芸術性理論研究室:
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10.30.2005

制作について

 

前回のコラムで述べたように観察行為は視点の超前景性によって自己を規定項として含意しますが、抽象され確たる要素として積極的に包含するものではありません。ですから観察とは意識化を不必要とする行為といえます。では制作についてはどうでしょうか。古来よりある安易な経験論による「ミメーシス(模倣)」で済ませてしまうことは早計でしょう。少なくとも全ての責任を自己へと帰属させる「自身の作品」と呼べるものを制作したことがある方々には述べるまでもないことだと思います。

制作は観察を含むのであって、制作と観察は同一の局面でも論理段階でもありません。ここで述べる制作とは自らの企てを非自己へ投げ掛け、構成することであり、プレゼンテーションの要求を保証したものを意味します。それは非意図的な構成(*)とはまったく異なるものです。

(*)意図のない行為とは観察記述の論拠を得るためのものです。偶然起こした衝突事故によって、対象の硬度を知るように。

制作とは観察記述によって得た素因を内観記述を得るための反省といった論理段階へのせることによって、初めて『エレメント』を獲得します。この際に全ての『エレメント』が自己との関係を定義されているので、自己はそこから自身を隠すことができません。やがてこのエレメント群はマテリアルと関係付けられ、制作物といったものを構成することになるのですが、この飛躍で起こる一見神秘的なレトリック現象において重要な点とは、そのレトリックがコントロールされた帰属化であるということです。そのため制作は非対称性の無矛盾化であると同時に非自己の行く末を自身が請け負う行為になります。それは殺人者が人を殺した事実を隠蔽しても事実の自己否定ができないように。

制作といった意図的行為は意図的に自己の痕跡を抹消することができないものであり、自身から逃げることができないものなのです。

 

2005年10月30日
ayanori[高岡 礼典]