芸術性理論研究室:
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10.23.2007

なぜキリストは子孫を残してはならなかったのか

 

昨年(2006年)に公開された娯楽映画「ダ・ヴィンチ・コード」をとおして、キリストが子孫を残す存在=人だったとすると、キリスト教が根幹から瓦解してしまう大事件であることだけは皆さんご存知のことでしょう。映画/原作だけではなく、テレビ番組の特集や副読本等によって理解を深めた方も多いとは思いますが、劇中ではあまりこの問題について論じられなかったので、『そんなに騒ぎ立てなければならないことなのか』と不可解な方も多く居られるのではないでしょうか。そこでこのコラムでは、キリストを人性描写するタブーに対し、当研究室なりのひとつの形而上学的理由を与え、種々ある人の感覚の中でも最も特殊で記述困難な「オルガスム」を議題として確保します。

まず、素朴な原理主義的態度に徹した場合、人が神であったとしても構わないように思えます。神が全てを知り、全てを能える存在ならば、無知無能のパラドクスすら無矛盾に組成・整合できなければならないので、キリストを人の定義項で形容しても、異端に値させる必要はありません。もちろんキリストに性別があろうが、名前があろうが、なんら支障なくキリスト教は男性優位の社会を作るツールとして運営継続が可能だったはずです。しかし会議者達は非情なまでにナイーブに形容詞を選び取ろうとします。問題は、人であった場合から生まれるパラドクスにあるのではなく、生得的な有限性にある還元・否定不可能な超越場面を迎えうる存在性にあります。

 

ここで回答を述べます。もしもキリストが人であり、子孫を残した存在だったとするのならば、当然的に性交によるエクスタシスを経験しなければなりません。医学的な空想が皆無に等しい時代背景においては、射精という出来事はオルガスムだけではなく、子孫からも切り離せない原因的行為になります。つまり「キリストの子」とは神の超越を意味してしまうのです。超越者による超越は、単純な二重肯定ではなく、神の単一視点を否定してしまうので、キリスト教の唯一性をも自ら冒涜することになります。キリストが神のイデアの流出体ならば、その目は神のものでなければならないはずである、にもかかわらず、キリスト固有の目になってしまいます。衣服を脱ぎ捨てるかのように“ vessel ”を捨てられてこそのキリストが、人が神域へと至るための手段を経験してしまっては、キリストの神性否定だけではなく、神に環境があることを認めてしまうのです。超越を超え、神が劣位になってしまう比較級は矛盾になります。

死は復活で否定できます。しかし、子の存在は否定できない絶対肯定となり、キリストの射精場面を指示します。ここにもうひとつキリスト教の失策があります。透徹した理論宗教を構築したいのならば、政治的要請を黙視・対敵してでも、キリストを女性として描くべきだったのです。

 

オルガスムは性別によって目的が異なります。受精のための男性と、射精を促し、受精しやすくするための女性のそれとでは、生物学的に見た場合、前者が必要条件であるのに対し、後者は必ずしも到達しなければならないものではありません。愛し合う二人にとって、性交の強度を担う女性のオルガスムは「子孫」から見ると蔑ろにされてしまいます。射精なくして受精はあり得ませんが、膣の蠕動的な収縮運動は助勢でしかなく、それがなくても子を宿すことは可能なためです。また、性別によるオルガスムの観察の可能性も重要です。男性のそれは演繹可能な「出来事」ですが、女性のそれは往々にして帰納的な脱自・心的現象でしかなく、開示・証明不可能な不可視の秘匿です(*)。そのためキリストが女性ならば、子がいてもマリアほどの空想的な描写を用意することなく二重肯定を回避できるのですが、男性としてのキリストの嫡子はキリスト自身の神性否定へとつながっていくのです。

(*)拙論[2006]:レポート『可塑性について

 

成人男性のオルガスムは精液が男性器の先端部分の尿道を通過していく過程にあります。それは尿道口から精液が射出される瞬間(点)にあるわけではなく、ある程度の量を有する塊が、自己の内部構造をうごめき、外部へと押し出すまでの全体によって有意味化されます。「精巣(睾丸)でつくられる」という知識は知覚対象にならず、どこからともなく精液は量化され、始まりを欠き終わりある永続が男性オルガスムの描写原理になります。魂と同様の文脈性を一時の間に発生するので、それはエクスタシスに値するのですが、精液によって自己の分化・異物化が行なわれてしまう点が重要となります。これは精液(自己)の流れを尿道(自己)によって感じ取る自己関係的な自己知への有限者固有の運動でもあるのです(*)

(*)男性のオルガスムに関しては、12/19にUPするレポート『オルガスム』で詳しく論じます。

もしキリストが射精を経験していたとするのならば、彼は誰と出会っていたのでしょうか。

 

 

■このコラムにご興味を抱かれた方は、こちらのコラム『なぜキリストは磔刑に処せられたのか』もお勧めです。

 

2007年10月23日
ayanori [高岡 礼典]
2007.秋.SYLLABUS
 
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