芸術性理論研究室:
 
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009
形式と内容について_死の記述不可能性

死を想う時、我々は不安(予測不可能性・ハザード)と恐怖(形式的絶対性・リスク)の前に怯え、無力を感じる。死は誰もが最後に経験する普遍現象として我々を不動のごとく待ち伏せる。死は最大のインパクトを与えるがために、古来より大衆を統合する原理・テーマとして、今もその有用性をもち得ている。しかし心的システム論において死は言及不可能な捨象項である。以下に留意してほしいのはシステムがアポトーシス的な自死機能をもち得ないことを主張しているわけではなく、死による内容的構成を不可能といっているに過ぎない点である。我々の自由意志は古来より自殺の可能性を保証している。

ここでいう死は、それまでのシステムの残映や残滓を一切残さない現象であり、境界再構成によるシステム変貌を意味しない。我々が一般的に経験するパラダイムシフト等による、ときにはペシミスティックなその死はそれまでの自己を反省的に含み、文脈化可能であるという点において死ではない。死は構造を再構成するといえるが、死とシステムは範疇を異にしている。

システムが自己をシステムとして自己記述するには、それが起動していることを前提としなければならない。我々が様々な対象を認知し、感じ、知ることができ、概念系を紡ぐことができるのは、言うまでもなく我々が今この一瞬を生き、次のフェイズへ結節させる可能性の確信と、その一瞬をむかえるまでの記憶の連続性があるがためである。もし我々が静的な存在ならば単語Pについての説明文はPという単語のみで終わり、そこにはなんの述語も付加されないことになる。アリストテレスからフレーゲやフッサールへと継承され続けるコンテクスト理論を内属項として認めなければ我々は何の『意味』も保ち得ない連続者であり、自体者などではない。つまり死の記述不可能性を論ずるにはハイデガー(〜デリダ)のように「経験」というスタティックな言葉を用いるのではなく、『自己産出』ないし『創発』不可能であるがためと言い直さなければならない。

システム/構造間にある相互浸透性について理論的理解を得ていない我々にとって、死は超越概念である。そのために不死の魂といった概念が生まれもし、宗教化することによって現代の統合された社会を成立させもしたのだが、学術域においては詳述も自明性もなきものに「真の値」を与えるわけにはいかない。我々は理神論的態度によって、ただその事実を記述するにとどめなければならない。

当研究室において死はフロイトの「タナトゥス」のような活動原理的エントロピーを条件付きで意味しない。タナトゥス(死への欲望)は形式と内容をはき違え、混同、同一視しなければ成立しがたい理論概念である。これは世俗的生活世界でのみ有効な似非心理学的思想概念、文学的メトニミーであり、原理的探求を行う心的システム論においては空想の域を出ない。確かに我々は死への脅威や畏敬が限界設定を担うことによって、多様な可能性を縮減し、倫理化された日常を送っている。死を回避するため、または寿命のような絶対的死がサンクションとなり自己を世俗へと投企する。しかしタナトゥスを目的論的な「死自体への欲望」ととる限りにおいては心的システム論への応用概念とはなり得ない。

システムが自己産出するものは、それが形式概念の範疇内にあるものであろうと、自己を構成する素因である以上、内容の範疇にあることを知らなければならない。システムは形式と内容を乖離的に産出し、それぞれに相互不可侵的な権能を与えつつ自己を構成しているわけではなく、また上位下位的な位階関係にあるわけでもない。なぜならシステム領域内に構造的空間などあるわけがなく、それは全てが等質性によって満ちた超構造的かつ非空間的空間だからである。仮に位階的描写を行うのならば、それは内容を類とし、そこから形式/内容の種がそれぞれ派生すると言わなければならない。だがしかしそれも便宜上の域を出ない。形式/内容とはシステム域においてのみ有効な自己構成素である。

タナトゥスが死自体を知りうる可能性を前提とした概念ならば、それは心的システム論へは適応不可能である。なぜならそれは前述のとおり全構成素が内容であるために死自体を前提としたものが構成素と成りうるのならば、システムは死につつ活動を継続する経験をたびたび得ることになるが、それは説明する必要のない不可能現象である。不死の魂を前提としなければタナトゥスは首肯しがたく、それは宗教ジャーゴンであると言わざるを得ない。

だがそれが死の形式知のみを含意するのならば導入可能といえる。しかし「死への欲望」などという比喩はミスリーディングであるので、ここではそれを「エントロピー」と呼ぶことにする。

システムは死を知るのでも、知っているのでもなく、負を知るにすぎない。負は負であるが故にシステムの構成素と成り得るといえる。システム域内に存在しうるアンチ・システムはシステムによって統御される擬似的な否や死であり、それは否でも死でもなく『負』にすぎない。マイナスの記号が数字自体を否定しないように『負』はシステムによる被定義項である。もしシステムが死を所有可能なら、それは真性のパラドクスを産み我々の批判対象にはなりえないことだろう。『負』とはシステムがシステムでありうるために自ら自己の開放性を閉鎖する境界である。負性は我々の生にとって必要条件として数えられるがために誰もが死を語らざるをえなくなる。その手がかりを経験科学へと求める時、死と負の混同が生じ、自/他の区別が曖昧化するという更なる稚拙なパラドクスを惹起することになる。

「人は皆いつか必ず死ぬ。故に私もいつか必ず死ぬ」「殴られれば私は痛みを感じる。故に君も殴られれば痛いはずだ」「この書物は私にとって有意義である。故に君にとっても有意義である」「生きるためには私はお金が必要である。故に君も生きるためにはお金が必要である」これらはみな対応的記述内でのみ有効な形式についての命題であり、寸毫の内容を含まないばかりか、内容によってその真理値が左右するものまでをも他者へと強要する野蛮かつ非人間的な諸命題である。

多くの方々がこれらの記号化された命題を提示されると分かりきったことだと笑うかもしれないが、笑える者などほんの一握りであることを知って頂きたい。コミュニケーションは反省を促すが、自己行為の最中において我々は通常、反省を欠くものだからであり、行為後に前行為を反省するとは限らないからである。理論を蔑ろにした、前提豊かな者ほど単純な誤謬倫理を平然と主張し、またそれに気付かずにもいる。

システムが自己を成立させるために必ず行う境界化という擬似的自己死が社会的暴力命題を生み、軋轢を生み、時には殺し合いという多くの死を生み出すことに加担してもいるのである。我々は形式/内容の区別を截然と行わなければならない。これは心的システム論の役目である。

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「人間」に神的概念の定義項が賦与されることはありえない。神的知による対象Aの知識とは対象Aの射影aを見ると同時に射影b、c、d、e、、、、、と対象Aを包囲する全ての視点をとることであり、さらに対象Aの時間軸上にある全ての射影を知るということである。ここに視点などといった可能性は存在しない。我々は必ず一方向からの視点を持ち、パースペクティブを超えられない存在であるがために神的な知識を得ることはできない。現代における同一地平を前提とした安易な経験論者が主張するような「未知であるが故の全知可能性」は人類知らずの戯言と言わざるをえない。全知可能性に可能性が含まれないことを知れば、可能的存在に全知が含まれないことは用意に知るとこである。全知と可能性は排他選言的な関係にあるのである。この人間性の縮減性を換言するのならば、それはまさに『システム』である。

「閉じていなければシステムではない」という基本命題は人間を人類へと昇華させる。閉鎖性は区別を指示し、区別は選択を指示する。人間は絶え間なく多様な可能性の中から一つの選択肢をえらび、自己にとって必要/不必要を取捨選択し、自己と他者(非自己)との区別を行わなければ生を意味しない存在である。この古典的な選択原理は現代システム論において、更にドラスティックに調整されることによって、その普遍的妥当性を得るまでになっている。単純な選択に他者は含まれないが、区別によって始まるシステム論は他者を如何に含まないか、他者へとアプローチできる限界はどこまでかを厳密に吟味する。この理論を研究するということは多元的一性を構築し、不断のセルフ・ディベートを行う契機となり、頑強な社会デッサン力を養うことになる。

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我々が通常記述する死とは環境変化の「部分」である。それは観察されたものでしかない。観察記述は制度化された一言語記号によって代表されるが、環境全体との連関によって成立する部分であるために他者との共通了解にはなり得ない。「他者と連関する死」と他者による「自己と連関する死」が同等であると言えるのは言語という構造共有(カップリング)までである。この観察記述に対象内容は含まれない。それは形式を自己産出しているに過ぎない。形式が同等であるからといって、その形式内容が同等であるとは限らない。否、同等であることは不可能である。複数の形式/内容の同一可能性は自/他の区別を存在論的に否定することになる。描かれた死はオーディエンスに死を伝えず、伝えてはならないのである。

年表化された歴史に心は残らない。時代を先導(煽動)し、代表した文学・芸術があまねく全ての心的な特殊内容を表徴しているわけではない。市場原理によって作られたプロブレマティックが有意義といえるものを全て掬いあげるわけでもない。死は誰にでも等しく訪れる「形式」である。だが我々がモータルな存在だからといって、その死が含意する『内容』は誰にも決定できないものである。ここで我々は改めることになる。

メメントモリという使い古された幼稚な命令形に対し、心的システム論は「死は想うものではなく想われるもの」と言わなければならない。死は超越現象であり、自己記述域外のものである。

自己の生はそれだけで端的に他者の自由を奪う。自己がある限り他者は永劫に自己の場へは移行できない。観察記述による死は観察者へ行為可能性の自由の契機を与える素朴な現象に過ぎない。

 

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付記_死と自殺への言及権

「・・・誇りある仕方で生きることがもはや可能でないときには、誇りある仕方で死ぬことが大切です。(*)

「われわれは生み落されることを自ら阻止することはできません。だが、われわれはこの過失──なぜなら生まれることはときに過失であるからです──を後からもう一度償うことは出来るのです。もし人が自分で自分を除去するなら、この世に存在する限りの最も尊敬に値することをなし遂げたことになるでしょう。(*)

(*) ニーチェ[1888,1969]偶像の黄昏(西尾幹ニ訳)『偶像の黄昏/アンチクリスト』所収 白水社1991 116頁以下。

たしかに我々は生の発生契機を支配下におさめることはできない。しかし生は自己の発生によって被支配項となる。「自己」は自然科学的「人類」と「個体」の間に「関係概念」という亀裂をいれ、分化する。この階梯に至り自己は自我の影を知り、求心的な動作を開始する。我々は構造によって支配を受けるが自己意識によって決定論をすり抜けている。

「しかし関係概念を導入しようとも、それが弁証法的反復転倒を引き寄せる限り、主意主義的な主張には普遍妥当性はあり得ない」という批判は自立と自律の区別によって斥けられる。

分析的に綜合した生の非対称性に気付く時、我々はささやかな自己への抵抗を試みることになる。識閾下にあるアポトーシスは個の生を描き、事実への恭順はそれを苦しみのない死へと至らせる。生は死への目的論でもなく、死を排除するコードでもない。快楽が生の目的なら死はあり得ない。死が目的なら生の文脈はあり得ない。生きているが故の苦痛であり、死なのである。

我々はアウグスティヌスや一般化されたシステム論に対してこう言わなければならない。生のコードは生を前提にし、生と非生を区別しているだけではなく区別したものを共に内包していると。ここで生のコードが死のコードへ換言できないことは「死のコード」が形容矛盾であることを知ればよい。死はそもそも前提になり得ずコードを産み出しようがないからだ。しかしそれでもなお我々は死を学問的対象とすることができず、自殺という死の選択が自己の生であるとは同定できない。それは死の形式を選択しているとは言えるが、死の内容記述を可能としている保証はあいかわらず理論付けられないためである。

 

世界から自己をえぐり出してしまった思想家に反して我々は学問の外にしか自殺への言及権はあり得ないと言わざるをえない。

 

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付記_2

喜びに喜ぶ必要などなく、恐怖に恐怖する必要などなく、悲しみに悲しむ必要などもない。自由にならないものはただ黙ってそっと受容すればいい。ただそれだけで我々の論理世界は静かに自己を受け入れてくれる。ただそれだけで世界は自己をとりまき、『私』を形作ってくれる。

それは決して自己欺瞞を意味しない。操作不可能なものに隷従することが嘘ならば、人は人であろうとすることすら幻想になる。自由/不自由の峻別は最大の枷を取り払い、選択可能な自己の範囲を確保する前人類的な予科である。

そして、始まりも終わりも知ることのない我々は、ここで古来よりある神的概念の定義項を人へとまた一つ回収することになる。

Metaforce Iconoclasm

-009-

2005