日本の文化圏に生まれ育ち、無反省に恭順してきた方が美術大学を目指してデッサンを学び始めると、誤った輪郭理解に出鼻を挫かれることになります。正しくは西洋美術に黙従し模倣したアカデミズムによって日本古来の表現方法が排除される場面に出会うことになります。くちパクの講師は「物体のエッジに線などない」とさとし、画学生は尖った鉛筆を握りながら理解と方法の間にある差の絶対性にバインドされ動けなくなってしまいます。鉛筆の芯を何センチも削り出そうと、あるいはスケッチングペンシルや木炭に持ち替えようと、与えられた画材から「面」など出てくるはずもなく、やがて彼/彼女らは美術講師の声に耳をかさなくなります。このコラムでは東洋/西洋間の認識論の違いを比較検討するのではなく、西洋的理解を知ることによって有限性を主張する際の論拠をひとつ増やしたいと思います。
私達は対象自体ではなく光が織り成す面(相)を見ているに過ぎません。
結論から述べるのならば、輪郭とは見られ見せる対象によって定義・規定されているわけではなく、視点によって偶然的に見出された付帯項でしかないものです。一見するとそれは両者の位置価を表すもののように思えるかもしれません。見る者と見られる者らによる相補的な活動の結果としての実在論のように思いながら日常を過ごされているかもしれません。しかしこの真理は条件付きのものであり、超越者の可能的な面前によって反駁されることになります。観察者の生活速度が光速へ近づくと普段見ている輪郭は歪み重曲線化して、それに匹敵する運動へ達すると通常理解しているような輪郭は消滅してしまいます。超越者にとって射影などといった概念は無効です。表面を見ながら側面や裏面をも見ることができなければ超越とは呼びません。これは私達が外方向的なパノラマ写真を撮影できても、内方向的な包括的観察画像を制作できない、もしくは仮に制作できたとしても理解できないモノになってしまうであろうことを考察してみれば容易に実感して頂けると思います。
対象は形のボリュームといった強度を担っているのであって、線なき線については解消されない未然形の態度をとり続けます。強度は原因的ですが、形態の相までをも決定付けているわけではありません。輪郭は対象にあるのではなく、観察者の背後にあるのです。それは遠近法を指し示し、透視された点は対象の超前景である観察視点を外挿します。輪郭線とは見られる者が有限の見る者によって帰属させられた偶然項であり、私達はデッサンをとおして自らの本有的な無力を学び知るのです。
これは被写体にとっても同じことです。超越者はすべてを超えているが故に対象に輪郭を見出すことがないと同時に誰からも見られることがありません。神的概念を定義項としてもつものに輪郭などないのです。ここで「もし超越者が二人以上いたら」といった疑義があるかもしれませんが、それは超越の原定義に違反してしまうことになるので問自体が斥けられることになります。つまり神とはその容姿を知られることがない自動的な唯一存在であり、私達が画家のモデルになり得るという可能性は自身の閉じた実様相を証明しています。
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