芸術性理論研究室:
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02.24.2007

愛撫について

 

人類が生物学的な記述・決定則のみに従って、生存選択を実行していくとするのならば、私達は他者を愛し、愛でる必要などありません。誰かを愛さなくとも生命継続・保持することは可能です。使い古しの「種の保存」や「利己的遺伝子」等で反論してみたくなるかもしれませんが、愛欲と性欲は同義でもなければ、両立選言的関係でもありません。多様性を保持しつつ生命の系を紡ぐだけならば、求愛のない強制的な性交や手続き的な交換だけで良いはずです。それにもかかわらず私達はあらゆる概念記述を排除する愛を捨てることなく、エゴイスティックに非自己を肯定し、包み込んでいきます。それが自己に危害を加えるかもしれない肉食動物であろうと愛おしく想い、やさしく撫でてあげたいと思う無償性は少なからず誰もが本有しているかのように思えます。

愛を指し示す恋の表現は好意の告白やディスプレイを経て、愛撫になります。そして愛撫は恋を愛へとシフトする接続者を担います。愛撫の最中においてのみ、有限者は辛うじて擬似的な愛を現象化しています。愛撫の終わりは愛の終わりであり、恋への回帰・始まりを意味します。以下にその論理過程と愛する人をずっと抱きしめていたい・抱きしめられたいと切実に想い、そしてもう一度出会い、抱きしめたい・抱きしめられたいと願う所以を確認します。

愛撫によって創発される意味内容の多くは触覚契機によるものであることは述べるまでもないことです。以前のレポートやコラム(*)で論じたように触覚は定点なき連続項を単位にするような時速的感覚です。常に動いていなければ意味を成さない触覚内容は始まりと終わりの間に質的変化があろうと、それぞれの場面を部分化して内包量自体を外延化することができません。また同一の対象であろうと、接触のやり方次第で著しくその意味内容を変えてしまいます。フローリングの床を高速で触れれば摩擦熱で火傷を負ってしまい好意など抱けないことでしょう。触覚は感覚が主体的に外知を取得するものではなく、相対的に自己の位置価を構成するための前素を提供するに過ぎないものであることに気付かせる最良の器官です。そのため「なでられる」と「なでる」とでは異なる意味を現象化します。前者は身体シェーマの回復ですが、後者は自己前提的な他者知であり、他者へ及ぼす効果の期待といった一方的な他者構成を主眼とします。一見すると受動態である前者は構造的質を含めて他者を必要とするのに対して、後者は他者の質的個性を特別に問うことのない勝手な行為のように思えます。しかしそれは観察記述の範囲内でのみ有効な帰結です。心的現象的に「なでられる」は不快な刺激であったとしてもシェーマへと還元できる利己的な行為ですが、「なでる」は対象強度を予期しつつ、他者と自己を保存しなければならない世界創発の積極的行為になります。相手に危害を加えてしまう接触は自己を絶対化してしまうので、「なでる」には含み得ない単なる破壊です。つまり「なでる」は常に他者を見(観)ていなければならないということになります。

(*)拙論[2006]:レポート『可塑性について』、コラム『触覚について

 

以上のように愛撫は能動態の場合のみに自己を含意した他者を産み出し、自他同一への空想へと誘います。重要な点はその能動態が触覚であるために把捉を絶対的に拒否しているということであり、把捉不可能であるが故に同対象へと向いうる(前)動因を再生産するということです。現在における「ふれた」という過去記述と「ふれた」際に知覚認識した意味内容の不在という差異は触覚のミスリードによって私達を愛へと振り向かせ続ける大切な社会化現象なのです。

 

2007年2月24日
ayanori [高岡 礼典]
2007_冬_SYLLABUS