芸術性理論研究室:
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11.27.2008
METAFORCE ICONOCLASM VOLUME.4-3.5
母性と母乳
 

生活を人と共にするネコ属イエネコの彼/彼女らは、自力で獲物を捕らえ、食料を確保する必要がないので、身体的成熟を果たしても、行動規範は子猫の部分を残します。自分の尾を「くるくる」と追いかける回転運動で遊び、用があるわけでもなさそうなのに、必要以上に話しかけ、独り言も頻繁です。特に留守番をまかせて外出する際は、母猫を引き止めようとする子猫のような悲鳴が家の外まで響きわたります。これらの「遊び」や「声」は子猫達にとって成猫した際の捕食活動の訓練や、母猫からの哺乳に役立つものと考えられるので、外敵から逃れつつ野生的な環境で単独生活する成猫には見受けられない行動になります。

以上は「必ず大人になる」という決定論を斥けはするものの、子猫だった名残りの中に、本能としか捉えられない仕種があります。就寝時に皮毛に似た布生地を用意するか、腕枕をしてあげるかすると、両前足(手)を交互に使い、「乳もみ」の運動を行ないます。それは、ゆったりとしつつも力強く、不器用そうな丸い手を開いては閉じ、開いては閉じ、と繰り返し、乳をしぼり出そうとします。当然、母乳など出るわけないのですが、両前足(手)の間に現出したであろう母乳を求めて顔をうずめ、舌先で舐めている姿を見ると、必要性のなさも加わり、捕=乳行動は本能・摂理・自然の域にあるものと考えざるをえなくなります。ここから生命の自己言及的な至上性と非芸術性を誤読することが可能なのですが、それでは他者の命を守り育もうとする利他的な哺乳・授乳に関してはどうでしょうか。求める子を引き寄せて、母乳を与える行動は絶対枠なのでしょうか。通俗的に用いられている「母性本能」という言葉は実内容あるものなのでしょうか。答は否になります。「分娩者」と「母」は等価・同義ではありません。もしも母性本能・母性愛と呼ばれる行動規範と『気持ち』が、あまねくすべての分娩者の本有域に創発・内属される源的原理ならば、種々の動物種に育児放棄という行動現象は見られないはずですし、里子して引き離されてしまう母猫のその後は、没行動的な自壊しかないはずです。子を産み落としたからといって、「母」になり、子を育てなければならないわけではありません。それはどこまでも分娩者の意志に委ねられた行為なのです。

この場面を経験科学は、子による捕=乳行動によって説明します。吸啜運動という独特な刺激を母の乳頭へ与えることによって、母の視床下部が賦活され下垂体からホルモンが放出されます。それによって母乳の分泌が活発となり、卵巣の機能が抑制され、「母性愛」が点火するというわけです。つまり、子を(胸元の)乳房へ引き寄せるまでの「始まり」のみに母の自由を認めるが、始まってしまった母性には意志ではなく自然の自動として形容しているのです。

果たしてその通りなのでしょうか。他の哺乳類に関しては無批判にならざるをえませんが、少なくとも人の場合、15分前後といわれている1回の授乳時間の「間」を意志なき母性本能によって埋めているのでしょうか。子に乳頭を含ませる行為の最中を、中断不可能かつ批判・懐疑不可能な全母性として謳うは、楽観的な諧謔ではないのでしょうか。当研究室は、この場面に抱擁による許容・能動的な寛容の形而上学を挿入したいと思います。前々回のコラムやレポート『相愛』等で触れていることなので、詳しく繰り返しはしませんが、地(面)喪失による重心同化を描写原理として、母は「授乳する自己」を選択し続けていると考えます。

 

もしも『母性』なるものが、母乳を与えられる女性だけのものだとするのならば、乳房なき男性による子を愛する気持ちは欺瞞になるのでしょうか。

 

■参考文献:
山本高次郎[1983]『母乳』 岩波新書1983。

 

2008年11月27日
ayanori [高岡 礼典]
SYLLABUS_2008