芸術性理論研究室:
 
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006
信仰と前提

距離感の無効化を実現するほどのコミュニケーションツールも科学という演繹的絶対者も不在であった西洋中世において、その社会システムの免疫機能の担体は絶対的超越者である『神』的概念に委任せざるをえなかった。地平なき領域において初めて地平を確立する場合、それは無根拠な暴力によるものである。初めから根拠があるのならば地平を引く必要もない。しかし11世紀末カンタベリーのアンセルムスが『プロスロギオン』によりそこへ論理的暴力を加えることによって神学はスコラへと開化した。それはそれまでの暴力を批判可能な対象へと変貌させることであった。つまりアンセルムスは皮肉にもキリスト教を瓦解へと向かわせるエントロピーを創造した嚆矢であった。

アンセルムスはその前著である『モノロギオン』において用いた前提豊かな論法に対し自己懐疑の念に苛まれていた。そこで彼は権威によって設定された全ドグマを放棄するメソッドを選択することになった。それは他者プログラムを無謬的にインストールするヘテロノミーから段階的に自律性へと接近した事件であった。アンセルムスによる事件とは論理的な『神の存在証明』である。絶対者の論証とは前提を自己言及の無限循環へと投げ入れることを意味する。しかしアンセルムスの推断はそのパラドクスへと介入する以前で立ちすくんでいる。アンセルムスの論証を要約すると以下のようになる。

『神は最大のものである。神は概念的に存在し、かつ実在する可能性がある。先行的な概念による対象はそれが観察による実在証明がなされた時、実在者の方が大なる可能性がある。(実在空間は概念空間より大である。)もし神が概念的にのみ存在し、それより大である実在空間に存在しないのならば最大である神が最大ではないことになり、神の定義に違反する。故に神は存在する(*)。』

(*) カンタベリーのアンセルムス『プロスロギオン』吉田 暁訳 中世思想原典集成7所収 平凡社1996 189頁以下。

可能性から必然性を導出したアンセルムスの有名な『神の存在証明』も神の最大性、神の絶対性という前提定義がなければ、その見事な論証も無意味となってしまう。その無・論理的な自明性がトマス・アクィナスに容認できなかった失意点である(*)。(内容に関しては概念と実在の同質的記述に対し指摘しなければならない。システムに対し環境の複雑性の増大事実の前提はルーマンの社会システム論にすら残存している。システムと環境は乖離関係であるため本来的には類推といった連続記述は誤謬のはずである。しかし本小論のテーマから外れるのでここで言及は控える。)

(*) トマス・アクィナス『神学大全』山田 晶訳 世界の名著20所収 中央公論社1980 第1部第2問 117-136頁。

背理法による論証は往々にして論点先取であり何の説明にもなっていないか、どのような概念・ファンタジーすらも論証可能としてしまうものである。そしてアンセルムス以降の中世スコラ神学において盛んに論議された神の存在証明はほぼ背理法によるものである。自然学的因果律による原因連鎖の無限遡行の拒絶である。(この態度表明も縮減者尺度が前提になっていることを忘れてはならない。)

トマス・アクィナスの頃にはイスラーム圏から様々なアリストテレスが輸入された。アヴィセンナ(イブン・シーナ)、アヴェロエス(イブン・ルシュド)等、原因論や不動の動者に触発された(アリストテレスではなく)アリストテレスを解釈、敷衍した思想が拡大充満していた。我々の観察対象となる存在者は必ず自己以外、他者による原因によってその存在性を与えられる。それは存在者の原因となる存在者、その原因となる存在者の原因となる存在者、その原因となる存在者の原因となる存在者の原因となる存在者…………という遡源の道を開くことになる。しかし原因が無限に遡行可能ならば面前の存在者の存在事実が論証不可能になってしまう。それ故に第一原因は存在し、それを『神』と呼ぶ。

我々はプロタゴラス『人間尺度論』からフッサールを知っている。縮減者であることの特性、条件付きの至上主義の倫理を知っている。トマス・アクィナスが超えられなかった点はここである。超越と縮減の拮抗による『神・学』という形容矛盾のディレンマがトマスの唐突すぎる最後を招来した。(そして時代は神秘思想へ移行することになる。)

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我々は位相空間内に生きているわけではなく、世界に臨在しているのである。モノローギッシュなコミュニケーションをダイアローグ化するのも空転するシステムが自己概念から逆流的に要請される愛による連結保存を可能とするために必然的かつ擬似的に脱・モノローグ化する自己適応の狡知である。本来的に無性である我々が人間的機能の原理や様々なプログラムを産出、自己賦与するには何らかのゼロ・ポイントの設定が不可欠である。人類史とは正にそれを巡っての探究史である。

神、王、芸術、科学技術、思想、経済、俗なカリスマやアジテーター、インフォーマルな親族、恋人や友人、意味が剥離した情報自体。古来から現代に至るまで人類は自己を照明するための批判的対照者、その座標軸となる『絶対者』もしくは単なる『他者』、自己と他者のコード担体や端的な捨象項を求めてきた。それが自己も他者も包含しないマージナルな対象は精神のカップリング体として機能し、非支配項である自己対蹠者は自己を摘出する意志を前景化してきた。時代や個人の状況によって対象の質は異なるものの、それらは皆、非同質的縮減者が無根拠であるが故に必然的に行わなければならない形式的な越権行為である。

無限の差異、無限のカテゴリーミステイク、非同質関係にも拘らず関係化しなければならないその局面を跳躍するのは知性である。臨在的縮減者である我々は知性の発生までは必然としている。センス・データーは認知者固有のものであり、同定行為に普遍の絶対性などありえない。知性が産出するものは全てが『偽・知』であり、知性の本質とは暴力である。そしてその暴力によって産出されたプログラムを活用することによって多様性を縮減しシステムの活動性を行為化するものが理性である。この段階では暴力は自己回帰的に循環しシステム域に定在している。しかしここに社会・共同体概念が混入しイデオロギー化してくると暴力が恐怖へと変貌する。共同体は社会文脈連接の永続をメルクマールとして社会プロジェクトを行う。それは無根拠である文脈のトートロジーを攪乱隠蔽によって脱トートロジー化する背後要請によるものである。これは未来自体ではなく過去自体の評価保存のために未来自体の制約規定という意味で恐怖的暴力である。これは社会システムにおけるセルフ・ハザードである。過去が現行システムの産出規定を行うということは蓋然性産出の可能性を先行捨象することである。存続可能性の拡大のための共同体が共同体であるが故に招来する古来よりあるディレンマである。共同体とは前・人間によって理性を暴力化し非・人間化を行う退化現象の担体である。教育内容の正当性など脆弱な存在性を暴力によって原初の無根拠を改竄し絶対化を計っているだけであり、なんら普遍的権力があるわけではない。(形式発生の絶対性と内容の絶対性は非同義であることを改めて指摘しておく。)

他者言及性をコードとする要素産出者による社会の原初形態において中心者の担う役割とは消費される絶対性、その幻想性にあった。ここには主奴の弁証法ではなく奴隷主体性が主導原理となっている。シャーマンの予言や村の権力者によるフォークロア、天皇のスケープゴート説、民俗学や文化人類学からのシステム論的レポートはみなボトムアップ的暴力によって空虚な奴隷を慰めるように社会が形成発生した物語を伝えている(*)。探究史とは民衆による無慈悲、無内容な残酷なまでの絶対者の蕩尽史であった。絶対者は免疫機能を司る主体ではなく幻想的主体である複合的な奴隷達による無批判な設定によってその機能性を内属した存在を賦与され時の空隙をうめ、擬似的な自己概念、自己根拠を発生、保存する手段として利用された玩具に過ぎない。

(*) 平易なものとして以下を挙げておく。小松和彦 [1989] 『悪霊論』 ちくま学芸文庫1997 殊にI,II参照。

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我々は非知悉的縮減者、縮減性である。そのために知性による選択を必然とする。もともと全知可能ならば知性など必要とはしない。知性とは我々が本有的に不可知性であるが故に必然的に産出する形式素である。それは我々が何らかの活動性や行為へ至る論理プロセス段階において『前提』設定を絶対条件とすることを意味している。ここに真理という超越概念が対立項として隆起する。真理という超越者による恐怖を払拭するために捏造による自己真理である『前提』による対抗によってかろうじて平衡性とダイナミズムを獲得し、瞬間毎のシークエンスを連接可能としている。

我々は決して絶対者にはなりえない。この縮減者による非絶対性の絶対的言明というパラドクスは脱しようもないほどに我々を呪縛する。前提の発生論はどこまでも無根拠な暴力によるものである。その暴力による恩恵を受けなければ思考活動すら不可能とする。前提とは脆弱かつモータルな我々にとって非決定的な宿命なのである。反証主義もその暴力による連鎖がなければ始りも変遷も不可能とするだろう。暴力による普遍性と暴力による無限暴力劇との区別を行う価値コードなど再度暴力を産出するに過ぎないことは自明的暴力である。この発生的局面において宗教と科学の同義性がある。人間の生とは宗教性を不可避としている。

我々は真理を把捉不可能とする。どのような一片の知識も得た瞬間にこの知的枠組みの隙間をすり抜け裏切っていく。無限に追い求めようとそれは無限に身を躱し続けるだけである。『もし人間がただ自分の知りうるものしか信じないならば、もはやこの世においても人間は生活することができなくなる。実際、誰かを信じることなしに人間はこの世でどのように生活することができるだろうか(*)。』トマス・アクィナスや当時の神学者達が気付いていたこととは恐らくこのようなことであったのだろう。

(*) トマス・アクィナス『使徒信条講話』竹島孝一訳 中世思想原典集成14所収 平凡社1993 732頁。

Metaforce Iconoclasm
Thomas Aquinas
Thomas Aquinas
図版:マイケル・コリンズ&マシュー・A・プライス[1999]
『キリスト教の歴史』
日本語版監修 間瀬啓允 中川純男
BL出版2001 113頁。

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2003