芸術性理論研究室:
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11.07.2005

観察者と制作者の間にあるもの

 

前回前々回と述べてきたように観察は自己内容を必要条件として含まないために、思想を自由化(雑化)してしまった社会では自身を決して省みることのないスノバリーが次から次へと吐き散らかされていきます。無能な者ほど文句をわめき「言うは容易い」ことに気付きません。

ここでは批判形式について疑義を述べているのではなく、批判行為へと挑む際における基本態度-倫理についての確認を主張しています。

 

私達が他者を知るには観察ではなく、自己だけにしかその手がかりを得ることができません。直接の研究材料とは直知可能な自己のみになります。そのため自身を蔑ろにした方々による批評は人の形式枠には収まりきらないものまで要求しがちです。人類知らずの戯言は制作者との間に会話の可能性を産み出しません。それが人為を超えているので、制作者は「この人は一体何を言っているのだろう?」と思考を停止してしまいます。

自分を含まない命令形は終息不可能なものを孕んでいるので、これはエントロピーとなり、命令形の循環を産み出すことによって、社会活動を賦活し、その形成に役立つのですが、やがて動因が単なる誇大妄想へと化し、破綻を招くであろうことは現代の経済状況を知るだけでも十分なことだと思います。

排自的な言葉は『人類』を未定義としてしまうために意義を見出せない暴力を産み出したり、前現代的な人類至上主義を準備・拡充してしまいます。それに加えて利他的・他者依存的な倫理観が無限ループの形式に役立ってしまうので決してネゲントロピーへなど変わることはありません。これは個体についてではなく社会歴史系についてのはなしになるので忘却は事実上不可能に等しく、「ズレ」は消滅することなく残存し続けます。

やがて鬱屈した大きな皺は私達人類へ未踏の領域や作品を見せてくれるのかもしれません。後輩達に「この程度のものを手に入れるために、いったいどれほどの犠牲を払ったのですか」と言われてしまうようなガジェットを。

 

2005年11月7日
ayanori[高岡 礼典]