芸術性理論研究室:
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11.07.2007

愛しい人に恋をする

 

けたたましい産声によって、懐胎・出産は自己触知を超え、嘔吐・排泄を凌駕します。支配不可能な生れ出ようとする意志的な動きの確かさは孤独を否定する尊重です。全体に張りめぐっている神経や血管を一気に抜き取られるかのような激痛も、始まりへの歓喜によって訂正に気付かされ、抱擁場面によって、確定的にあらゆる哲学的な描写理論を無効化します。それは単なる自己分化でも自他の区別でもなく、構造分化による他者としてのオートノミー創発のためです。一見ではエクスタシスに近似する経験現象も、乳首から母乳を吸い出そうとする激しい干渉によって、一元からの二元論や、無差別なプルーラリズム等から言及の可能性を奪い取ります。自己の血肉を利用する積極的な契機提供から始まりながら、それがヘテロノミーを超えた構造体・子へと漸次的に変異・メタモルフォーゼを果たしてしまう現象を描くには哲学のオールタナティブが必要です。

ここでは「懐胎・出産」に関してはテーマ確保だけに止めるのですが、そのシークエンスの中で重要な役目を担っているひとつの階梯である「抱擁」について再確認したいと思います。これは倦怠を賦活する道具として利用できます。

 

そこで、配偶者・恋人・愛しく想う誰かのそばへと寄り添い、彼/彼女を「横抱き」してみます。以前のレポート『定着と剥離』で論じていたように、抱擁は地(面)の喪失によって、没対象化を心的に現象する自他同一への一歩になります。しかしそこへの至り方・抱き方によって創発する意味内容は大きく異なります。側面からの干渉は、やさしさから始まる(*)、やさしさの否定のようですが、そのまま横から抱きかかえた途端に、抱擁理論によって再肯定され、やさしさによる同一化が果たされます。それは「側面から」といった交叉関係による同一化なので、消極的であるにせよ、他者への言及不可項が守られることによって、未知との同化が完成されます。不可侵体との全肯定的な信仰的関係、つまり『恋』の発生です。

(*)拙論[2007]:コラム『横顔について

愛は、その全対応要求によって向上を生むと同時に、原理の欺瞞によって多くの残酷をも刻んでいきます。自己改定は原的な自己が守られる場合のみ、無害であり、その自己内容が愛によって改竄されている場合は、惨すぎる他者否定を日常化して、愛する人を物化します。

もしも、自己による自己の裏切り、愛への黙従による麻痺に気付き、本意を再構成したいと思うのならば、知り過ぎた相手を、たまには抱きかかえてみると良いでしょう。自ら知る権利を放棄した同化によって、恋に堕ちた瞬間の気持ちを取り戻せるかもしれません。

 

いつもそばにいるあの人は、常に再会可能なシンデレラとして佇んでいます。

 

2007年11月7日
ayanori [高岡 礼典]
2007.秋.SYLLABUS
 
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