芸術性理論研究室:
 
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011
無根拠性について

文学から学問へと至るまで今も色濃く纏綿し続けるキリスト教思想を理解するために新共同訳聖書を開いてみたはものの、その前評判とは裏腹の空虚な内容に落胆された方は多いことと思う。「人や宇宙の真理」などといった空想めいたものから現代生活においてもなお有効な徳を得ようとしても聖書にそのようなものを期待することは行為的カテゴリーミステイクであり、かつてアウグスティヌスが嘆き唾棄したように無為な読書に時間を費やすばかりである。

「創世記」冒頭において理論提示をしたのち「なぜあれだけ膨大な歴史記述に徹するのか」「なぜ特に内容のない系図や出自の叙述にページをさくのか」といった疑問はキリスト教が生まれた歴史背景や多くの宗教がうけることになった政治的な活用法を知ればある程度は納得いくことだろう。以下は経験的にではなく論理レベルからこの一般学説を描写しなおすとともに、システムの無根拠性・無性を考察するものである。

宗教発生の原初目的とは社会統合による集合の構築を眼目としたものであると通説的にいわれる。歴史年表の上になぜわざわざ「政教分離」などといった言葉があるのか考えてみれば容易に示唆を受けることであろう。しかしそれだけが目的ならば宗教ではなく武力による脅威でも可能なことであり説明として完全ではない。構造主義的に動機付けを論説してもインセンティブ(誘因)の枚挙では、なぜ社会が自律的ダイナミズムを得ているのか説明ができない。外部情報の入力によって行為の充足的決定が可能なら現行の社会空間にコンフリクト/パラドクスなどといった言葉はないだろう(*)。生命を自在に操作できない以上、我々の作品と世界の間には「静と生」の区別があることを知らなければならない。

(*) 多くの具象的態度をとる芸術家・学者が勘違いしている点であるが、作品とは認知情報と対応するものとして作家によって定義された未制度の記号であって、「見たもの」自体を描き写しているわけではない。もしそれそのものを描写しているのなら「花の絵」はやがて花のように枯れることであろう。

生のダイナミズムはシステムの自律性を前提とするが、自律性は必ずしも観察可能なダイナミズムを産み出すとは限らない。自己を静的に制御することも可能だからである。そこでオートノミーがダイナミック・オートノミーへと変異するにはドライバー(動因)が必要不可欠となる。ここで述べるドライバー(動因)とはアリステレス流の第二原因的な動因ではなく、既に作動している系が自己産出する構成素集によって飽和し、第二カオスとでも呼ぶべき論理段階へ滲み出るように産出される前エントロピーを確定的にエントロピー化する際にシステムが自己参照する枠組みのようなものであり、それ自体は静的に系内に存在するものである。それを古代の動因と区別するためにここでは「参照動因(*)」と呼ぶことにする(**)

(*) 第二動因と名付けたいところだが、それではシステム自体を原記述可能と定義付けなければならないため、ここでは使用を避けることにする。
(**) 現行のシステム論の主流は目的論だけではなく動因までをも前提とするが、それでは対象を見出せずにいる前行為的な論理段階を描けない。

参照動因によってシステムは自己の述語形式を産出可能となり、自己と他者一般との定義付けができるようになる。そのためこの動因はアプリケーションやコードとは相違するものである。システムが参照動因の形式概念を一旦得ると確定的に論理段階のひとつとして組み込むことになり、決して無効となることはない。なぜならそれによってシステムは原初的なトートロジーを脱し、述語によるパラドキシカルなメタ・プロセスを無限志向してしまうためである。述語とは定義項であると同時に被定義項であることを忘れてはならない。

一般的なシステム論は連続創造を初めから前提とするが、ここでは連続性が参照動因によって連続創造へと段階をふむように理論を再構築している。連続性は常に何かを蓋然的に産出していると言えるが、それは即自性のものであり、自己はそれを潜在的に知ることはない。参照動因が連続性に対して創造性を教えることによって初めてシステムは対自的な反省性を知ることになり、自己の存在(理論)に邂逅することになる。しかしここで出会う者とは自己だけではない。参照動因が述語を産出する担体であることに留意するなら、この段階は否定系へのシフトを意味している。ここで自己は他者一般を含む「非自己」とも出会うことになる。つまり参照動因はシステムへ「世界」を訓育する、二次的に内属されるヘテロ・プログラムということになる。

ここで理論と実践規範とを共に種として包摂する類としての「参照動因」を措定した。これによってシステム/構造間における相互浸透性が微分・積分され、概念の概念や制作行為等の局面を認識しやすくなるだろう。これは古来よりあるアポリアを再考察する際の契機を与えることになるが、ここで踏み込む準備もなければ、必要性もないので論を先へ進めることにする。

**

参照動因とシステムの共働によって述語を産出することにより複雑性の拡大と縮減が行われ世界創造(地平の開拓確保)が論理的に完了することになるが、この説明だけでは凡庸な叙述とかわらないスティールが出来上がるに過ぎない。そこで産出された「述語」が述語であるがために絶え間なくメタ・プロセスを志向する段階産出性を内属していることに注目してみる。これは個々の述語が含む意味内容に即した自己志向/他者指向といった区別ではなく、述語形式への一般総論であることに気付くだろう。そこでの主語が『私』であろうが「あなた」であろうが述語は自己の定義項を必然的な可能性として要求することによって論理段階の全体に有機性を与えているのである。ルーマンのシステム論が単にトートロジーやパラドクスといった個々の実様相によって存在性や機能性が左右される非普遍的なものを原動因と措定することに対して、この素朴な確認は心的システム論において重要な意味をもっている。ルーマン的な動因は社会空間内に認知されたりされなかったりする存在の蓋然性によって断続的な変遷過程を上手く素描するが、参照動因が産出する述語形式による「動因の有機的な動的化」は心的システム特有の連続創造性の描写に成功することになる。これは河本流のオートポイエーシスが言ってみたに過ぎない f(□,□,□,□……) を首肯性たかく理論付けてもいる(*)。ここでシステムの同一性を維持した変化の過程を改めて形容しなおすことになる。心的システムは現段階において産出した構成素を次のシークエンスにおいての産出機構の一部として自己還元するわけではなく、述語として産出された任意の構成素集からの反省的なメタ志向による相補的な創発連鎖によって自己域内のフォーカスを変えていく『自己深化系』である。自己制作や自己創造に対してここで『自己深化』という新たなジャーゴンを対抗させることは古典的な生得観念の復興と思われるかもしれないが、述語は充足的なメタ・レベルを志向しているわけではなく、そこには一片の可逆的なラマルキズムがない点に留意しなければならない。「りんごは赤い」という命題の述語である「赤い」が赤色域の中にある半無限にあるどの赤を志向し、またどの赤によって充足されるかは、その命題のメタ・プロセスを継承するシステムによって担われていることは述べるまでもないことである。自己深化とは創造的な自己適応であり、環境や理念的な目的論を意味しない。深化とは述語形式による必然的な創発現象であり、それによってシステム域の拡大や縮小があるわけでも構成素集の増減があるわけでもない。それは既知を創造することによって自己発見していく不可逆現象であり、既に含まれている意味を開示していく可逆的な作業ではない。

(*) 河本英夫[1995]『第三世代システム オートポイエーシス』青土社1995 207頁。

我々は参照動因の有機的な動的化によって次の比喩を知ることになる。『膨大な書架の中に隙間なく収められた書物の中からたまたま手に取った一冊の書に連なってそこにあるほぼ全ての書が音もなく書架から抜き出てくるようなイメージ』である。この行為的な比喩は初回に選択する書がどれか、その書がどこまでを全体として示唆し、次回においてどの書を指向選択するかは全て未決定、否、決定不可のまま行われているイメージである。例えばクザーヌスを知らないルーマン主義者がいたり、照明説を知らないアフォーダンス主義者がいたりする。これは語源との相補関係によって単語は支えられているにもかかわらず、語源を知らなくともその単語を用いることが可能であることの背景の形容である。

これまで論述してきた局面全体を無根拠であるが故の根拠遡源と言いたいところだが上述の比喩はそれ以上を含意している。「意味」の総論が文脈論であるからといって意味の意味へと向かう論理的運動はファーストオーダーの把握可能を前提とした循環ではない。「sはqである。qはyである。」という命題が論理的に成立し「ゆえにsはyである」と言えたとしても、前件と帰結の「s」は同一の原理によって産出されたわけでもなく、また同一の「s」でもない。システムは一度フォーカスした自己域を再度見ることはない筈である。それが可能ならば再会を再会として定義することができず、初会のみよって満たされることになるだろう。このメタ・プロセスの二度と戻ることのできない非循環過程の図式は円環でもなければ螺旋でもない。円環は既視感の連続性を示唆してしまうし、螺旋は確定的な第一原因の直知を可能としてしまう。線形であろうが非線形であろうがシステムの運動性を写像する図式構造を用意することはできない。この局面は前シークエンスを代表する述語によって決定化された形式枠を充足していく自己深化といった概念的把握までしかできないのである。

ここで根拠の根拠を無根拠へとは帰結させない。根拠がないことの論証は根拠を志向してしまうためそれは論理的越権であり、そこに甘んずるわけにはいかない。

本来「根拠」とは自分で自分を指し示さない可逆的かつスタティックな他者指向語である。システムが産出・把握することによって知り得るものとはすべて自己域にある他者一般であり、自己自体であり、システムの意志といったイニシアティブによって性や様相を変えられるダイナミックな現構成素集『今』でしかない。そのため過去把握とは過去のものとして新たに産出された現在であり過去自体ではないことになる。それが過去そのものの把捉ならば時系列のパラドクスによりシステムは自己を失うことだろう。つまり未来も含め、過去(根拠)とは現在との対概念ではなく参照動因の動的化による現在の形式枠内を充足するひとつの構成素集であり、本質的に同類でありながらも異なるカテゴリーに属するものなのである。それはシステムが不可逆深化をくり返す以上「根拠」や「根拠の根拠」に対しては一言の判断も下すことができず、無根拠とすら述べることができないことを意味している。

 

***

心的システムは述語形式を創発することによって根拠を求める運動から不可避となってしまう。自己を基礎付ける根拠とは自己を連続的に構成していく原理であるため未来把持(予言)もできぬまま行為から逃れられない縮減者にとっては至上の希求対象となる。古来よりこの不安を隠蔽するために不死の魂や神、系図、トーテム、姓といった多くのアイデアが作られてきた。その効力が衰退した現代では科学や技術を利用して多くの代案を用意するがそれもシステムの性質上、概念に限定されたあり得ないものでしかない。帰納的な根拠は社会を軋轢で満たしてしまうが、演繹的な根拠は問いただしても何も答えられない空虚な個人を作り出してしまう。

我々はここでプラトンを超えてシステムは死だけではなく発生すらも言及できないことに気付き、それによって妥当な自責と他者の尊重を知ることになる。

Metaforce Iconoclasm

-011-

2005