芸術性理論研究室:
 
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超越不可能性について

芸術家が切実な想いを伝えるために命懸けで作品を制作し発表しようとオーディエンスはその表層に付帯する形体の差異に戯れアドホックなカセクシスに終始して、相互確認のプロセスもなく沸点を超えるようなムーブメントの継続化もなく『何も理解していない』『何も伝わっていない』『何の評価にもなっていない』と芸術家は不平と嘆きに苛まれる。特殊な表現者に限らず日常の生活空間で行われている言語や身振りを用いた相互作用や相互表現に纏いつく拭いきれないコミュニケーション不全感を(それが仮に成功しているかのように見えようと)我々は必ず抱き『なぜ言葉は想いを伝えられないのだろう』という疑問と虚無感に犯され慢性化している。我々はこのありふれたコピーの一掃をアジェンダとするところから始めなければならない。

『意味が伝わる』この命題を字義通りに解釈することは不全感の事実説明を不可能としてしまうことだけではなく、自己や知性すら記述外へと放擲することを意味する。仮に『意味が伝わる』のならば我々は他者の言葉自体が自己の経験にならなければならない。サイエンスフィクションすら過去の経験として読書することになり、未来の予言すら現在経験としてしまう。端的に言語記号によって『意味が伝わる』のならば我々は言語記号と意味の区別すら不可能なはずである。記号の多義性とは記号の本来的な無意味によるものである。

キリスト教神学において父と子(ロゴス)に関しては饒舌に語られるにも拘わらず『聖霊』に関しては神秘的にならざるを得なかった理由が潜在する局面であり、ソシュールによってそれを『恣意性』として楽天的に解されることでシニフィエを内包域に密封しシニフィアンを摘出外延化し言語学を科学化することに成功した局面でもある。さらにヤーコブソンによってコード/デコードの積極的微分化が与えられることによって形而上学域の保存が徹底化された。

システム論において『構造的カップリング』と呼ばれる相互作用の連接とは構造を媒介にする当事者が構造域における論理的文脈に対して、それぞれ固有のコードに準拠することによって意味を割り当て、後の行為を可能とするように自己ロジックとの関係性を無矛盾に文脈保存することである。我々が通常記述しているコミュニケーションとは構造域に限った論理整合性でしかない。ここで『デコード(理解)』とは伝達者が発したメッセージに内包される『意味の理解』を意味してはいない。一般に『暗号解読』と訳される『デコード』とは人文学的には『複合化』と訳される。これは他者からのメッセージである静的な要素とその要素群が織り成す提示順序という動的な脈絡に対して被伝達者が自己に内包される意味と論理を新たに関係化していく創造的作業を意味する。デコードとは意味と記号の質的飛躍を伴う複合化である。

単なるコミュニケーションにおける伝達シークエンスをここでなぜわざわざ『創造的作業』と呼ぶのかということについてだが、それはシステムの創発性によって保存された構成素を無作為な選択による作業によって創造的関係化を行うことだけを意味してはいない。我々は日常のコミュニケーションにおいて当然の如く伝達不可能性や教授不可能性を抱きコミュニケーション・パラレリズムを経験している。これは原理的制約だけではなくシステムの特殊性によるものである。被伝達側のシステムが本有的にしろ後天的にしろ伝達者が意図したメッセージに相当する意味や文脈を創発し、かつ関係付ける強度を前提的に所有していなければコミュニケーション成立はあり得ない。(*)

(*) システムは他者の特殊性に関してだけは非越権的に判断可能である。これはシステムの成立過程における環境の非共有性によって保証されている。

しかしここで留意しなければならないこととはシステム間における相互超越不可能性と構造域における永続的文脈によってコミュニケーション成功の確認終了が明確、否あり得ないということである。さらに繰り返すが超越・伝達不可能性によってその構造域における「成功」がシステム域における『成功』を意味しているとは限らない。いま仮に「F」という名辞を他者へ教授することを試みる。伝達者による「FはPであり、かつQである」という説明に対して被伝達者側が了解のサインを提示し、後に伝達者にとってのFという名辞の系列外にある要素群と結び付けられた「FはZである」という命題を平然と発する被伝達者に出会うことは我々の日常においてしばしば経験するありふれた現象である。これは超越不可能性だけではなくシステムの縮減性に負うところが大きい局面である。「FはPであり、かつQである」という限定された要素を所与の条件として被伝達者がデコードした関数『F』によって外挿的、内挿的に指向される要素が伝達者のそれと普遍的に合致すると言えないことは説明を要しないことである。我々は部分しか知り得ない限定性である。しかもその部分すら知性の暴力によって半無限的に微分可能である。部分の連続のように見える歴史の知識すら全体の鳥瞰・把握であって決して部分史を決定的に詳述する把捉ではない。

我々が相互主観という社会的前提を獲得することによって開始されるコミュニケーションにおいて交換される種々の媒体は媒体であって意味ではない。社会的共通了解によって約束され制度化された外延的意味はその限りでのみ有効な擬制的意味であって内包される意味自体ではない。記号に意味が内属さているのならばディクショナリーなど無用であり、初めから言語学習すら必要ないはずである。コミュニケーションとは相互に対応契機を要請することによって行われる自己創造である。ここに複雑化した社会空間への参加者となるために普遍的に知力という強度・内包量を要求される根源的な理由がある。本来、自己産出力なき者に「人間」という定義項は許されない。

その自己産出力(知性)によって我々は情報を産出し自己の環境に配置する。情報とは対象や発信者に内属し環境変化(被伝達者)を決定付け、情報体への目的遂行可能性を確定的に増大するものなどでは決してない。

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『社会』という相互作用概念に依拠しなければ『生のリアル』を記述不可能としてしまうヘテロノミスト(他律者)がその脆弱性を隠蔽するために意味交換による相互伝達作用という偽りの概念を制度イデオロギー化することによって我々はこの単純な事実把握を忘れがちである。そしてそれを忘れた者たちによって織り成される構造決定的な方法論による社会空間のレギュレートによって心自体を蔑ろにした虚無の拡大再生産は不可止のごとく継続していく。心自体を記述外にしてしまった安易な経験論の誤謬。無根拠かつ無意義な忙殺を理由にそれを抱えたまま記述不可能なものを無理に記述しようとすることによって発生する『心』という矛盾が現行社会を圧殺の一途へと導いていく。

凶器を市場から払拭すれば犯罪が抑止されるわけでもなく、言葉を限定すれば差別がなくなるわけでもない。道具や情報体等の構造体は使用者や観察者によって意味を記述され添付されることによって初めて道具や情報体として成立する質料マテリアルでしかない。確かに我々は目的実現の媒介者として道具によって行為過程を先行決定されているかのよう一義的に振舞う。しかし我々にとって道具とは多義的な意味関係化の可能体である記号でしかない。仮にそれを否定するのならばハンマーを目にすれば釘を打ちつけなければならなくなり、椅子を与えられれば座らなければならなくなるような経験をすることになるが、そのような現象などあり得ないファンタジーである。テコにすることも台座にすることも木材にすることも武器にすることも可能であり、単に「黙殺」することも可能なものである。(ここで黙殺可能性が決定論を決定的に封殺している点を見落としてはならない)構造は本来的に記号もしくは猶予された記号可能体であり、恒常的に無義・未義・多義的なものである。それらから一義的選択圧を受けているかのような振る舞いは目的設定を前提的に所有した製作者か、よほどの訓育によって自己攪乱の機能を去勢された習慣者のみにみられる錯覚に過ぎない。日常の行為やコミュニケーションにおいて道具や言葉を使用する際に我々はそのつど意味関係化のラインを創造し結節している。『使用』とはシステムが構造体に対してプログラムを賦与し、機能化することによって自己の多様な可能性を縮減する変移過程の全体である。

ここで我々は確認しなければならない。それは『目的と結果』という区別が発生論的志向性という点において異なる範疇に属するものであり、同一的、連続的、対立的な記述批判は本来的なものではなく、それはシステムの自律的な創造によってかろうじてそのように描写可能なものに過ぎないということである。目的と結果が同一のものならば我々は目的設定を行った刹那に結果を面前に経験し、かつ目的/結果の区別を不可能とすることだろう。これは結果が目的の相転移による「実現」とする描写においても同様である。アリストテレスの誤謬は行為後の結果を反省することによって自律的に産出される「結果内容」と行為前の「目的内容」を同一視してしまった点である。目的設定時と結果産出時におけるそれぞれのプログラムコードによって産出されるものが同一ならば時間概念の事実すら把握できないはずである。原理的に目的設定時の「目的内容」と結果産出時において想起される「目的内容」とは相違するものでなければならない。第一シークエンスにおける目的内容(初期条件)は目的論的行為遂行過程に則して漸次的、連続的に変化している。意図的行為の全体とは結果産出時に自己言及的に産出される「結果内容」と過去反省的に再産出される「目的内容」とを同一的関係化することによって完成されている擬制でしかない。結果自体とは目的にとって恣意的な玩具でしかなく、結果内容を添付し結果=化する記述者の自律力によって事後的に存在の権原を賦与される非決定的な他律者である。

さらにこの『目的/結果』の区別は以下の確認を要請する。複雑にシステム分化を経た現代社会システムの構成要素産出者内にファーストオーダーなど存在するわけがなく、それは関係概念を非前提とする普遍概念をコードとする者にのみ妥当するという帰結である。これは理想的ゲゼルシャフトが実現不可能であることの論拠であり、制作終了の宣言に躊躇逡巡する似非芸術家の原理的理由でもある。システムが自己産出する構成素(プログラム)によって志向する構造体との関係概念は形式的には普遍であるが、意味内容的には非普遍的であってなんら決定的充足性のないものである。これは仮に同一のプログラムが複数個存在するとして、その場合すべてが同一の構造体と関係化されるとは限らないことの予測を可能としている。通俗的に換言、応用するのならば、この世に交換不可能な部品などあり得るわけがなく、労働者信仰による自尊心は安易な慰めでしかない誤謬であることを指摘している。そして何を提示しても誘導的な回答もないまま単に従順に受け入れるか、もしくは単に「不平不満」を並べ立てていくクライアントと対峙する下請け業者の憂鬱はその技術力だけで解消されるわけではなく、むしろ先方の自律的構成力の如何にかかっているということの認識も可能にしている。

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超越不可能性という前提は構造領域内において代替不可能性を謳うことはナンセンスであり、社会システム内に決定的構成要素は存在不可能であることの帰結を導出する。制度化されたコミュニケーションの準拠枠に無謬的に隷従することによって多くの者がこの単純な局面の認識を隠蔽されている。我々は以下のことを確認しなければならない。

『人間と芸術』は「遂行者」でも「芸術作品」でも、ましてや「芸術家」などでもなく『人間性・芸術性』として前・現前的、不可触的に世界へと『臨在』し、確かに存在概念に包摂され、今この一瞬の『生のリアル』を自律的に創造し続け、自律的に秩序付けている。

Metaforce Iconoclasm

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