芸術性理論研究室:
 
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007
複雑性の拡大について

システムは無限であり、かつ無限ではない。システムは有限ではなく、かつ無限ではない。

システムはパラドクスやトートロジーを用いた否定神学以降の神秘神学的にしか記述できない。システム論は往々にしてシステムを前提化した論点先取で彩られている。なぜなら自己意識にとってシステムとは無媒介な環境であるからである。自己概念である形式/内容は構成素域に属するものであり、それがシステムへ干渉しては記憶的な保存現象の説明が不可能になってしまうであろう。仮にそれを否定すると、現段階の素因が次の段階においてデコード不可能な非自己として排除される現象が不断に起こることを意味してしまう。我々がどれほどに非線形的、非同一的に振る舞おうと、何らかの同一的記述が可能であるということを忘れてはならない。無意味な現行為の意味化可能性はシステム存在の無謬性によって保証されている。それによって我々は不安を抱くことなく複雑性を縮減し、現在行為を選択可能としている。(システムの存在証明は中世神学における神の存在証明と同様に背理法を用いたものである。「何の説明にもなっていない」という批判を黙殺も封殺もすることなく、単に前提化ないし保留することによって現代システム論は研究されている。)

N・ルーマンによって術語化された「複雑性の縮減」というジャーゴンはハイデッガーを越え(*)、クザーヌスへまで遡源可能である。行為主体の選択による飛躍の局面を叙述する重要な鍵概念である。ルーマンは保留された可能性に対しては論述してはいるが、多様な可能性を縮減する原理については黙視していると思われる。以下の小論はその局面について述べたいと思う。

(*) ルーマンの著作にハイデッガーの引用は見当たらない。

初歩的な確認を述べる。まず、ここで言う「複雑性」とは「ほかでもあり得る可能性」という意味である。世俗界にあふれる「自由な行為」という言葉は理論界においては形容矛盾であり、それは生を寸毫も意味しない。自由とは可能性群が枚挙された未規定的な生以前の論理段階を意味しているのであって、行為以前の段階のことである。それは生も死も共に意味などしてはいない。我々が生性を実現化するということは瞬間毎に任意の選択原理によって複雑性を縮減し、任意の選択肢を選択し目的遂行的に行為するという決定連鎖によって可能としている。自由を不自由化すること、それが生である。そのため選択原理によって起動するシステムに必然的行為はありえない。我々はどれほどに危険な状況に追い込まれようと回避行動を実行しなければならないわけではない。その危険に対し臨むことも、そのまま自死することも、まったく非整合的な諧謔的行動をさえ行うことが可能なはずである。選択実行のプロセスにおいて環境からの選択圧とは対応関係に限って有効性があるに過ぎない。環境はシステムの行為可能性としての情報を提供しているかように見える(*)。しかしそれは外延的行為、行為の形式であって、行為の内包量はシステム固有の強度による創発性にかかっている。つまり縮減の原理の発生論が不問に付されているために理論の可塑性が低減してしまっているのである。

(*) 言うまでもなくアフォーダンスによる環境定義である。

ここで可能性をアリストテレス的にデュナミス/ハビトゥス(ヘクシス)へと二分することから始めたい。前者をプロパビリティー、後者をポテンシャリティーと換言すれば理解しやすいだろう。ここで言うプロパビリティーとは可能性の可能性であり、ペルソナなき可能性である。それはシステムの無限/非無限性の無謬性を先行的に疑似概念化したものである。それによって不可知のシステムを越権的に言及可能としている。そしてポテンシャリティーとはシステムの加速度、経験可能性を補完し、質的飛躍における誤謬、懐疑、自己欺瞞を封殺するシステムが自己に対して犯す狡知である。「複雑性の縮減」の説明の際の可能性とは潜在的可能性という意味合いが強く、可能性の限界領域がシステムにとって自明のことのように論述されている。これではまるでシステムが自己の全体を確定記述可能と述べているも同義である。恒常的な閉鎖系でもないかぎり、それは不可能なことである(*)。行為者は複雑性の縮減を行う以前に複雑性の拡大を行っている。複雑性の拡大とは蓋然性の潜在化であり、可能性の創造である。または潜在的可能性からの幅のある抽象である。それが仮に単一のものであったとしても選択実行の前に選択可能領域の把握ないし把捉が行われている。

(*) ルーマンは古来よりある自己言及性のアポリアをシステムの動因として論述するがここでは採用しない。構成素信仰によるロゴス至上では心的システムを詳述できないことは説明を要しないことだろう。

システムは目的遂行的、適合的に選択実行を行うが、それは擬似的なものであって、字義通りに遂行や適合しているわけではない。システムと行為は相互不可侵の関係である。自己行為に対するシステムの事後判断は原理的に自己欺瞞である。行為前後では構成素の変化によってシステムはコードを組み換えている。目的産出時のコードと判断時のコードは同一のものではない。ファースト・シークエンスとセカンド・シークエンスは同一、同等の関係ではなく同一性があるに過ぎない。システムはプロトタイプ・コードを産出、所有不可能としている。そのためシステムは判断時のみに利用可能なコードによって目的の再産出から判断までを、そのシークエンスで全て行っている。行為判断とは受動的なフィードバックではなく、常に能動的な新たな関係化によって成立している。システムは自己を投企するよう目的を産出し、それを超えるよう行為し、更にまたそれを超えるように判断を行っている。現行為はシステムによって先行決定されてはいない。その文脈化は更新されたコードによって恣意的かつ創造的に行われる。この複合的な線形を単線形的に再構成する愛によって我々は同一性と時間概念を持ちえている。

構成素域に恒常不変のものはありえない。厳密には構成素の不変が認められても、その文脈化、意味は非普遍的である。そのため拡大と縮減に関する詳述は論理プロセス的記述を超えざるをえない。拡大のコードも縮減のコードも共に自らを機能させている間にさえ自己再構成は継続している。この局面においてコードは自己否定に苛まれプロセス終了の判断が不可能になる。ファースト・シークエンスにおける判断内容がセカンド・シークエンスでは適合しないことやコード外のものになっていることもあるためである。これでは構成素域における関係化の無限増殖という理論立てになってしまい、段階的論述もできず、縮減が縮減として描けなくなってしまう。我々はここでコードという言語を一旦放棄せざるを得ないことに気付かされる。システムの非延長性を記述するには截然とした言語はなじみにくい。そこでコードを「愛と恋」に代換してみる。これによって我々は境界なき心的システムの記述可能性の拡大を企てることになる。

複雑性の拡大/縮減の原理を換言すると規範であり、それは自己概念を前提としている。自己であるためには拡大/縮減は不可避である。ここではシステムが自己概念を必然的に産出するとは限らないことを忘れてはならないが、システムの無性の湧出による一性という前提は揺るぎようがなく、如何なる生命体もその一性によって拡大/縮減の論理プロセスを経て、行為者としての実現化を企てている。そのためここで言う自己とは必ずしも反省性を内属したプログラムを意味してはいない。『複雑性の拡大/縮減』は『システム』とトートロジーの関係ではない。システムだからと言って複雑性の拡大/縮減を行うとは限らない。内属機能と獲得機能の混同を払拭することはシステムへの段階的接近である。

経験科学的なシステム論において複雑性の拡大はシステムの環境への適応可能性の拡大を意味する。しかし超越不可能性を前提とする心的システム論では採択できない。環境への適応/非適応はシステムが自律的に関係化している結果の二次記述に過ぎない。本小論において複雑性の拡大とは自己回帰的自己概念発生システムが必然的に結果する自己認知的自己言及による相互前提的な自己適応可能性の拡大として定義される。これは伝統的な二元論の残滓である。拡大は自己を必然的に帰結しないが、自己は拡大を前提とする。構成素の関係化内容が単一的連続であったとしてもそれを自己とは呼べない。単一的システムは全てが総体として自己に帰属するために区別の記述機能を発動させる必要性がないからである。自己とは自己言及性のパラドクスを擬似的にしろ超脱しなければならない。自己の発生論や自己と狂気の区別が困難であることもシステム自体がシステム域内にありながらして同質的超越者であるためである。我々の記述域は構成素域における構成素への自己循環である。

ここでは自己概念発生論は問わないが自己が発生するには複雑性の拡大が絶対条件である。自己とは自律的に創造された『芸術』である。それはシステムに内属した愛が構成素域に浸透した後天的、創発的なプログラムである。内属した愛とは自体的な自己愛であるために自己は構成素域に何らかの反省・性を伴ってシステムより湧出してくる。(自己の選択的選択が淘汰的選択へと飛躍する局面をここでは言及しない。)構成素域に絶対唯一性が可能ならば我々は区別も時間概念も所有不可とすることだろう。湧出した愛は愛自体ではなく愛によって産出された普遍的に愛を対応者とする線形的プログラムである。システムは一度、自己概念の区別と関係化を産出すると自己からボトムアップ的、否、アスピレート的(*)に拡大を要請し続けなければならない。

(*) システムと構成素は同質的な相互環境関係であり、位階秩序的な叙述は不適切である。インスピレート/アスピレートは本来、神秘的な言語だが『神』を斬首した後の思想界(本論考)においてその同質性と伝達不可能性から価値的意味を非内包するものとして用いている。

システムの一性と愛によって自己形式素は必然的に産出される。しかしその形式内容はそのシステム固有の強度によって創造され充足する付帯素である。自己とは形式の決定論と内容の非決定論の相互浸透によって発生保存される。これは通俗的な『本当の自分』というものは探究的に自己発見可能なスタティックな潜在素ではなく動的に創造しなければならないことを意味し、安易な自己肯定は自己形式愛であり、縮減者ならば必然の利己性であることを意味する。さらにこの世俗思想界に纏綿し続ける誤謬はカント出現以前の西洋思想における観念論と経験論の拮抗に類似している。形式とは超越論的に発生機能するが、その産出内容はシステムと環境の対応契機によってその連接過程を自己創造するものである。システムは無性の愛によって無分別に素因を産出し、かつ文脈性をも湧出し続ける。この自己矛盾的な内属性が構成素域に複雑性の拡大を惹起することになる。複雑性の拡大はこの二重の決定性によって自己を非決定的に決定する自己創造のための前提となっている。

複雑性の拡大によってシステムはその固有の強度を非普遍性へと至らせるため、多様化は自己否定のように見えるかもしれない。複雑系は単純系に比べその強度という点において劣位にあるかのように思われるかもしれない。しかしそれも端的な井戸の中の偏屈者と不断の自己批判による超越論的な学者とを比較すれば容易にその相違点の理解が可能である。前者は字義通りの閉鎖系であり認識論を非所有とし自己創造、再組織化なきダブル・スタティック・マシーンだが後者は自己を対象化するかのごとく無媒介に環境を先行する超越論的なスタティック・オート・ダイナミック・マシーンである。一般に環境への適応度によって前者を批判するがここでは伝達不可能性によってその批判説をとらない。ここは自己適応の度合いによって批判するべき局面である。システムが論理プロセスを終了し起動を開始しはじめるまでにシステムは環境の要素について選択/非選択を行なっているわけではない。それではシステムが環境を確定記述可能と述べているようなものである。システム/環境は相互超越関係であり環境に適応するか否かはシステムの記述範囲を超えている。その判断は他者である第二次観察者によるものである。絶え間ない黙殺によって固執するだけの自己完結者とは増殖していく構成素因を組織化することなく散在するにまかせ、自己/環境の描写を行なわない。これは反省を担う第一次観察者・超自我の不在である。ここでいう超自我とは『/』の原理担体である境界者・免疫を意味している。自己完結者は自己と他者の関係化を行なわないという点で非認識系である。非認識系とはそれ自体による一次観察はもとより、関係化の機能を発揮しないため他者によるニ次観察によってすら記述内容を空疎とする恋をコードとするシステムである。非認識系は文脈化を行なわないために意味概念を所有せず、どのような現象が起ころうと起こった事にはならない偽・臨在者である。システムは端的な実在ではなく整合的な意味であることを再度想起しなければならない。それに対して後者の認識系は環境との直接媒介を行うことなく他者を先行記述する。認識系はファーストオーダーからの一性の要請を産出保持すべく連続文脈化を行っている。それによって意味が豊饒化されるにもかかわらず、他者記述を行うには一性の受容体である自己形式によって支配項を自己として非支配項を非自己として区別、選択することを前提としなければならない。無媒介にその前提を充足しているからこそ認識系は超越論的システムと形容できる。この認識系は不断に現前/非現前の区別なく一般類型としての強大な他者を設定し対峙し続ける。この先行論争における敗北者は衆愚として、勝利者は一人間として存在性から『性』を抹消する。ここで敗北しようが勝利しようが自己回帰性の支配、セカンド・リカージョンという段階の介在という点で認識系は自己適応的である。自己/非自己の全てを構成素域内に内的外延化し、この非直接的な環境記述によって自己を系列化するシステムは自己適応的と呼べよう。

複雑性の拡大は自己形式発生、自己内容充足を必然的に現象化する決定因ではないが、後者は前者を絶対的に前提としている。それも一回的なプロセスとしてではなく、不断の継続として要請している。複雑性の拡大の一次記述によって自己形式は自己内容を補完し、自己形式の形式化を図っている。それはシステムの変動性を現象化した構成素域における様相である。

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プログラム域は脆弱である。脆弱でなければ思考も経験も不可能である。しかしそれをそれとして可能とするファーストオーダーは無性でありながら一性の無謬性を照射し続ける。無性は指向性として、一性は原理としてレトリックされてきた。前者はニュートンからフッサールへと至る近代・現代思想を後者はスタティックな第一原因や神を産み出した。相互黙殺による絶対準拠の論争史はシステム/プログラム間における同質的相互超越関係による把捉しがたいディレンマによって編成されたものである。ただここに横たわるアポリアが我々に確信させることとは「原蓋然性が蓋然性として記述され潜在素となり自己充足化のためにコードのフィルターと接触した時、その瞬間のみが我々にとって認知可能な唯一の創造の局面なのである」ということである。

縮減以前のディレンマに苛まれている芸術家は何も創造していないわけではない。複雑性の拡大という階梯で創造は行われ、かつ終了しているのである。

「自己を創造する。」心的システム論においてこの命題は同語反復である。

Metaforce Iconoclasm

-007-

2003