我々が命題の言明を可能とする普遍原理とは我々が不完全な縮減された個的存在(*)、非全知的存在だからである。完全なる超越者による命題が仮に提示されたとしても我々はそれを認知不可能とする。超越者による命題は完全な命題であり、有限の命題は無限の命題に包摂され、不完全な命題のみを述定することはできない。それは完全性の定義に矛盾することである。完全命題を認知する可能性は我々にとってあり得ない。これを偽と判断することは我々が個的存在性を有し他者、非自我と対峙、関係化される事実に反することである。超越者と我々の間には超克しがたき無限の差異によって隔絶している。
仮に我々が全知のシステム、ラプラスのデーモンを獲得したとして、獲得者は自らの死の予知に対し能動的に挑むのであろうか。死の確定記述を回避する術は全世界の活動停止のみであろう。縮減者である我々にとってラプラスのデーモンとは古典科学者・数学者の諧謔以外の何ものでもない。
(*) クザーヌス[1453](八巻和彦訳)「神を観ることについて」岩波文庫2001 20頁。N.ルーマン[1984](佐藤勉監訳)「社会システム理論(上下)」恒星社厚生閣1993。
言明行為とはその命題の真偽判定、内容如何に関係することなく、自体的にミクロスコピック(局所視野的)な個の存在性の主張である。主張とは意図的行為、パフォーマンスである(*)。超越論的反省を原理とする策略は越権的言及法によってプログラムされるが、目的設定は決定的に個の保存へと回収される。意図的な策略による個の保存は反省的なセルフレファレンス(**)を内属したシステム、『人類』の固有性である。故に言明行為(表現)とは知性、理性、意志による自己/他者定義を前提としたドラスティックな自己社会化、セルフコミュニケーションである。
(*) アルフレッド・シュッツ[1970](森川眞規雄 浜日出夫訳)「現象学的社会学」紀伊国屋書店1980 第3部第6章95頁。
(**) セルフレファレンス(自己言及、自己関係、自己準拠)は通常、ファーストオーダーに対する形容言語だが、ここで言う『反省的なセルフレファレンス』とはシステムの産出した構成素が自己、自我、他者へと全方位的無差別に指向する対自性の意味で用いている。限定された人文学的定義詞である。
最早、判断を他者に委ねた他律性は寸毫も残存してなどいない。ここには宗教原理、経済原理等あらゆる他者言及的規範、コンテクスト理論(*)の全排除による自己原因的、自己触媒的な芸術性原理があるのみである。他者産出者は自己と作品の間に把捉しがたき質的飛躍があろうとも自ら産出した他者的構造を自己構成要素へと帰属させる定義項を持たなければならない。同時に被伝達者、オーディエンスには定義項の開示要請の権利と義務がある。コミュニケーションに於ける確認プロセスは絶対的規範として要請されねばならない。何故なら構造即意味は事実錯誤だからである。コミュニケーションの本質とはモノローグであり、情報伝達不可能性が前提となっているが故に我々はコミュニケーションという概念を持ち得るのである。構造即意味が事実ならば初めより我々はコミュニケーション行為を行う必要性などあり得ず、言明行為を行うことすら不可能となり、『私』の永劫不在となる。
(*) フレーゲ[1884](土屋俊 野本和幸 三平正明訳)「算術の基礎」フレーゲ著作集2所収 勁草書房2001 43頁。
システム/構造の中間に存在する『/』は共存関係でもなく物質的相互浸透的関係でもなく、質的飛躍による臨在関係を表現している(*)。臨在関係とは方向性を指示指向する対応関係と意味内容の充足関係の区別によって成立する接続である。システムと構造は端的に恣意的(**)と記述されるようなオプティミスティックな関係ではない。システムは構造に対し質料的な確定記述を行っているわけでもなく、構造はシステムに対し先行的な選択圧を分与し制約しているわけでもない。システムは相互の論理関係を無矛盾に整合させるよう自ら要素をミスリードし自己欺瞞的なロジックを創発することによってシステム/構造を臨在関係化しているだけである(***)。システム/構造の間に不可分の紐帯などあり得ない。しかしそこには不可分なる指向性(フッサール)がある。指向性とは古来よりキリスト神学・三位一体論において聖霊なる神の愛として描写され続け、現代思想に於いても明確な記述、理論なきまま問題視され続けている不可侵領域である。そしてここに表現者の真の力量を測る局面がある。
(*) H.R.マトゥラーナ F.J.ヴァレラ[1970,1973,1980](河本英夫訳)「オートポイエーシス」国文社1991 74頁。
(**) ソシュール[1942](小林英夫訳)「一般言語学講議」岩波書店1940,1972 98頁。
(***) F.ヴァレラ[1979](染谷昌義 廣野喜幸訳)「生物学的自律性の諸原理」2・1・1 現代思想vol.29-12 66頁以下。
伝達不可能性・即・恣意的規範は誤読である。伝達不可能性には構造-環境が前提となっている。自我と非確定項の同発が不可疑の前提となっているが故に背反的な相互行為と伝達不可能性が同等性を保持したまま一律的に存在条件として懐念されるのである。
既に表現者の原理はあきらかとなっている。全てを知り得ることなく、多様な可能性を縮減することによって存続を計る臨在存在性である。それ故に我々は表現と生が同義的存在であり、必然の存在である。そしてここから表現者が満たさなければならない条件が最低三項目導出されることになる。構成概念、構造体、それら相互の質的飛躍を関係化する必然性である。その各々に対し表現者は先行的な確定記述を施さなければならず、相互行為を行う者の絶対条件である。そしてこれが「自己定義」の定義項である。
表現者は自己の三位一体論(セルフトリアス)を充足しなければならない。我々はシニフィアンのためにシニフィアンを制作している訳ではない。創られた意味を伝達するためにシニフィアンを制作しているのである。またオーディエンスは意味のみに感動する訳ではなく構造自体に感動する訳でもなく、必然の愛によって接続された精緻なる三位一体の秩序に生への縮減の可能性を創発し自ら賦活し感動するのである。またそうでなければならない。これは安易な実存主義ではない。特殊と普遍の喪失点への理論的目論見である。
ここでは構成概念、構造体についての経験社会学的批判は行わない。我々は理論不在のまま行われる非普遍的生を無意義と断定する。縮減する表現者にとって最大の優位性とは全てを知り得ない点にある。全てを知り得ないために我々は何等かのパラダイム設定によって半無限的な可能性(複雑性)を縮減し『愛』によって関係化するのである。
その内実は奇跡としか言い得ない決定連鎖である。伝達不可能にもかかわらず選択しなければならない。選択するためには根拠となるコードが必要になる。根拠とは他者指向言語であり前提に反してしまう。また意図的行為とは意図自体を実現化している訳でなきにもかかわらず(*)自己行為を『自己行為』としてフィードバックしなければならない。言うまでもなくここではウィーナー的なサイバネティクス理論は通用しない。
(*) 後期ヴィトゲンシュタインに特有の描写である。ヴィトゲンシュタイン[1936-1949](藤本隆志訳)「哲学探究」ウィトゲンシュタイン全集8所収 大修館書店1976。
我々は空転し続けるシステムを生きている。決して構造自体と意味を共にしている訳ではない。リアルとは物自体、経験自体、位相空間内に遍在している訳ではなく、自己自体に創発し沈潜していく。我々の指向的観念(想い)は叶うことなく定在し、意図は決して実現化されない。我々の生とは死ぬことすら不可能な絶望である(*)。ペシミスティックな表現の全てが我々が個を保存するための条件であり絶対の事実である。それを拒絶し伝達、実現化するということは個の否定、自己否定にほかならない。夢が叶ってはならない。想いが伝わってはならない。我々は永劫に孤独に生きなければならない。
(*) キュルケゴール[1849](斎藤信治訳)「死に至る病」岩波文庫1939,1957 第一遍C 27頁以下。死の経験不可能性を述べているわけでもアニミスティックな主張を行いたいわけでもない。安易な実存主義的生の定義の無効を述べているに過ぎない。それは錯覚であり、全ては非現前領域内での生である。
にもかかわらず我々は不可避の臨在関係を構築して行かなければならない。質的飛躍という局面を論証知へと高めなければならない。
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