芸術性理論研究室:
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04.23.2007

永遠の所在

 

私達の通俗世界では満充の平衡状態をむかえた際に、それを幸福として描き、その状況が「永遠」に続くように祈る命題が当然のように並びます。しかし連続流動していく私達にとって、それは自己否定でしかなく、なんの術もなく状況は自己との関係内容を再構成していきます。厳密に述べるなら「永遠」とは始まりと終わりを欠くものになるので、「永遠に続く」は矛盾命題となり、それは時間において始まり、終わりを欠く「永続する」と述べなければならないのですが、モータルな私達はそれすらも禁止されているかのように思えます。それでも「永」にまつわるメランコリズムは生の途上にたびたび表れ、苦渋や憂いを与えてくれます。それを私達はどのように理解すれば良いのでしょうか。そこでこのコラムではありふれたディレンマの発生する所以と「永」の概念布置を試みたいと思います。

一般に連続描写は時間論のものとされ、ひとつの総論で済まされてしまいがちですが、観察態度を含めて考えると様々な種があることに気付きます。この局面は中世のコンシュのギョームなどが簡潔にまとめています(*)。彼は、始点と終点を欠く円環的な「永遠」を唯一絶対である神に、物理的時間である創世場面とともに始まり、終わりを欠く「永久」を宇宙に、それぞれ対応させました。そして魂の非存在性により、既に始まってしまっている最中において発生し、作動を開始するプラトニックなそれに「永続」を与えています。「永遠」と「永久」はそれぞれの概念域に留まる固有で単一な描写原理によって素描されているので理解しやすいのですが、途中で原理が切り替わってしまう「永続=魂」はあいまいで難解です。もちろんこれは観察された「魂」としては妥当なものなのですが、ハイデガー的な描写原理を応用しての自己記述では導出されえないように思えます。魂による魂の描写では自身不在時の自己記述が不可能なため、自己の発生を描けないので、永続ではなく、流れる永遠、つまり「永遠的永久」として魂は懐念されるはずです。

(*)コンシュのギョーム『プラトン・ティマイオス逐語注釈』(大谷啓治訳) 中世思想原典集成8所収 平凡社2002 427頁以下。

それでは「永続」とは何なのでしょうか。単なる論拠なき捏造の産物なのでしょうか。私はこの永続概念の発生契機を触覚体験に求めたいと思います。抱擁や肌と肌との接触による境界喪失性については以前のコラムやレポートで述べてきました(*)。それは確かに時間において始まるのですが、触れ終わった後に一切の残余を消し去ってしまう点に着目するなら、触れている際の没単位性という永遠は、終わりなき「永続」として描写できます。これは知覚与件は体験の最中においてのみ内容化され、体験後の認識域における形式原理の普遍性によって経験・情報化されるといった素朴な現象に対して、触覚のあらゆる没性が関わることにより、疑似化されています。どんなに長い時間、同対象を触れていたとしても、離れてしまっては、それがどのような感触であったのか想起することのできない良くあるディレンマは、終わる以前を描けないために終わりを欠いていると言えます。意味の文脈理論に可逆性は不可欠なのですが、触覚的体験はこれを保持できません。ここには永続性があります。最重要な点は再接触によって、この永続性が永遠化されてしまうということです。執拗なまでに同対象を触れていたとしても、ふたたび触れることによって、私達は前回の経験を更新してしまいます。触覚は決してソリッドな確定記述を与えないために、再接触が前回の接触との関係を断裂化させてしまい、その始まりまでをも否定してしまうのです。

(*)拙論[2006;2007]:レポート『可塑性について』『定着と剥離』、コラム『触覚について』『愛撫について

 

このようにして、触覚は認識域との共働により、構造域に「永」を観ることができます。

そしてこれが、初めての口付けも、100万回目の口付けも、同じように感動可能な所以でもあります。

 

2007年4月23日
ayanori [高岡 礼典]
2007.春.SYLLABUS