芸術性理論研究室:
 
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002
心的システムとはなにか

本研究室において論及考察される「システム」とはおもに心的システムを意味している。そこで準備過程としてシステムについての初歩的確認から始めたいと思う。

一般的にシステムとは複数の要素が組織化され、観察者によって何らかの機能が第二次記述されえた場合、その構造体を指し示すものとして定義される。これはシステム/構造の区別を不要とする科学者などの対応主義者による定義文であり、システムの語源であるギリシャ語の『シュステーマ』を準拠としている。シュステーマとは合成されたもの、集められたものを意味する。機能を観察される複合同一体をシステムと呼ぶのならば機械も生命も共に同一同等体として包括されてしまい、叙述の可塑性を得ることがない。そこでシステムという類概念に種差を包摂しやすいように定義を段階的に概念化してみる。

例えば白紙の座標軸を『要素』の原世界(*)とする。そこへ任意の関数F(x)を投入する。その時立ち現れたグラフが『構造』であり、要素の選択/非選択(**)を行い、要素の組織構造化を担った関数F(x)が『システム』である。そしてシステムによって非選択された要素群、グラフの周囲に広がる空間を『環境』と呼ぶ。『システム』の第一定義とは関係化を担い単位体を構成する『何か』である。ここまで素朴かつ稚拙な概念化を行えば科学/哲学、その他様々な分野において固有のシステム論を展開できるようになる。システムの必要条件とはここでは三位一体論の『聖霊』であると考えて差し支えない。

(*) この基盤としての世界定義の原拠は後期フッサールにある。エドムント・フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』 細谷恒夫 木田 元訳 中公文庫1995 第二十八節 193頁。第三十八節 258頁。 ; [1939]『経験と判断』 長谷川 宏訳 河出書房新社1999 22頁以下。
(**) 免疫機能ではなく『免疫システム』などといった言葉を見かけることがあるが、もともと境界化を行わないシステムをシステムとは呼ばない。免疫機能とはシステムに内属した必要条件であって、免疫機能に限定された担体が単離的に自存しているわけではない。

この環境を単に環境と呼ぶか、そのシステムにとっての環境〈周りの世界、um welt〉と呼ぶかの相違で科学と哲学の分岐点がある。しかし確定記述レベルでシステムが要素の選択/非選択を『履行』しているかのように読解可能な上述文は未だ科学の領域内でのみ有効なレトリックに過ぎない。

観察者による記述内容と構造体自体の内包量を同義とする排自的な定義をシステムの類概念として設定してしまうと非自律的な道具的存在者の説明は上手くいくだろうが、我々のような生命体や人間のイデアールな局面の叙述に関しては即座に閉口せざるをえないことに気付かされる。非同質的な複合体は上述の定義に種概念を加えなければならない。あらゆる情動や思考内容といった認知レベルに対応する身体現象や脳内に起こる様々なコネクションを緻密に叙述しようと、それは機能の構造現象であって決して心や知性そのものではない(*)。心は「脳の機能(**)」といった名辞と置換可能なものではなく、単に観点の相違だけで説明可能なものでもない。そこには超克しがたい「無限の質的飛躍」がある。他者による自己定義は他者規定であって自己による自己定義、分析記述ではない。パラレリズムを対応即意味的に看過すると自他発生論が発生せずカオス的原初世界の非境界性による茫漠たるまどろみを選択構成することになる。このテクノクラートによる認識論は擦り抜ける他者を把握不可能とするにも拘わらず他我の確定判断を行う点で明らかに主奴の両立産出を目論む権謀術数である。

(*) 対応関係の限界を説明する際に「脳と心」は良く用いられる。例えばゲオルク・クニール/アルミン・ナセヒ[1993]「ルーマン 社会システム理論」 館野受男 池田貞男 野崎和義訳 新泉社1995 60-65頁。
(**) 養老孟司[1989]「唯脳論」ちくま学芸文庫1998 28頁以下。

システム/構造またはシステム/環境は確かに相互浸透的、互換的である。いかなる認知現象も必ず自己構造の現象化や環境の前提ないし現前的介在との相応から免れ得ないように見える。そのため対応論による描写は普遍的な演繹性を保持しているかのように思われる。しかし上述のようにそれは決して『心自体』を意味しない。仮に科学者による対応記述がパラダイム・チェンジによる心自体とするのならば、今まさに『痛み』を感じている大脳構造を観察した刹那に他者の『痛み』そのものを自己の認知レベルに創発しなければならない。これは端的にファンタジーであり、拡大解釈すればシニフィアン/シニフィエの同一性を述べていることを意味し、相互作用における齟齬の事実すら永劫に記述外のものとしてしまう。この対応関係に欠けているものとして哲学は『充足関係』という概念提示によって懐を分つことになる。我々の経験は必ず経験対象と一対一対応しているかもしれないが、経験対象を認知レベルで対象化することによって得られる情報は経験者の行為可能性の縮減の原理を決定付けているわけではない。情報とは経験対象に内属しているものではなく認知者固有の強度によって自律的に創発されるものである。経験とはシステムの連続的な志向性を攪乱するエントロピーをシステム自らが自己産出する際に併存する一契機であって、経験対象は志向性のベクトル化を行うことのない非決定的な介在者に過ぎない。空のグラスにワインを注ぎ込むようにシステムは環境から同質のプログラムをインストールされているわけではない。タブラ・ラサのような経験論はシステム固有の強度、その固有性や認識の誤謬を記述外にしていることを再度確認しなくてはならない。システム/構造間にこの充足関係が認められない限り、心的システム論は上述のシステムの定義を受け入れるわけにはいかない。心的システムは環境を前提としているという点で決して自足しているとは言えないが、自律的充足を行っているという点で環境に依存しているわけでもない。これは未だにプラトンの学習の比喩である観想(テオリア)の有効性を保証するものでもある。

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関数の比喩がそのままの形では可塑性を得れない理由は閉じたF(x)では全てがシステムによって先行決定され、また自己/非自己の振る舞いを決定的に予知しているかのように解釈できる点である。ここには静的なロゴスによる論理的整合性の桎梏があり、ここからシステム論は生成変化、変動性を説明するために自己組織化、自己言及性、等といったテーゼの論争が始まるのだが、ここでシステム史を概観することはしない。それは他の論考に譲るとして、本小論では現代システム論の末端である生命システムの定義項であるオートポイエーシスの心的システム論に対する位置付けだけを述べるにとどめる。

オートポイエーシスの解釈を巡る最大の論争点とはシステムには『入力も出力もない(*)』、『内も外もない』といった定義である。これをダイナミックシステム特有な構成要素の循環性(排泄と摂取)と捉えると河本流のオートポイエーシスとなる(**)。また質的飛躍によって単純な対立関係ではこの局面を把握不可能と捉えると古典的な認識論となる。前者は相互浸透を同義的、両立選言的に解釈した時のみ有効であり、これはシステム可能態(他者構造)の観察術へと帰着する。(故に河本も述べるようにこれは経験科学への我田引水でしかない。)後者は対応関係と充足関係の区別を導入することによって、システム論本来の魅力(システム/環境の同時発生)を損なうことなく自己と環境の認識論へと昇華する。どちらか一方に絶対的な論証力があるわけではない。ただマトゥラーナ自身も『生物学的現象学』『超越論的経験』(***)と述べているように古典的形而上学の地平に定在した方がより無矛盾にオートポイエーシスは理解しやすい。

(*) H.R.マトゥラーナ/F.J.ヴァレラ[1970,1973,1980] 河本英夫訳 「オートポイエーシス」国文社1991 74頁。
(**) 河本英夫[1995;1998;2000;b;2002;b]
(***) 同邦訳 マトゥラーナ/ヴァレラ[1970,1973,1980] 26-27頁。

このアンビバレントなシステム概念による実証的な観察記述の限界(*)を科学界から提出されることによって科学と思想の境界喪失を迎えたかに思えるかもしれないが、オートポイエーシスの斬新さとは何も新しいことを言ってはいないという逆説にある。オートポイエーシスはそれまでのシステム論にあった自己組織化、自己言及性に超越論性を加えた古典形而上学のヴァリアントでしかない。それが異文でしかないからと言って無価値であると述べているわけではない。システムの自体的記述の限界宣言が科学界から提出されたという点に重要な倫理があるということを我々は見落としてはならない。本研究室はこのオートポイエーシスと心的システムの親和性を受け、安易な現代思想称揚を形而上学へと還元し、その独走に歯止めを加えることによって新たな芸術性理論を脱構築(温故知新、換骨奪胎)することを目論んでいる。今まさに我々が語りを可能としているこの『私自体』とは古来より何の変化もなく恒常普遍と静かに励起し続けている。

(*) 同邦訳 マトゥラーナ/ヴァレラ[1970,1973,1980] 136頁。

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キリスト教神学における重要な鍵概念である『処女性』とはシステムの超越不可能性、伝達不可能性、不可侵性に還元される。それはそれ以降の大陸合理論(*)から現代思想(**)に至るまで語られ続けた絶対的的な否定しがたい事実である。自我は自己を超えることはできず、また超えてはならない。この超越不可能性に関する規範的命題の要請、その準拠点とは、それを否定することは社会と個を共に相殺してしまうことを意味してしまうためである。システム論に『主体』といった概念はあり得ない。

(*) 例えばスピノザ『エティカ』 工藤喜作・斉藤 博訳 世界の名著30所収 中央公論新社1980 定理6 81頁。
(**)例えばJ-P・サルトル[1943]『存在と無 上下』 松浪信三郎訳 人文書院1956-1960;1999

システムは構成素域に系の原初形態を構成し終えた時、環境と自己言及性を同時に獲得する。心的システム論において認識論と存在論は同義的に扱われる。システムは超越不可能であるために原理的に自己言及的である。しかし系列化以前の第一プログラムなきシステムは存在も認識も共に意味してはいない。その段階のシステムは『わけもわからず』オペレートしているに過ぎない。第一系列化までのプロセスとは時間ではなく時熟を意味している。この論理的プロセス時のシステムは自己成立以前の裸のファースト・オーダーである。システムは境界化を終了することによって初めて自己定義を可能としている。その段階において初めて原的な自己言及性が反省的自己言及性へと編成される。またシステムは対応関係の必然性によって自己発生と同時に環境システムの記述を開始する。そして、この階梯を経ることによってシステムは物理的時間概念を持ち得、かつ自己変動性をも獲得する(*)。これは相互超越不可能の前提によって古典的観念論を意味せず『主体』なき二元論、『位階秩序』なき二元論を意味している。システムの成立によってのみ環境の存在可能を唱えるにはシステムによる環境の確定記述を証明しなければならないが、これは端的に前提違反であるために不可能である。

(*) 論理プロセスと構造プロセスの区別はオリゲネスまで遡る。オリゲネス『創世記講話』 小高 毅訳 中世思想原典集成1所収 平凡社1995 第一講話 504頁。「第一日」と「一日」の区別にそれが端的に表現されている。

システムにとって環境が環境であるように環境にとってもシステムは環境である。これは環境システムが自己を成立させるには何らかのかたちでシステムを前提としなければならないことを意味する。超越不可能性はシステム/環境の発生同時性を保証している。

さらに超越不可能の前提は自己の記述する他者構造とはシステム可能体でしかないことを意味している。対応/充足の区別によって他者は何らかのシステム単体ではあるが何のシステム単体であるかは記述不可能であることを意味している。これはシステムによるシステム産出は構造記述内でのみの有効性を主張し、絶対的因果性を却下するものである。

『人間』は「人間」を生み、また「人間」は「人間」を生む。しかし『人間』も「人間」も共に『人間』を生むとは定言できない。心的システム論は古来よりある世界の全係争のディレンマを構造領域に保存したままドラスティック・コミュニケーション・エシックスを主張することによって新たな価値判断を可能としている。それは支配者も平等もない『対等』への世界啓蒙である。

Metaforce Iconoclasm

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