芸術性理論研究室:
 
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2005年度版序文
芸術性芸術主義

text written by : ayanori

芸術家による芸術家とは何者をもまた一片の夾雑物をも前提、混在させることなく自己触媒的かつオートノミックに自己産出する創造者、ファーストオーダーである。それは歴史的文脈を跳躍する脱帰属的かつ超構造的な自体者を意味する。この神的概念の定義項を「人間」へと回収しようとする近現代以降潜在し続ける通俗的な芸術家の定義の可能的意味の限界を無批判のまま『芸術家』を僭称する厚顔無恥な蒙昧主義者と経験論的観察記述によって芸術知を捏造する評論家との共働、またその詐術に操作された大衆と放棄による先行的敗北者達の保存活動によって我々の眼前に繰り広げられる芸術文化とは擬制的芸術史でしかないものを連接保存しているに過ぎない。そこでは芸術と決定論(事実即規範)のパラドクスが平然と無矛盾として描かれている。

本研究室は人類史上、芸術の定義を完全に充足したものなど寸毫もあり得なかったという越権的言明を契機として開設された。我々は「芸術とは何か」という問いの立て方が誤りであることを理解し、『芸術性とは何か』へと問いを改めることによって新たな立論を見極めることになる。「問」が指向する『答』と接続可能な「対象」が存在し得ないからといって『答』と共に「問」を捨て去る歴史は終わらせるべきである。「問」に誤りがあっても『答自体』に誤りなどあり得ない(*)。「対象」が不在ならば『答』を原理前提化することによって『問』を再産出・再構成すれば良い。『答』を『問』へと再配置することによって我々は知的豊穣のために有意義な契機を創造する。そしてこの『問(芸術性とは何か)』は本研究室が一般的な芸術学とは研究域・研究態度を異にし、他者創造ではなく自己創造の場であることの主張を含意している。本研究室は観察者育成の芸術学ではなく芸術家育成のための理論的エピステーメの研究をメルクマールとしている。この点についての十分な理解を期待するため、以上を以下に若干敷衍しておく。

(*) この特有な命題の原初としてロック[1689,1694,1695,1700]『人間知性論』 大槻春彦訳 世界の名著27所収 中央公論新社1968 第二巻第三十二章 131頁。一般に経験論と称されるロック認識論は最終判断決定者として知性の独立自律性を保証している点において厳密には経験的観念論と言うべきものである。同邦訳 第二巻第一章 82頁、同巻第八章 92頁。

芸術など此の世(彼岸)のどこにも存在などしていない。そもそも初めから『芸術=作品』という言葉自体が形容矛盾なのである。

表現活動自体は創造やクリエイトなどといった被定義項には内包され得ない。縮減された構造領域、またそれを叙述する自然学的認識論では創造現象は認知不可能である。それはマテリアルを再構成する製作でしかない。神的概念は世界を創造したのではなく、制作したに過ぎない。七十人訳(ギリシャ語訳)聖書において「ポイエーシス」の語源である「ポイエオー(作る)」が使用されていることは適切である(*)。制作とは創造と製作の曖昧な区別による臆病なロマンティストによる言葉でしかない。そこには定義保留の懐疑心が表れている。第一質料も太古の素材(テルトゥリアヌス)もモナドも認知者にとっては超越者である。密室者には信じがたいかもしれないが世俗界では未だにクリエイター、知的生産者などといった戯言が当然のごとく猖獗している。現行社会とは内省なき偽・超越者、換言すれば自己矛盾、自己否定を認識できない反省なき即自者、前・人間の狂気(自分ではない他者という自己)によって組織化されている。ヘテロノミックな生得的奴隷達が知識階級の表層的行為を無理解・無意味に再演しているに過ぎない。

(*) 『七十人訳ギリシャ語聖書 I 創世記』 秦 剛平訳 河出書房新社2002 20頁以下。

周知の通り芸術表現とは構成素の産出と構造への飛躍を担う媒介行為とされる。後者はシステムと構造を関係化する聖霊である。聖書において聖霊が扱われないように、アウグスティヌスの『神秘』を代表とする教父達にとって最も聖霊が把捉しがたかったように、2400年あまりの西洋思想史上、質的飛躍が起こる相互浸透化のその瞬間は(それが物理空間に限った相転移であろうと)我々が確かに経験し把握しているにも拘わらず知性認識不可能な局面であり、現在に至るまでただの一人も把捉して理論的詳述を完遂した者などいない。このアポリアが芸術を安易に神秘・神聖化することによって知的領域から発言権を剥奪、追放し、また芸術担体からも知性の黙殺とミゾロギー(反知)を謳わせることへと帰結させている。

それが知性領域外だからと言って我々は不問に付して良いわけではない。構造主義的時間観による早急なる事実即規範による判断は『人間』の言葉ではなく野蛮な暴力でしかない。ポスト構造主義者等によるオプティミズムに称揚、賦活され自己概念を拒絶しようがシステムの『一性』は絶対的に揺るがない。この縮減性は不確定性をも確定性の種へと変換、包摂することを意味している。局所視野は知性に浸透している。

芸術家とは構造構成者ではない。それは決定論的行為者・アロポイエティック(他者製作的)な技術者に妥当する定義項である。それは第二次記述による芸術家であって、自身の本質を叙述する第一次記述による内属定義項ではない。構成素因の創発と構成から構成素集合の再構成までのみを含意し、構造自体を記述領域から排除する者こそが芸術家に妥当するということを忘れてはならない。

古来よりある『人類』の定義項である知性、理性、意志は『芸術性』に代表される。芸術が知性に反目しているかのように見えるのは現行のイデオロギーが採択している他者(超越者)へと誘導、オリエンテートする認識理論が芸術性を黙殺の先入見によって先行的に排除しているためである。『芸術』は芸術領域には存在し得ない。構造自体は芸術のコードを超えている。それはコミュニケーションメディアとして記述還元された時、没交渉的に自壊する。『芸術』とは行為主体に内属した支配領域内に芸術性としてのみ、その存在性を有しているに過ぎない。『芸術』は『芸術性』として世界に臨在している。我々は言表空間を芸術(構造)から芸術性(システム)へと移行しなければならない。これはナンセンスなバンダリズムではない。文化を文化性へと更新し、理想的イコンのコンセンサスを確立するための有意義なイコノクラズムなのである。無差別な構造批判による短絡的なアンチズムではなく、構造指向的イコンのみに対する条件付きの拒絶表明である。理想的イコンとは意味への加速的志向性とその永続性の契機を与える対応者である。我々は経験領域内に限局的に生きているわけではない。システム域における有機的な論理プロセスを経て初めて『生のリアル』を記述している。知性を伴わない叙述不可能な経験を経験とは呼ばない。認識保存不可能なものは人間の構成素には編成し得ない。我々は紛れもなく意味の世界を生きている。

学術・学芸の本来あるべきアモーラルかつアヴァンギャルドなラディカリズムをここに開示、展開、保管する。世俗の桎梏を全て無効者として捨象し、自己の純粋なノモス(法)を産出、彫琢し、その刃先によって自己去勢することは『人間』へと成長することである。完全なる自己隷従こそが『人間』の定義項にはふさわしい。

力自体そのこうがわ。その内奥への深化

       
ayanori2005
Metaforce Iconoclasm
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