芸術性理論研究室:
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10.22.2005

観察について

 

動因を個々へ求めつつ社会統合を実現しなければならない相互支配による自己制御系ではソフトという意味での第二動因である『価値』といった位相化不可能なものまで「共有するもの」として企てられます。そのため公的空間には雑多な思想が乱立し、並存し、さまざまな主義・原理によって等級付けが行われ「歩むべき仮想通路」を整序していきます。それはマスメディアだけではなく、日常の生活空間でさえ当然のように行われています。社交術といった既に制度化されたコミュニケーションの枠組みを一歩でもはみ出ると無分別に「好き/嫌い」「良い/悪い」といった非文脈的な主張のせめぎ合いに出会わないわけにはいきません。

議論不可能な評論は自己を棚に上げた排自的で一方向的なものであり、会話の可能性を先行的に排除したアンフェアなものです。多くの芸術家や製作者の方々はその賤しさに辟易していることと思います。理論や理念のない判断なので審美眼など期待できるわけもなく、「そんなに仰るのなら、ご自身でなにかやってみて下さい」と言ってみたくもなるでしょう。また美術教育を受けたことがある方なら評論家による講義内容が制作者サイドの理念と一片も符合することがなく、「言葉」や『言葉』の差異や非シンメトリックに対して言い得ようのない違和感や疑問を抱く経験はうんざりするほどあることと思います。

古来より何の疑義もなく、何の歩み寄りもない、この観察者と制作者が相互に疎外しあいながらも大きな係争もなく癒着的関係が継続してきた理由を述べておきたいと思います。

現代システム論において観察行為は被観察体に自体の内部記述を意味しません。また複数の観察者による同一の被観察体に対する記述内容は同一の意味内容を持つことはあり得ません。前件については『研究レポート』の中で幾度となく言及しているので詳述しませんが、ここでは後件について述べることにします。

科学的態度に徹するのならば観察者Aと観察者Bにとっての被観察体である環境は相互に相手を含み、自己を含まないものであるため、同一環境とは言えません。Aの環境にBは存在しますが、Bの環境にBは存在しません(*)。それは同様にその逆も成立します。そしてこの自己環境における排自性を視覚的に述べると、パースペクティブは単一の視点を背後に含意しますが、視点自体は決して前景化することなく常に環境を超越した場へ配置され、姿を視覚化することがありません。自己は景色を規定する捨象項であって、景色の中に自己自身が描かれることはないのです。そのため排自的な批評を批判する権原を科学倫理は見出せず、どんなに疑義を抱こうとも、発言自体を見過ごさなくてはなりません。この局面は他者一般のパースペクティブに自己を組込むような哲学的反省の概念へ訴えなければ乗り越えがたいものなのです。

(*)思想史的にはフッサールの「相互主観(間主観)」が嚆矢になります。

同一内容を共有できないことに加え、自己を一切含まない観察記述は「命令」を産み、分業を可能にしますが、倫理・思想の共通了解や対話の可能性を指向しません。それは分業思想を否定するパラドクスを産み出し、社会空間に人文的文脈の構成を不可能としてしまいます。これは端的な出来事でしかないものが並ぶだけで良しとする社会的空虚観を説明する論拠のひとつになります。

 

今も昔も社会には批判する者と批判される者がいます。いつも被批判者へ全ての責任を押し付けて、批判者は自己表示することもなく、知的劣位にあるものを手懐け、無意義な権威を築き上げることによって自己を保存し、絶対化していきます。

この現代芸術文化の領域に足りないものとは、作家でもキュレイターでもなく、自責の品性を期待できない評論家を訓育・指導する教育者としての「批判する者を批判する弾劾者」なのです。

 

2005年10月22日
ayanori[高岡 礼典]