芸術性理論研究室:
Current
06.11.2007

横顔について

 

その横顔をそっと覗き込む時、私(達)は『私にもやさしさという感情がある』ということに気付きます。どこを見ているのか、何に見入っているのか分からない側面を見守る自己の様相は干渉の可能性すら禁じられているにもかかわらず、他者を保持するので、『思いやり』の論理図式と近似しているためです。横顔という輪郭の盗視は他者の自由を守り、存在記述を永続化するように働きます。寄り添う姿にこそ目的なき関心の表現と現象化への契機があります。私達は他者からの愛を知ることができなくとも、自己から他者への愛ならば確認することが許されています。以下にその論理的所以を述べたいと思います。

それでは二人の正面を向い合わせてみます。自己の身体構造についての知識獲得を通過した者にとって、正対峙は自他の構造的関係を視覚交換的に一対一対応化してしまいます。これは空間的にも場的にも「身体一般」の共有が議論なく行なわれてしまうので、自他分化が困難になり、また操作不可能な身体を創り出してしまうので、その関係内容は当然的に拮抗しがちになってしまいます。身体的カップリングを解くには視覚把持による相互の完全性を禁ずる必要があります。そこで第二者にお願いして、目の前で眠りに落ちてもらうことにします。目を閉じ、ゆっくりと呼吸を繰り返す姿との対面は、横顔同様に『見守る自己』を必要とするので『やさしさ』を現象化できるはずです。しかし寝顔とその観察者の間にある主従関係は前者の無防備さ故に後者が上位になってしまうので、対等性が維持できず、少なからず懐疑の余地がうまれてしまいます。『やさしさ』は可能性の制御にあるのではなく、可能性の制御放棄と干渉なき対等性の保持にあるといえます。それを背理的に経験するには背面対峙が分かりやすいと思います。述べるまでもなく後ろ姿には交換的に対応化可能な身体要素がそろわないので、他者の自己知を現象化できないばかりではなく、他者を見ているにもかかわらず、自己の他者知構成すら頓挫してしまいます。それは他者一般不在の見守りになり、他者構造への恐怖をうみ、没関係の意味内容が『無・関係』となってしまいます。これは干渉の禁止ではなく、干渉概念や対応性が初めから期待できないので、有意味な情動変化を成し得ない点が重要になります。

背面対峙と同様に横顔にも裏側という恐怖があります。そのためこのコラムで扱っている横顔は「正面から回り込んだ横顔」と書き直さなければなりません。向かい合う関係から寄り添う関係への再配置は、身体的カップリングから場性を除外し、空間内へと限定することによって、確信的予期域へと他者を置き、差異に対して積極的な肯定が可能になります。この場面では如何なる「裏切り」も憎悪にはなり得ません。

初めからズレている対応性には制御や干渉などといったものは概念的にあり得るはずもなく、能作への無関心が観察者を満たし、そこにはただ対等な二人の個人が佇むばかりなのです。

その曖昧さや両義性によって、横顔は他者を永続記述することにより、『やさしさ』とはどのような情動変化なのか教えてくれます。そしてそれはコミュニケーションだけに意味があるわけではないことをも示唆してくれることでしょう。

 

2007年6月11日
ayanori [高岡 礼典]
2007.春.SYLLABUS