって自己の非同一性は自己否定を意味することになるため解消しないわけにはいかない(*)。しかし『有限は最適を含まない』といった公理のもとにある等号は常に自らの越権を足枷にしてしまうことによって過去を含めた現在の連続創造にとらわれた「歴史」を歩まなくてはならない。関係等価原理は観察可能な記述レベルにあるので、そこでの共約はシステム自体ではなく「動的な構造」である。そのため「歴史」という言葉が使用可能になり、再構成は真理追究ではなく改竄であるといった批判ができるのである。
(*) 「間違った過去の自己」を環境へ再配置するなどといった命題は論外である。
ここでその循環性を整理することができる。関係等価原理は対象認識において観察可能な相互の行為文脈を一方向的に構造化することによって対応関係を築き、それを原初段階とする。ここでいかに可能的・静的な文脈性を見出せたとしても動因の獲得はまだ意味することなく、無意味に留まる不安に怯えた幼児以前である。等号律を原理にしているため自ら脱等号を含むかもしれない能作を起こすわけにはいかない。そこで関係等価原理は与件を待ち望むことになる。それが自らの外挿文脈と符合する場合、自己の構成素集として組み込むことになるのだが、この段階においてもまだ自律性の相をみせるには至らない。等号律にとっての基本様相は追従的であるため動因獲得の契機は『誤謬』が担わなければならない。述べるまでもなく誤謬とはアプリオリに創発される認識現象ではない。自己言及的なパラドクスは誤謬ではなく自己直知へと至る深化過程のひとつであって、それによって自他を失うわけでもなければ論理運動が抑止され停止されるわけでもない。パラドクスは何らかの抑圧構造をともなって解消すべきものとして表れる可能性はないが、それに対して『誤謬』は超克しなければならない壁として自らその姿を表す。黙視可能ならばそれは誤謬ではなく単なる思想的相違でしかない。関係等価原理は誤謬といったエントロピーを自己形式創発へと至るセカンドオーダーとすることによって、初めて動因を産み出し気付き、自律的作動を開始することになる。しかしその段階へ冗長なく至るわけではない。第一的な原理構造が誤謬を非包摂としているため、それはシステム瓦解の末期的現象として表れる自己要求ということになる。『自己形式のインスピレートによる自己内容へのアスピレート』それが等号律に依拠した第一循環である。
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関係等価原理は他者一般との並存によって社会/環境の地平を開拓する。自/他の連動記述によって非環境的な自/他の区別を行う。そして他者の自由が自己の存続を不可能とする前-淵において自己は自己を再構成するとともに自己内容の獲得活動を開始する。これは他我を積極的に理論機構の部分に含むと同時に人類と非人類全般の区別をも可能にするため至上の理論のように思われるかもしれない。しかしそこで度外視されている項目に気付く時、我々はそれが既に始まってしまった者達から賦与された非普遍的で権利のない従属原理でしかないことを知ることになる。この原理の重要なプロセスである自己の二重否定による自己肯定とそこへと至らせる他者の行為与件に注目してみよう。誤謬─改竄を経ることによる自己確保は反照的な自己訂正でも正当化でもなく、自己の絶対化である。それは誤謬を打ち消すのではなく抹消することによって間違いをおかさないシステムを用意する。神格の創造的営為とでも形容できるこの様相は様々な欠陥を孕んでいる。絶対化によって他者からの社会的積極性を遮断してしまうだけではなく、改竄のシークエンスを終了すると同時に自律性を失い、再度非能動的系へと後退していると思われる。自己の真理の絶対化とは自/他の平衡を意味するため種差を見出すことが不可能となり、学習と自己把持、自己現前化のできない「臆病な王」として自己知らずの文脈を形成することになる。そして決定的な欠陥部分はその不安を産み出している他者の行為与件を後行する相にある。それは経験論の亜種全般に潜む根本問題になるのだが、ヘテロノミーとは他者を必要項としているにもかかわらず、他者自体の第一動因の所在を無限後退させることによって喪失し、他者を描き出すことができない原理なのである。そのため等号律を基にして作動する複数個の構成要素を任意の区画へ投げ込んだとしても、永劫に社会系の発生を観察することなどできないことであろう。つまり関係等価原理とは初めから何も始まることがない作動理論であり、神や王を待望してやまない矜持なき理論機構といえる。そしてこれが「精神」や良識、コンセンサスを用意する認識理論として古来より政治的に利用され受け継がれてきたアイデアの骨格である。
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