芸術性理論研究室:
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09.04.2008
METAFORCE ICONOCLASM VOLUME.4-2.06
ぬくもりについて
 

毎夜のごとく床を同じくし、ひそみあい、肌や肢体の質(テクスチャー)・強度・ボリュームを確かめても、触知は決して確定記述へとは至らず、夜明けとともにまた新しく出会い直すことになります。軽薄な色情によって、その効用を逓減・縮減させるは、視覚的(超越的)な知識限定に隷従した愚行でしかありません。もしも自己の触覚を知覚・認知で止めずに、認識へと至らせながら生きているのならば、その者は決裂なく、いつでも愛し直せる一途な現在を迎え続けられることでしょう。このコラムでは、その記述困難であるが故に、あまり触れることのなかった「ぬくもり」を導入しつつ、触覚認識における同定の特殊性について確認したいと思います。

鼻孔から外気へと戻す「かおり」や、歯並びや唾液の分泌によって再構成される「味や食感」以上に、触知活動における触覚器官は対象へと積極的な働きかけ・干渉を行ないます。それは視覚問題にある「いま自分が見ている色」や「輪郭・パースペクティブ」のような非科学ではなく、観察記述可能な指示項を第三者へと提供します。強度・ボリュームへと至る与件取得のような「つく・おす・もむ」といった対象形態を変化させてしまうものと、触知活動全体にある熱伝導がそれです。対象構造の可塑性・弾性との相対によって巻き起こる様々な事例はいたる箇所で描写しているので、ここでは省き、接触によって必ずと述べてもかまわないほどに起きてしまう「ぬくもり」の所在の不確かさについての叙述から始めます。

私達が自己の肌を用いて対象の温度を計る時、そこで得られる与件は物自体が含み持つ内包量としての「温度」ではなく、予め自己へと内属的に付帯する『体温』との比較によって心的制作された差異になります。そのため、手で触れて感じ取られた熱の形容は「あたたかい/つめたい」になるのですが、接触場面を経ることによって初めて自己は「私の体温」の存在内容に気付く点に留意する必要があります。特に体調を崩さない限り、平常は「私の体温」を認識することなく、知覚の俎上にすら上げずに過ごしていることと思います。もしも「私の体温」が積極的に心域へと働きかけているとするのなら、「私の体温」を感じ取っているものの温度が問題となり、自己は二重の体温を生きることになります。これは無限後退に陥るので、ここでは追求せずに、「私の体温」をゼロ・ポイントとして捉えておきます。すると、接触場面で発生する「あたたかい/つめたい」が「私の体温より、あたたかい/つめたい」を意味することになり、「私の体温」が含意項として懐念されます。ここから「私の体温」とは、それ自体を知ることはできず、外延化することによって、かろうじて指示項だけが得られる不可視・不在の強度であることが分かります。これは対象の温度にも当てはまります。接触によってそれ自体の熱量を感じ取っているとするのならば、私達は愛しい彼/彼女を抱き寄せても「ぬくもり」を感じないはずです。

それは、自/他の認識同様、相互浸透的に現れ表される自体把持困難な存在なのですが、非日常にない限りは、即自的階梯が皆無に等しく、あったとしても特に意味を成しません。熱量認識は他者のぬくもりを求める場面でのみ自己が積極化されるので、世界内ではなく自己内在的な主従描写が可能になります。鳥瞰可能な視覚環境とは異なり、触覚環境は「触れているもの以外は触れていない」自己現在系なので、「環境」の複雑性が乏しく、むしろ自己のほうが環境化されてしまう図式転回が起きてしまうのですが、ここに当研究室では触知における前景と同一記述の問題を見出しつつ、「ぬくもり」による他者再構成の意味を読解することにします。

断続的に同一対象へと愛撫を繰り返す時、なぜ触知はそれを前場面で触れていたものとして線形記述するのでしょうか。「触れ直す」は視覚的な描写であり、触知にとってそれは常に「初めて触れるもの」のはずです。しかし私達は統覚を禁止された暗闇での触知行為にですらそれを可能にしています。これはテクスチャー取得の論説では不十分です。「同じ質やボリュームをもつ他」がないことを触知は証明できません。ならば、対象温度による同定営為を重ね合わせたくなるのですが、熱量取得の場面は他者のぬくもりを感じ取ると同時に他者の体温へと自己の熱を伝えてしまい、平衡や相乗の無常へと自/他を曖昧化してしまうので、問いへの解答にはなりません。触知は厳密には単位なく漸進していくので、認識の立論はアポリアへと至ります。しかしこの難題を観察してみると形而上学的な意義が見えてきます。

触れれば触れるほどに他者へとぬくもりを伝道してしまいながらも、対象同定に成功し続ける接触は、他者の系に自己のエレメントをプログラムし、セカンドオーダーとしての他者を有生化する制作行為といえます。それは第一性を超えた原初・内属的媒体である身体を用いるので、相互作用全体は場面分割不可能なコラボレーションとなり、生きる他者と生きる自己を観る相愛を構成していきます。「私が感じたぬくもりは、あなたのぬくもりでありながら、私のぬくもりを含み、あなたのものでも私のものでもない」自他自体という思想構造を組み立てるのです。それは「あなたによって私があなたを包み込む」という非整合性を内包し、ぬくもりは単純かつ乱暴な描写論理をかわし続けます。

 

ひとりで目覚める虚無を添い寝でうめるは、利己で終わらない馳せる想いなのです。

 

2008年9月4日
ayanori [高岡 礼典]
SYLLABUS_2008