芸術性理論研究室:
 
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008
肯定系と否定系

遍在する構成要素を統合し社会という系を形作ることが第一目的であった未開社会において価値規範の発生原理は事実超越型であった。共通了解的な概念の拡充なきまま本来的に多様な可能性を所有した自然的人間を肯定することは「結束された社会」へとオリエンテートできないためである。そこでは徹底して人間を否定しなければならない。非境界的な自然状態に浸透した未定義、未規定な多数者へ王や神的概念といったエントロピー(*)を投入することによって種差を産み出し社会システム固有のダイナミズムを獲得編成するにいたった。接近しようにも接近できない不可侵なる永遠の超越者(**)を志向対象とすることによって共同体社会は永続するかに思われたことであろう。それに対して現代社会が採択している価値規範の発生原理は事実即規範型である。社会が複雑に環節化、機能的分化を果たし個々の複雑性が極度に縮減することによって余暇を持て余した者たちが帰着した結論とは超越者への接近不可能といったファンタジーによる欺瞞の暴露ではなく、意識構成素域にオートノミーを発生させることの困難さへの挫折、放棄である。それは自己内容への敗北であり、境界否定であった。そこではありのままの人間を肯定しなければならない。これが科学による演繹的方法論が大衆に圧倒的加速度をもって受容され市民革命を惹起させた要因であると考える。境界否定が原理になることによって全肯定的な思想が発生し、民主主義、博愛、平和、平等、思想の自由化、グローバリズム、共生、等々が流布したことは周知のとおりである。一般的に他律的人間社会から自律的人間社会へと変遷したように素描される人類史批判の定説を本研究室においては却下する(***)。現代社会が獲得するに至ったものとは自立であって自律ではない。自己触媒的な自律者といった神的概念が(絶対的にしろ無謬的にしろ)統合原理として社会的有効性を保持していた近代社会のほうが反省的志向性が個々の思索の俎上に定在していたという意味で自律的だったのであり、多数者による多数者支配の現代において特殊性は構造維持的なエントロピーになり得ても、個々の強度を増幅させる規範にはなり得ていない。現代に謳われる安易な自己肯定は形式肯定であって内容的なものではない。この局面を捉え損ない続けることによって産み出されるアイデアや社会構造的充足は何をやっても満たされず、生のリアルなど感じることができずに自傷行為が流行ってしまうような徒花満開の社会を継続するだけである。以下に現代社会が選択してしまった誤謬、その事実即規範による価値を構成する原理である全肯定系のリスクを指摘したい。

(*) 本研究室において「エントロピー」という言葉は排除すべき負のエネルギーといった意味ではなく、ことわらない場合に限り主に没個性的かつ静的な多数項を攪乱することによって反省性を誘発させる免疫担体というプリコジン的な意味で用いられる。I.プリコジン/I.スタンジュール[1984] 伏見康治・伏見 護・松枝秀明訳 『混沌からの秩序』 みすず書房1987
(**) 永遠の王位が利己的に王を交換していくといった描写に以下をあげる。E・H・カントローヴィッチ[1957] 小林 公訳 『王の二つの身体(上下)』 ちくま学芸文庫2003 殊に下巻第七章55頁以下、202-203頁等。
(***) 平易なものとして、塚原 史[2000] 『人間はなぜ非人間的になれるのか』 ちくま新書2000

結論から述べよう。意識対象なるもの全てを価値肯定することは選択以前の論理プロセスと同様に一片の生すら意味しない。『生のリアル』によって充足されるには『否定の力』が必要条件である。事実判断による単なる区別とは異なり、価値判断による区別は自己内容を豊穣充足化する際にその原理を担う重要な枢軸である。前者は対象の射影を忠実に描写しようとする非主体的な観察態度に終止するのに対し、後者では価値規範による対象記述の後に行為規範の編成に影響を与え、主体保存のための帰属項/非帰属項(もしくは内属項/非内属項)を創り出す。前者の対象従事的な非主体性に対して、後者はどこまでも主体による主体のためのものである(*)。価値とはシステムの本来的な無根拠性を脱・トートロジー化することによって擬制的根拠を創造・措定し生の連接を開始するための最終的な論理段階である(**)。ここに普遍的絶対性などありえない。それを反駁するにはシステムの物性、もしくはそれとの不可分性を証明しなければならないが、それは述べるまでもなく稚拙なファンタジーである。

(*) ここでいう「主体」は近代思想的な創造主的意味ではなく、システム/環境が対応関係に限り連携し、決して充足関係へとは至らない心的システム論的な意味で用いている。
(**) そのため行為や選択とは自己欺瞞的と言わざるを得ない。

我々は原初体系が非・人間的であったとしても、それがなんらかのシステムとして開始するために事実にしろ価値にしろその規範発生の第一シークエンスは肯定系にならざるを得ない。システムは不可超自的なために確定記述の範囲内に環境・素は含まれない。それは自己域内に限局されている。システム/環境の発生が相互前提的であったとしてもシステムが創発するあらゆる構成素やパースペクティブはシステム自身を不可謬の前提としている。これは誰からも愛されない自己否定系であるペシミストですら同様である。仮に否定系を原初体系と主張するのならば自己創発の契機なきものが如何にして自/他の区別を可能とするのだろうか?仮にそれが存在しても、それは生/死が相互浸透した超越者であり、全観察者を排除する不可認知的なものとなるだろう。規範発生の第一シークエンスにおける肯定系が含意すると思われる否定性は無自覚・無批判的なものであり、原的な存在論の事実説明に相当しても、なんらかの自己を前提としたセカンドプログラムである価値論の説明原理には決して含みようがない。つまり肯定系は生得的なものであり(*)、否定系は肯定系を前段階に前提とし、発生契機の因子とした後天的な獲得項である。これが非普遍的かつ浮遊的な獲得項であるために狂信的な我執や没自的な博愛といった個体差があることになる。またこれが獲得項であるということは、否定性が『人間』の必要条件であるということも含意している。肯定するは容易い。しかし否定するは困難である。それは暫定的にしろ、あり得ないスタティックな自己を前提(狂信)としているためである。

(*) そのため古代において「肯定・存在(である)」と神が同義的に扱われ、「生得観念」といった誤謬概念が生み出されたのである。「神」や「生得観念」とは心的システム論においては無内容なシステム形式を意味している。

価値規範のプログラムを肯定系のみに設定することは、そこにある境界を黙殺し、系を決して閉ざすことなく不断に可能性を拡大充足していく。不可知のものすら価値ある可知のものとして絶え間なく取り込んでいく。それは不可能なき超越者・神の所業である。思想の自由が保障され、自己を神的概念と同等視することによって自己把捉なき生を送らざるを得ないために、現代社会に空虚が慢性していることなど当然至極の事実である(*)。不可能を不可能として無価値を無価値として規定的に構成しなければ『自己の生のリアル』などあり得ないことを知らなければならない。

(*) つまり『生のリアル』の社会的発生契機やコンセンサスを求める者がいるのならば、その者のアジェンダとは「思想の自由」の廃止ということになる。

否定とは無理解・無批判に対象を拒絶排除することを意味しているわけではない。無前提な肯定にそれが可能であっても、肯定といった論理的段階を遷移しなければあり得ない否定には、その界面に自己措定が創発するため必然的に何らかの事実的認知が伴っている。否定と自己の相発関係によって否定による判断内容は淘汰的選択となる。つまり否定とは他者尊重的な知的判断なのであり、称揚すべきプロセスなのである。中世神学者らは神的概念の超越・普遍的特殊性の述定を無言及といった否定神学によって成功した。それに対し現代に生きる者は否定神学によって他者と自己を理解・創造するべきである。博愛や民主主義、共生など全包括的なイデオロギーの全てが人間を叙述することすら出来ない自惚れた矮小者による不安隠蔽の弥縫策に過ぎない。その劣弱なエートスは人と神的概念の定義項を取り違えた大衆をさらに拡大生産し続けることだろう。

我々は自己の部分をかろうじて知り、他者を永劫に知らないことを再確認する。そして未だにディオニュシオス・アレオパギテスの祖述から逃れられずにいることも知らなければならない。

Metaforce Iconoclasm

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2004