芸術性理論研究室:
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11.06.2008
METAFORCE ICONOCLASM VOLUME.4-3.2
初恋と失恋の弁証法
 

芸術家や哲学者らの才能は論法やスタイル、そこから導出される新しいアイディア・結文・答だけではなく、自ら問をたてる「着眼場面」それ自体にもあります。ニュートンにりんごがあったと云われるように、私達は経験のすべてに対して論ある認識を用意できているわけではありません。それは見過ごす場面があることを意味し、場面確保のために「スティル」はまだまだこれからも必要性があるといえます。ありふれた日常生活の中で、不意におそう「問題提起」を、このコラムでは初恋の比喩によって昇華したいと思います。

当研究室にはシステム域における作動様相の形容語として「愛」と「恋」があります(*)。「愛」はひととこで円環的に創発を継続していく自他同一の亜種として、「恋(**)」は機能的側面に見られる連続・断続的な関係断裂・跳躍性の所作として定義され、両者は没物語的な異なる種として並列されています。それは現在系としてのシステムを描くには役立つのですが、歴史構成していく私人の生は写しにくい截然性があるので、「愛」を「恋の終わり」、「恋」を「愛へ至るための始まり」といった通俗的理解へと戻し、戻した上で、より道具性の強いミスリーディング・トリックを用意します。

(*)拙論[2003]:レポート『愛と恋
(**)恋に関しては、後日更新するコラム『触知の限界効用について』で別の側面を扱います。

結論から述べるのならば、私達は擬似的な初恋を複数回経験する存在ということになります。有限性を公理とした場合、他者知・環境知は消極的な根拠性しかないので、恋はいつも理由なく、確定的な期待もなく始まります。直知や直感に明確な理はなく、それはその後の営みの中で構成されていきます。そのため恋と愛の「間」は繋辞ではなく、両者の定義項を担う特殊さがあります。「恋なき愛」も「愛なき恋」もなく、愛と恋の必要にして十分な相補関係は、人の死といった曖昧な終局にくるまざるをえません。『愛だったかもしれない』という遺族の想いによって、かろうじて愛は単位化され、私達の日常に「愛」は没単位の疾走する肌理としてのみ存在しています。「終わり」によって愛は失われるのではなく、完成するだけなので、「失愛」という言葉は詩情としてのみ有効な造語です。自己が自ら自己を分化しないように、同一を意味する愛に自壊は包摂されず、『永』となります。

恋は越権的な全肯定によって始まるため、恋ではないものをも選び取り、訪れうる否定場面があります。失恋です。それは「愛へ至るための始まり」の否定ではなく、誤読された恋の証明です。失恋の複数形は恋ではなかったものの数でしかありません。もしもそれが同化への開始ならば、グラスの中へインクを注ぎ入れるかのような、停止不可能な不可逆性があるはずです。同化した部分自体は引き剥がせない同一化であり、二人には一途しかありません。失恋は恋の欺瞞をあばき、次の恋を指示します。しかし「次の恋」は「前の恋」が「恋ではないもの」であった以上、常に初恋を期待させます。

愛に単位がないが故に、それが人ひとりの生の全体であるが故に、ファーストキスは一回きりでも、私達はいつも恋に初々しく淡くときめくことができます。そのときめきは芸術家達の非日常を前景化し、平常はアーカイブとして特化するコードとなり、明確な根拠なく生は構成されていきます。

 

■参考文献:
セーレン・キルケゴール[1843]『初恋』(飯島宗享 訳 中里 巧 校閲) 未知谷2000 103頁以下。

 

2008年11月6日
ayanori [高岡 礼典]
SYLLABUS_2008