芸術性理論研究室:
 
font face


text navi
contents
目次
up
進む
down
戻る
 
2009年度版序文
間の狂言

text written by : ayanori [高岡 礼典]

それがあなたの行方をさえぎるのならば、すべて灰燼に帰してもかまわない。それがあなたの開闢を希薄した先取ならば、自ら足跡を消し去る技術を先人達は獲得しなければならない。我々が直感しうる行為可能な構造域が有限なる内挿の積み重ねならば、尚のこと、文化・芸術は耕作的営為でなければならない。泣く子を笑わせるための所業の数々が、道程ではなく、圧迫するだけの壁面にしかならないのならば、ここで一度、歴史年表を地(面)へと返すは、次に舞い降りる芸術家達へ、術を与えることなく提供する貢献である。

これは「欲しないものからの回避・逃避」でもなければ、「続く世界内にある跳躍」でもない。それ以上に残酷な破壊的改竄の主張と要求である。そこに祖述・先蹤はなく、学習もなく、ただ純粋なる創造的芸術のみがある。少しの気概を持った芸術家ならば、今この「ひとはば」に形容しがたい飽和と透過を感じ、主体なき触れられない社会の中へ、作品群が矛にも鍬にもならぬまま、無限に吸収されることに意味を見出せずにいるはずである。出会えぬ後人達の慎み深い消光へ血涙を約束していく堆積は、如何様にも分解できず、肥沃から遠ざかっていく。

残すことだけが正しさではないことは、有限の公理が指示している。既得権益から抜け出せない矮小な支配欲は、素朴な人の有様すら冒涜し、利己に超越を加える。ここを逆手に取った構造主義による慰めの企ては、「切り取られた和解」のみを形成し、生を茫漠と化し、一部の特権を変えることなく継承してきただけである。なぜか。どれだけ身を隠し、どれだけジェネラルであろうと、我々は「名」を捨てられないためである。名告れなければ、人は人を知り得ず、向き合えない。『孤独』が哲学的真理であったとしても、「孤独」はそれを理由付けてはくれない。

『わたし』は「あなた」に「わたしの名前」を呼んでほしいと思う。そして、『わたし』は、「わたし」は、「あなたの名前」を呼ばさせてほしいと思う。

それが欺瞞であったとしても、限定化が始まりならば、利己を認め、他(者)の利己性を圧することない矛盾なき個は有意義なものとせねばならない。それ故に、断続化という名目の下に、終わらせるのである。

 

本研究室は2005年の春に開設し、芸術家もしくは芸術教育家育成のために尽力してきた。2006年の秋以降からは、触覚の形而上学を中心に据えつつも、芸術家達の秘匿を抉ってきたと自負している。制作者のみが知り得ること、思い悩むこと、そして蔑ろにしている事柄を、ひとつひとつ取り上げ示唆してきたはずである。そこに必要以上と思える『行間』がある所以は、この場で完成させないためである。完成したアイディアは、最早ドライバーではなく、それ自体が作品になってしまう。哲学・思想の産物を換言しただけの芸術は、開口ではなく二次文献以下の溶剤・アフォリズムにしかならず、ひとりの識者介在によって打破されてしまう。文章原理による作業を超えた「つくるひと」を待ち望むには、古来よりプラトニックな促しで留まらざるをえない。

ここには作品へと向かいうるものがある。

白い鳥の歌声が聴こえてくる頃に、誰もが自由に剽窃してかまわない。

 

やり残したことは、やらなければならないことではない。

 
 
Metaforce Iconoclasm
-000-2-
0002009