芸術性理論研究室:
 
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004
愛と恋

愛と恋とは論理プロセスの最終項として質的飛躍を架橋する把捉しがたい関係化現象とされる。しかしここでは愛をシステム(ファースト・オーダー)に内属したシステム/構成素間を飛躍する機能として、恋を構成素/構造間を飛躍するシステムにとっての付帯的な属性であるアプリケーションとして論述する。

愛とは対象を絶対唯一と描写することによって自己と永劫の関係化を構築するシステムが内属し、自己完結した本有的機能の一つである。それはシステムがシステムであるための必要にして十分な条件である。(連続起動を前提とする現代システム論に対して、ここでは『愛』を前提としたシステム論を構想している。)絶対唯一とは大衆を慰める唯一性とは質、または範疇を異にする。後者は種差によって定義され、他者を規定的に含意、前提としている。しかし絶対唯一として認識された対象は内外の区別を払拭し外部に如何なる者の存在も認めず自体的に同定される。それは定義項のみで構成された、規定項を含まない絶対定義である。絶対唯一は対立項を排除した絶対項であり、環境を持たない自己主体である。愛の手段に比較やハイアラーキーはあり得ない。我々の認知は通常、対象を背景から前景化して、境界によって背景を排除・規定項として切り抜くように行っている(*)。『赤』という色も背景色との差異がなければ『赤』として区別する必要もなく、それを対象として区別、認識する必要もない。だが絶対唯一とはその『赤』を背景の介在なしに『赤』として同定、認知することである。そのため絶対唯一は構成素域にはあり得ない現象である。

(*) 『雰囲気』『ランドスケープ』『時代』などといった巨視的視野に基づいた総称的、総体的認識はその段階における一断片現象として考える。

絶対唯一という自体記述はシステムの同一性によって擬制的に産出、保持される。システムの非同一性とは内属された一機能ではない。それはシステムが産出し自己の周辺に自己拘束していく構成素(プログラム、パーソナリティー)による、関係化を非導入した非連続的な軌跡である。システムの強度(内包量・アンタンシテ)とは無性の一性であり、愛によって同一性と非同一性の形式としてそれを擬似的に外延化する。それは愛によって産出されたものであって、愛ではなく恋である。境界なき領域内において同等産出は形容矛盾である。それは単なる愛の拡大でしかない。(安易なアンチ・コンテクスト理論は無批判なオプティミズムでしかない。)そのため愛を構成素内の支配領域に現象化、連接させることは困難、不可能とされる。  システムは構成素を産出するが、構成素間と支配、対応、充足関係を普遍的に維持するとは限らない。システムが愛の機能によって構成素を自体記述する時、システムはトートロジーを超脱する。愛はシステムの同一性という強度によって担われている。

我々は絶え間ない文脈化によって生の意味を構築していく。一瞬のシークエンスも次のそれがなければナンセンスである。現在行為は過去行為の把持と未来行為の予持との相互関係化によって初めて意味や価値になる。意味や価値は産出されるものではなく連接されるものである。これはフレーゲやオートポイエーシスを待たなくとも、既にアリストテレスが名辞の説明の際に気付いていたことである。システムによる構成素の連続産出、その個々のシークエンスを自体的に成立させているものとは恋である。恋とはシステムではなくプログラムの機能である。恋は選択原理のように振る舞うがその全てではない。恋は選択原理の類ではなく種である。恋の種差とは非対自性であり、そのため恋による関係化は暫定的かつ脆弱なものであり、不断に関係対象と関係内容を非反省的に更新していく。そのため我々は新たな経験を可能とする。そして恋は裏切りのプログラムでもある。

エントロピーによる攪乱によって恋は起動し、黙殺することによって擬似的に恋はエントロピーをネゲントロピー化する。エントロピーは拡大、堆積しつつ励起化するものである。その線形性を恋は特性である非線形性の狡知を用いて論理プロセスの方向性を複雑化、非整合化する。しかしシステムは同一性の強度によって複雑化、断片化を縮減、解消しようと試みる。恋は常にシステムと競合関係にある。システムは愛によって構成素域に自己をプログラムする。それは必然的に環境を発生させ適合度をめぐってシステム域にエントロピーを産出してしまうことになる。システムは自己同一性を概念化するために抑圧項をシステム域に産出する。システムはエントロピーによる受動的な自己破壊を免れるために恋を共働させ能動的な自己破壊を試みる。恋は自己同一性保存を遅延するためのアポトーシスである。

愛はシステムに内属した機能であって、決してそれ自体が構成素域に出現するものではない。我々が愛を語る時、それは「洞窟の比喩」のようにファースト・オーダーの幻影でしかないのである。愛の沈潜性、擬似的な湧出性によって、過剰なまでの非連続の連接史を送ろうと我々は過去の自己の同一的存在性を懐疑することなく生きていくことが可能になる。我々は幻影の自己をたよりに幻想の世界を生きている。

恋による生成流転の記述によってシステムは賦活化されるが、その刹那に虚無の淵に自己を追いやる。恋による非線形的、非連続的な非文脈化では意味の産出不可能性によって構成素域に自己概念を保存不可能としてしまうためである。恋は無限に「むなしさ」を産出し続ける。連続作動を前提にすれば恋は必然的に発生する結果である。そこに知性の介在は必要なく無差別に賦与される。それに対して愛は自然発生するものではなく、愛を希求するのならば構成素域に創造されねばならないものである。しかもそれは構成素の連続更新の際に共に更新されねばならない。愛は技術知のようなポテンシャリティーへとは変換できない。愛自体はシステムに内属した創造されざる関係原理だからである。恋はインターフェイスを作り出し、愛は『規範』を創り出す。恋は情動に妥当するが、愛は決して情動ではないのである。

システムと構成素の共約不可能性によって愛を獲得するには自己の強度にかかっている。愛の歴史とは自己が自己を記述する、存在の根拠である。そのため愛の喪失は自己の完全否定になる。愛を原理にする者にとって、その瓦解がこれほど恐怖なのはそのためである。記憶があっても関係化不可能ならば無意味である。それは正に『死に至る病』である。

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質的飛躍の局面は古来より描写され続けている。アウグスティヌスを筆頭とする教父時代における「神秘」、三位一体論における「聖霊なる神」、近現代ではソシュールの「シニフィアンとシニフィエの恣意性」、後期メルロ・ポンティー、初期デリダなどを代表とする現代フランス思想等きりがない。以上の論述では若干定義を更新しているので指摘しておきたい。

父なる神と子なる神による嫡子である「聖霊なる神」はシステム/構成素間の愛として捉えるのならば相互性ではなく、システムによる主体性へと還元した。これは伝達不可能性の前提に準拠した現象学的システム論的定義である。ソシュールにおける「恣意性」は言うまでもなく恋であり、それによって新たな経験と構造空間内への作用を可能にする。フランス思想に関してここで詳論することは避けるが、軸になる観点は聖霊一元論による認知レベルにおける二元論発生の物語として見れば理解の加速度を得られることだろう。メルロ・ポンティーやデリダが難解な理由も、本来的に知性の対象外のものを核・原理に据えているためである。

愛と恋の区別は我々を自明の自明へと誘い、連接史を結節史へと変貌させ、ラディカルな生を可能とするだろう。愛の無謬性は内属性であり、それは理性の道具ではない。愛の無謬性は背後からの亡霊の囁きである。長らく思想史は愛と恋の同時導入がなかったために質的飛躍の局面を上手く把握できなかったのである。

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愛の線形性、恋の非線形性。前者を男性原理、後者を女性原理と換言することも可能である。男性は同一性を女性は非同一性を原理としている。各々の作られた理想像とは社会システムへオリエンテートするため、その本性を隠蔽ないし拡大する狡知である。同一性によって社会概念は発生するが循環性がなければ社会の拡大再生産は不可能である。遍在する男性へのインモラルは社会システムにとってモラルとして機能している。それに対して女性への拘束的モラルとは社会参加へのレディネスを得るためのオリエンテーションである。ここでは似非生物学的倫理観とは逆説を述べているが、そもそも倫理とは作られたものである。事実即規範が絶対であるのならば、初めから倫理など作られなかったことだろう。しかし、ここでは上述の説を首肯的に採択するわけではない。倫理学において性別のレトリックが適応可能なほど一義的ではないことは自明のことであり、構造的形式を称する言葉を論理形式の標識として転用することはカテゴリーミステイクでありミスリーディングであろう。愛と恋は同一性と非同一性の区別の際に批判理論として利用されるにとどめるべきである。

恋は常に関係対象を変えていく。恋を原理とする者どうしが対峙してもそこに社会概念は発生しない。恋は構造即構造主義であり無意味に振る舞う即自性である。結節不可能なコミュニケーションは社会史という系には組み込まれない。ここでルーマンによる「社会システムの構成要素はコミュニケーションである」という定義は更新されねばならない。コミュニケーションには愛と恋の二義がある。ルーマンの定義に適うものは愛のみであり、恋は言及されてはいない。

恋は観察者によって観察されても観察されたことにはならない原理であり、恋は可視的不可視者である。恋による関係化は等質的無個性な総和的組織体であり、非陶冶的な自然状態である。それを去勢し秩序を与え、構成的組織体(社会)へとシフトさせるには愛のエントロピーが必要になる。社会システムにおける愛と恋の役割は発生論的には心的システムのそれと意義を転倒させている。普遍的同定を拒否する生命体に対し同一記述をラベリングし続けることは事実に抵触する越権行為である。愛による同一記述が信頼という経綸を生み出し自然社会という複雑性を縮減し構成された社会を構築する。社会はロマンティストによって作られている。

留意しなければならないことは、この社会システム上に観察される愛とは擬制的な愛であり、絶対性なきものである。それは恋によって切断され容易に無意味化され得るということである。この局面で愛原理者は行動停止を招くこととなる。愛原理者にとっての愛は擬制的愛でありながら愛自体への意義が与えられているためである。本来的な愛に限界効用縮減の法則はあり得ない。愛は一度起動したならば自発の継続によって保存されねばならない。愛の低減という描写はどこまでも恋である。愛の連続記述という自発性の強度を持ちうる者のみに愛を語る資格が与えられる。

現行社会に生きる我々にとって愛は自明のことのように思われるかもしれない。しかしそれが事実ならば現代の商業主義は成功しなかったはずである。経済原理に愛は必要項ではない。愛は経済にとって循環性に対する抑止剤でしかない。愛という確定記述、そのエントロピーを希求することによって擬似的に秩序力源を産出するという点で我々の社会は自然社会と区別可能とするが、原本質的には恋による即自的組織体であって自然社会との間に絶対的種差があるわけではないのである。ここに社会概念をめぐっての価値転倒がある。我々は逸脱者を長らくエントロピーとして描写してきた。それによって社会システムの境界を再更新する免疫機能の動因と看做してきた。しかしそれも構成社会絶対信仰による誤読である。逸脱者は恋であり、世論やサンクションは愛である。周知の通り倫理に絶対根拠があれば、それは倫理ではない。倫理、エートスとは人為的な創造によってその存在を可能とする作品である。

無根拠は無価値と同義ではない。無根拠は我々人間にとっての創造の根拠、創造の痕跡である。ただそれへ対他的な規定プログラムの定義を与えることは自律性を侮蔑した非人間的行為と言わざるをえない。ハビトゥスとは経験可能性を確保するために愛のレトリックを利用した恋の遊戯である。ハビトゥスを社会プログラムとすることは知性の探究ではなく、それ自体へとオリエンテートする本末転倒である。他者充足的コードによる有用性とは無為である。内省の確保のためのイノベーション、構造充足でなければ、生のリアルなどあり得ない。

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愛は無差別かつ惰性的に万人が獲得できるものではない。愛は絶対のコヒーレントを要求している。愛は残酷なまでに徹底化された知性と理性による無矛盾な整合性ある論理によって不動の絶対線形を自律的に描かなければ知ることのできないものである。そのドラスティックな文脈力を不断の更新において環境(トポス)との関係に左右されることなく維持し続けなければならない。愛は破綻を許容しない。愛の破綻とはシステムにとって死と同義である。なぜなら無根拠に空転するシステムにとって唯一の根拠であるためである。システムは愛の根拠と能動的に未分化化することによって、かろうじて自己保存を可能にしている。それは瓦解不可能な脆弱性である。愛はシステムの自己愛を前提とした自己対称、自己鏡像である。アイディンティティーなき者に愛は創発されえない。ここに愛の自他同一のレトリックが発生する理由がある。

愛のコミュニケーションにおける倫理があるのならば第一シークエンスで行わなければならないこととは相互が愛の概念と理念を獲得しているか否かの相互確認である。愛と恋の出会いほど悲劇はない。その出会いは離別を誘い、蒙昧なる快楽者の狂喜と冷徹なる死を生み出すだけである。その死は快楽者によって無下にあしらわれ即忘却によって無化され一大行幸が継続するだけである。愛と恋は共約不可能である。愛にとって恋は、恋にとって愛は相互に死を意味するためである。ただ恋は非関係化原理であるために他者理解や他者観察といった機能を持たない。そのために恋は愛を殺すが、愛は恋に殺されるだけである。愛は恋を愛化することも、恋は愛を恋化することも共に不可能なことであり、決して相互浸透化することはない。

愛と愛の邂逅は『人間』に許された、たった一つのロマンである。この越権によって我々は自律性を構成素域において批判可能としている。愛の創発によって自己の生が発生し、相互愛の創発によって自己の生の形式を自己充足する。このディレンマをスティグマとするか、黙殺するかによって人の生は二分する。我々は愛を保存したいと願うのならば、再度、世界を分化しなければならない。永劫の離在によって。

Metaforce Iconoclasm

-004-

2003