芸術性理論研究室:
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08.27.2009
輝く闇の前景
 

「輝く闇」とは、視覚を兼備している健常者が、光を没した状況下において現れる四感世界の中で、本質的に視認できない触覚情報が主格を担っているのかのごとく際立ってくる場面を形容してのタームなので、それ自体が前景性を帯びています。外光のある環境内で、対象を把持する「灯る闇」同様に、触覚は視覚的批判の下には、「第一前景」とでも呼ぶべきものを絶対的な強度によって圧してくるので、どちらも前景であることには変わりないのですが、背景なき「輝く闇」は少し趣が異なるように思えます。述べるまでもなく、光源なき環境では、視覚による先取・予料が不可能なので、動きは「ゆるやか」になり、接触は視認に対する情報の付加を意味しなくなるので、視認・理解ではなく、「何か」との初めての出会いになります。汗ばむ肌も、からむ指先も、触れる瞬間までは知覚すらできません。ひっそりとゆるやかでありながらも、絶対的なインパクトを伴って現れる。それが「輝く闇」の第一印象です。

触覚に限定した世界を実際に体験しようとする試みは、簡単なようでいて、なかなか上手くいきません。視覚の恒常性は至極柔軟にできているので、太陽も月もない夜であろうと、たったひとつの星の明かりですら、影を落としてしまいます。カラーの現像ができるほどの暗室を一般的な母屋に用意するのは大変な重労働ですし、目を閉じる程度では目蓋越しに幻像を捉えてしまいます。そのため「触覚世界」は「目をつぶす」といった、想像による理論描写にとどまってしまい、いつも描ききれない「何か」が残るので、このコラムでは「輝く闇の前景」といったシステム/環境的な形容を設定して、無理に「何か」を引き出そうとしています。

果たして、「触覚世界」における環境とはどのようなものなのでしょうか。そのランドスケープはどのように伸び広がっていくのでしょうか。もともと視覚を持っていなかった私達・生物は、触覚だけをたよりにして、どのように周界を描き、生き残ってきたのでしょうか。

ボリュームや強度の知覚・認識によって、それは自己の存在無謬を絶対的に構成してしまうので、冒頭で述べているように「前景」があることだけは分かります。しかしその前景Aは、手を離した途端、手を滑らせた途端に、喪失されてしまうか、別の前景A'が現れてしまいます。視覚は焦点対象を変えても、前場面の前景Aは消えることなく背景へと退き、残存し、「ひろがり」のある環境映像をつくることに貢献するのですが、触覚は「常に、いま触れているものしか触れていない」限局世界を描きます。

ここで別の機能を発揮する存在が地(面)です。視覚世界において、それは二次元にとどまる視覚映像へZ軸の槍を与え、統覚営為へと誘う担体かもしれませんが、触覚世界においては、地(面)も単なる前景のひとつでしかありません。自己の胴体を支え委ねる重心の裏返しも、闇に闇咲く世界では対象化されてしまうのですが、厳密には恒真対象となり、自己の大部分を吸い込みながら、つきまとってきます。

つまり、触覚世界での不動状態は「ゼロ」ではなく「1」を意味し、ひとつの行為は「1」ではなく「2」を意味することになります。それは、行為へと挑めば挑むほどに身体が対象と地(面)に挟まれていくことを知覚させます。重心が捧げられている地(面)前景と対象前景によって、全ての自己が含意現出すると同時に「背景」へと放擲され、闇の「私」は自他同一体の環境・原初芸術性として認識されうる存在になります。

 

輝く闇は私を照らし、私は遍在をさらに超えた世界になる。

 

2009年8月27日
ayanori [高岡 礼典]
SYLLABUS_2009