我々は行為から不可避の存在であるがために、そして行為理由がなければ許されない社会形式に組込まれているがために目的-動因説による自己説明の論拠を万人が持たなければならないように不文律の強圧を受けている。目的-動因説は「目的達成」といった分節があるために人の日常的・本質的な生の連続性をうまく記述することができず、往々にして矛盾を産み出す。生の連続性がもつ本来的な優位性によって、その差異を充足即虚無として描いてしまった我々は無限産出しなければならないような欲望概念を捏造しなければならなくなった。
しかし際限なく無節操に湧出する欲望動因説に切り替えてみても、行為理由の記述可能性を第三者から排除してしまっては根源的な措定理由に反してしまうために、ここでもまた行為遂行完了を描き出すための反省契機が必要となった。そこで用意された信号が『幸福』である。後述するが幸福概念とは自己の境界域を拡大・延長・無効とした『シークエンスの挟間』である。そのため特別な相互作用を必要とすることなく社会的なハンドシェイクを可能としてしまう脱境界的な自/他同一化を担う中枢原理である。そのため瞬く間にコンセンサスの筆頭となり、無謬の絶対性を勝取り、社会参入権を得るための必要条件となった。アリストテレスの原因説よりはエピクロスの快楽原理の方が通俗的な理解を得やすかったように欲望・充足・幸福の図式は市民権を得るための特別な策は必要としなかったことであろう。
だがそれがコンサマトリックで安易な概念機構であるがため決定的に描ききれなかった点がある。カセクシス(欲望充足)以後の運動は欲望原理では描きにくい。「欲望が湧く/涸れる」といった比喩があり、またそこに幸福即空虚的イメージが含意されているように第一原理に無限性を与えた場合、その後のシークエンスに前提に反する「分節」を設けてしまうと論述・形容しがたい違和感が発生してしまうのである。
運動性や変化性あるものですら「言語記号」といったスタティックな媒体を用いなければ表現することができない原的な内属機能性からくるこの拭いきることのできない違和感によって人類史は古来より「幸福とは何だろうか」と問い続けることになったのである。ここで頻繁に取り交わされる『幸福』を日常どのように理論的理解を行なっているのか、またそれがどれ程に原理的に反目したものであるかを掌握することによって新たな有効性を保持した幸福概念のアイデアを以下に提示・再定義する。
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不意に「幸せですか」と問われた際に多くの方が「はい/いいえ」と即答するには複雑で重層的な論理プロセスを経なければならず、逡巡のシークエンスを経験していることと思う。他者の言葉を投げ掛けられることによって発生する時計ではかることのできない非物理的な『一瞬のとまどい』は自己の選択項が限定的であることを痛切に思い知らされる重要な局面である。論理的含意がアウェアネスといった積極的意味へと変化し、立ちはだかる刹那に原理と理論的理解の絶対的差異によって鉄槌を打ち込まれ、その修正を余儀なくさせられる。それまで非選択項としていた構成素集を採択項として抽象する際に自覚的な自己言及現象が起きた階梯こそが我々が希求する答を得るための直接の研究材料である。
この『はっとする一瞬のとまどい』は日常無自覚に何も考えずにいたために起こるわけではない。もし未定義といった含意が無意味であるのならば現理解とのズレを抱くことなく自己からの反照もなく連続的に受容現象が起こることであろう。「とまどう」といった運動の複眼的な重方向性はシステムが原的に単一体であることの証左である。それが複合的ならば初めから自己対立など産まれることなくパラレルな同一行為が可能となってしまうことであろう。システムは本来的に一元的な自己産出者であるためにセルフコンフリクトがありうるのである。そしてこのセルフコンフリクトにおける論理的な実様相は単なる排他選言的な前選択行為ではなく過去における抽象/捨象項の全てを現在において再産出(創発)する積極的なシークエンスである。ここで捨象項と述べたが、それは不必要なものとして廃棄処分したものでも単なる他者の言葉でもない。『一瞬のとまどい』といった自己懐疑において創発されるものとは現理解を括弧入れすることによって表れる『含意』である。これは現象学的還元的な原理把持へのモードであり、創り出されるものは「理論の理論」である。我々が自律的に自己の強度を整序・調整できる自己組織的な存在であるといえるのは論理段階のひとつに「自/他」ではなく「自/自」の二元的な一元論による擬似的な自己原理への「超えることのない跳躍」現象をコントロール可能な能力として内属しているためである。
この超越論的な反省によって我々はここで『幸福』について考察することが可能となる。通常素描される『幸福』とはそれ以上希求して止まないものがない満充の自己状態・アタラクシアである。この訓育によって許されたモードとはシステムの潜在的な「空虚」を前提にし、遍在する環境要素を自己域へと取り込むことによってそれを無化し、バランスをとるといった前現代的・動的平衡的な原理によって機構化されている。自己の原初は「無所有者」であり、それを埋めることを動因とするが、その穴を自己充足することができない「無能者」という定義が前提となり、その現自己と求める自己との空隙を非自己・他者から搾取・略奪することによって完全者となるわけである。ここで「完全者」と述べたが通俗的な幸福理解はあきらかに「脱自(エクスタシス)」の亜種である。主体的に自己を超越するのではなく専制的に他者を自己域へと越境させることによって作り出すシークエンスであるが、次回の動因の産出可能性を主張できないため「脱自」といえる。これが他者準拠的な脱自であるために完全な完全者となることなく無自覚に動因が再度発見されてしまい、非制御的であるがために幸福への違和感の発生を許してしまうことになるのである。
上述した幸福理解は空虚(無)が動因になっているので初めから「始まり」を論理的に導出することができない。それに加え超越概念が第一原理のため、その目的も「幸福=完全」といった描写不可能なものへと概念設定せざるをえなくなる。しかも自己制作性を少しも含むところがないため他律的超越者といった理解しがたいものまで作り出してしまうことになった。他者を取り込む非境界性が自己平衡を意味するには他者の自律性を認めることのない自己の主体原理に拠らなければならない。社会的な超越者の散在は確認プロセスを通過することなく無媒介に相互同一化が可能になるため幸福のコンセンサスは容易に構築され政策の要となり得たことは現行の社会が十分に証明してくれている。
ここで我々は他者の裏切りによって動因を再獲得するような幸福理論を捨てる準備をしなくてはならない。これまでの幸福は他者への憎悪の潜在が永続するばかりの空虚(無)そのものである。
前述したが一般的な幸福理解は自己産出/制作性を一切含まないために多くの誤謬を産み出すことになった。そこで当研究室が主張する心的システム論に則ったかたちへと『幸福』を描き直すことにする。そしてここに毅然と表れる『幸福』とは略奪的なものではなく確信的な幸福であり、誰からも裏切られることのないシステムの『平常』になる。
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システム/環境は乖離地平の上に立たされつつも関係化されている『永遠の超越』である。そのため心的システムの強度はニュートン物理学的な引力・斥力によって環境との平衡を保っているわけでも、サイバネティクスでもなければ、ホメオスタシスでもない。古来より強度についての問題はさまざまに議論されてきたが、それは「何故」といった目的論的な問いの立て方が間違っていたに過ぎない。「なぜ今まさにこの物体はこの形で、この大きさなのか」と問うてみても「終わり」ある目的論では生成流転といった素朴な事実描写はできない。何かのために何かを行っても心は次の場面を迎えていかなければならない筈である。また境界理論的な相互の交換や循環によって自己の位相化を目論んでみても時間論との相克が待っているだけである。環境との流通による平衡説が無効である以上、我々はこの局面に哲学的解答を用意するに留めなければならない。
心とは常に誰にも頼ることなく、ただ自己のみを手懸りにして開放的な様相を閉鎖系の原様相へと引きずり戻す自虐的な系であり、現在産出に限定された自体者である。本来的に「環境」を持つことのない原的なシステムにとって「周りの世界」とは自己の発生以前から包囲する先在者などではなく、制御外における存在形式を賦与することによって「設定された両義的な他者」である。自己深化によって項目数が先行していたように創発されるが項目内容までが伴って能動的に表れることはなく、それは自己形式/内容を保存可能な範囲内で充足される受容者に過ぎない。つまり一般的に唱えられる二元的な平衡説の原様相とは一元的な平衡であり、自己交換的な完結現象と言える。それは得るものもなければ、失うものもない流転の変化現象である。
ここで確認するが平衡の段階とは論理プロセスの最終であり最初のシークエンスである。そのため我々はこの帰結に対し、動因の再産出可能性の機構を加えなければならないように思えるが、連続性を前提にすることによって反動因論から始める現代システム論においてそれは無用である。我々は理論構築の冒頭で既に動因概念を捨てていたことを思い出せば、それが反前提的な叙述であることを知るだろう。即ち平衡とは終わりでも、次へ繋ぐ結節者でもなく、システムにとって同語反復的な自己の存在を知るための「超動的な平常」でしかないものである(*)。
(*) ここで動因の再産出性を捨てることによって「では現平衡が次回の平衡においてどの位置価を与えられるのか」と問いたくなるかもしれない。しかしシステムは前回のレポートで述べたように超文脈的な現在者でしかないため、過去は現在の亜種として含意するものである。理論機構において産出されるかもしれないし、産出されないかもしれないものへ確定的な部分を与える必要はない。拙論『無根拠性について』参照。
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心とはいつも独り静かに幸福を産出し励起する。瓦解に思える状況も心にとっては必当然的な日常の平衡でしかない。心は複雑な階梯を経て現在を自己へと向かわせる。幸福とは心にとって『今この一瞬の幅』といった素朴な現象である。
それは欲するものを欲しているわけでも、否定しているものを破壊したいわけでもないことを意味している。
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