芸術性理論研究室:
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09.17.2009
卵生の愛
 

白濁した硬質の世界境界が、わたしにとっての初めての輝く闇となり、気付きはわたしに突破の先導を与える。わたしは、わたしの意志によって殻を突き破り破壊して、光を浴びる。わたしはひとりっきりで生まれる。そよぐ風の始まりと行く末は、わたしを遠くへと誘うものの、もしもそこにあなたがいてくれなかったなら、壊れる世界を、わたしは気まぐれに支配していたかもしれない。

 

生の主である自己に着目すると、問うまでもなく、始まりは「卵」になります。胎生を選ばなかった動物達は、身籠りの負担を軽減するために、子を無防備なまま体外へと排出するように見受けられます。たしかに、土中や樹上に産み捨てていく様は無情にうつります。その無情を捨てた種が営巣を行なっているといった擬人的な空想をくゆらせると、始まりが卵であることは、人が経験できない、多くの情を疑似創造してくれることでしょう。

このコラムは、次回更新予定の『懐胎と分娩 4』の「外」にある前文としてのレクリエーションです。「これ」は『それ』が満足ではないことの「言い逃れ」であり、別の道の確保でもあります。

すこしだけ、堅い殻に包み込まれてみましょう。

冒頭の詩で示唆しているように、身体形成が一先ず整い、動けるようになると、卵の子にとって、それは行動の可能性を可能へと閉じ込める第一世界になります。濡れた産毛に包まれる出来立ての体は、堅い殻の質感との間に、摩擦を増大化せず、心地よい対応感を構成するかもしれませんが、体の成長にともなって、そこに収まりきらなくなる緊迫が意図のない挙動を呼び、くちばしが偶然にも殻の穿孔に成功してしまうと、卵の子は最初の「気付き」を得ることでしょう。それは、あるべき場所ではない空間に、自己の身体構造の部分が配置されることになるので、構造的位置価を描くために、子は新たに出自概念をつくる必要に迫られます。『内と外』『自己と環境』といった基本的な世界認識の論理を構築し、突き出てしまった「くちばし」の位置価を描写把持しなければ、殻の中へ「くちばし」を引っ込めることも、殻を破壊することも出来なくなるかもしれません。最初の穿孔から、少しずつ、ゆっくりと殻に切れ目をいれて、やがて臨界突破のように激しく割って出てくる様は、まるで、知覚・認知から気付き・認識へと至る、段階的な心的営為を比喩しているかのようです。

そして割って出た「ヒナ」は、それまでの対応世界(輝く闇)を失い、無限延長の世界へと自ら自己を投げ出し、完全即自の無制約に歓喜と「ふるえ」を覚えることでしょう。そのため、ここで父や母が包み込むことによって、対自的に自/他を教えてあげなければ、ヒナは無限支配の「ふるえ」によって、死んでしまうかもしれません。

もしも、このインプリンティングと揶揄される卵生による親と子の初めて出会う場面を、ヒナが覚えていたとしたら、その子が大人になって、子をもうけようと思う時、きっとまた『わたし』も卵を産み落とそうと思うはずです。闇の『ぬくもり』失い、また再獲得する物語は、救世的創世となり、『あなたがここにいてくれた』ことを刻み続けます。

 

2009年9月17日
ayanori [高岡 礼典]
SYLLABUS_2009