芸術性理論研究室:
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11.17.2006

触覚について

 

アリストテレスが『形而上学』の冒頭で述べていたように視覚(眼)は特殊な感覚です。他の外部感覚器官にくらべ視覚だけは「目蓋を開く」といった能動的場面を経なければ与件の取得を行うことができないため、知を欲する存在として人を定義付けることは可能です。たしかに能作を必要条件とする感覚は視覚だけかもしれません。そして人を視覚動物の種として形容するは妥当なことかもしれません。しかし本質を見抜く哲学的思考ばかりに拘泥していては、他の感覚に含まれる複合的な協働によって織り成す重要な特異性を見落とし続けることでしょう。そこでこのコラムでは『点』のような自体的知覚認知を可能にする感覚、殊に触覚について確認しておきたいと思います。

述べるまでもなく触覚は対象の温度と肌理(きめ)を知るために働きます(*)。私達が活動している最中において、それらは否が応でも知覚してしまいます。仮に私達が裸で空中に浮いていたとしても、大気の「なめらかさ」を感じてしまうことでしょう。そのため触覚も聴覚と同様に受動的といわれても仕方がないように思えます。しかしそこへ能動性を加えると触覚は認識域を超えた情報を提供し始めることになります。

(*)視覚情報にも肌理は含まれると思われる方がおられるかもしれませんが、眼球でとらえることができるものは二次元の映像のみであって、そこに物質性はありません。日常生活で視覚だけで対象表面の質感を知ることができる理由は、以前に取得したことがある触覚情報と関係付けることにより判断する『習慣』によるものであり、勝手な先入見でしかありません。硬化しない可塑性のたかい粘土のような素材を用いて精妙に作られた鉄の塊のようなオブジェを初めて見せられた場合、私達は触れることなく、軽さや柔らかさを見抜くことができるのでしょうか。

 

たとえば目の前のモニターに、たとえば誰かの肌に「手のひら」を押し当ててみる。そして、ゆっくりと対象の表面に沿わしずらしていく。触覚は一般にこの連続的な移動による過程によって、初めて肌理についての情報を得ることができる文脈的な感覚です。最初の押し当てでも肌理を知ることができると思われる方がおられるかもしれませんが、それは面に対しての垂直方向の力が安定していないので、静的に見えつつも触覚は情報を取得してしまうに過ぎません。人の肌のような手のひらと同質の対象を長時間にわたり微動なく接触させていると、やがて接触者と被接触者との間にある力と体温の差異が近似・均衡してしまい、「何かを触れているにもかかわらず、何を触れているのか分からない」といった、まるで自己と他者が同化したかのような体験を得ることができるはずです。それによって上記の初回接触における非平衡性について実感して頂けると思います。そして特筆すべきはここにあります。臭覚や聴覚も文脈的には変わりないのですが、この単位的局面がありません。味覚にも「点」はありますが、触覚ほどの明確性はないように思えます(*)。とくに触覚による非文脈的な感覚場面は拡大身体ではなく身体境界の喪失を感じることができます。

(*)視覚に「点」があるとするなら、それは光なき暗闇になります。しかし自他の両義性に挟まれる触覚の「点」に対して、視覚の場合は自他なき自己の完全性を現象化するので、感覚とは呼びがたい特殊なものになります。視覚情報における最小単位を描き出すには形而上学的な別の議題や論法を必要としています。

そもそも触覚だけが他の感覚と違い、身体・延長性を前提とした感覚です。そこから得る情報はすべて自身の肌や身体強度との比較によるものという意味で、常に自己を含んでいます。そのため感覚平衡が境界喪失的・脱環境的となってしまい、私達はながい抱擁にさまざまな誤解を感じることになるのです。

 

2006年11月17日
ayanori [高岡 礼典]
2006_秋_SYLLABUS