芸術性理論研究室:
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11.20.2008
METAFORCE ICONOCLASM VOLUME.4-3.4
触知の限界効用について
 

そう、いつまでも、いつまでも、抱き続け、なで続け、私達は何をもって愛撫に別離の契機を見出せばよいのか分からないまま、心ない社会生活律によって引き剥がされてしまいます。「私の肌」による接触遷移の「間」に微細な心遣いを創発する「他者の肌」も、環境把持にとらわれた不必要なまでの身体我執を解きほぐしてくれる「皮毛」も、「私」を拒絶せず、絶対的な慰めに自己を肯定し続けます。見飽きてしまい、聴き飽きてしまい、食べ飽きてしまう視聴覚や味覚に対して、肌による触覚認識は「触れ飽きる」ことがありません。このコラムでは肌理取得における触知価の把持困難な側面を確認します。

どんなに優れた美術作品であろうと、激しく琴線をふるわせた音楽作品であろうと、やがては鑑賞に無感動となり、優劣は歴史的かつ理論的な比較・相対の中で無情化され、気持ちのない顕彰につき合わなければならなくなる残酷さは、多くの方々が経験していることと思います。これを『飽きる』と形容するのならば、過剰摂取による満充超過の自己否定を比喩することになります。味覚ならば身体構造の構成に関わることなので、容易に立論可能のように思えるのですが、視聴覚の場合は観察可能な増減がないので、ひとつの不可解に出会います。「見飽きる/聴き飽きる」は、それに普遍対応する構造と行為の変化がなく、何を見て、何を聴いたかは、知覚与件すら経験者に秘匿され観察記述を免れます。

そこで形而上学的描写が必要になるように思えるので、まずは「生物学の後に位置する学問」としてメタライズを試みます。飽きる場面を変化率に乏しい感覚与件の同語反復として理解するのならば、同一環境に停滞することによる『生き苦しさ』を連続系が要求しているものとして描写できます。定住型の生活様式を文化的に選択した人類ですが、それはいつでも食に困らない農業・流通技術といった文明が前提になってのことで、生命的には得策とはいえません。千変する自然環境の中から生存を可能にする選択項を普遍取得するにはソリッドな行為・価値規範は自己の周辺を食い散らかし、偏食によって生存可能項を選択できずに、生を縮小させてしまうだけなので、理由なく「飽きる」技術が恣意的に残存していると考えられます。重要な点は、この「飽きる」というコードは、価値のコードと並列関係にあり、相互無干渉である親和的な乖離にあります。食べ飽き、見飽き、聴き飽きたからといって、対象への価値判断全体が変化するとは限りません。それは一過性であったり、可逆/不可逆であったりと、明確な論理価算定の方法をまどわせ続けます。

ここで飽きる場面を行為から行為への節の結文として捉えると、「飽きる」に節の序文が含まれないことから、自我回帰による原初(的)複雑性との出会い、ひとつの可能性を満たしたうえでの「ふりだし」であることが分かります。飽きた時の虚無は、この「まっしろ」な選択地平を意味し、再度システムは自己と克己を自らに求めます。飽きることによって、システムは自身の閉鎖性を自覚域へと戻し、選択論理の無根拠性を背面から前景化し、統制から構成までの理念創造の契機を獲得しています。もしも限界効用が逓減・縮減しなければ、自己は選択・対応化できる環境項を見出せなくなってしまい、ひととこで自壊することでしょう。

「飽きる」の一般理由は理由なき無根拠に回収されるのですが、「なぜ、その対象に飽きてしまったのか」という特殊理由に関しては、多くの方が背理的に所以を直知していることと思います。対象構造の『記憶』による拡張なき不毛さに辟易しているのですが、ここから視・聴・味覚等には単位、もしくはそれに準ずるものの存在が分かると同時に、没単位的な触覚には「触れ飽きる」ことがないことも分かります。遷移文脈によって肌理を取得する触覚は、明確な単位把持が困難なため『記憶』できずに、触れ終わるとともに対象を失ってしまうのです。『記憶』に関しては、当研究室における形而上学には踏み入れられない領域なので、最後に「触れ飽きた」場合の世界を垣間見てみます。

「着心地」や「手触り」といった触価を選択コードとしているにもかかわらず、私達は肌理やボリュームに飽きることなく、難なく接触活動を繰り返していきます。触価内容が良かろうが悪かろうが、触覚認識は満ちることなく「現在」を生きていきます。もしも「着心地」や「手触り」に飽きてしまったとすると、人はやがて、織られた衣服を捨て、生活環境に遍在する雑貨・オブジェクトとの係わりを断ち、他者を愛さなくなることでしょう。地(面)や周界から離脱して生きられない私達は触覚与件を取得しない覚醒は許されず、必ず「何か」と触れ合わなければなりません。「触れ飽きる」それは世界との絶交・死への渇望を意味します。

 

2008年11月20日
ayanori [高岡 礼典]
SYLLABUS_2008