芸術性理論研究室:
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03.05.2006

剽窃批判について

 

「その言葉使いは間違っている」とか「○○という字を漢字で書けるか?」だとか、ナンセンスな衒学を好むペダントリーほど不自由で教条主義的な振る舞い・言動を日常行っているにもかかわらず、他者の作品に少しでも模倣性が見出されると「モノマネだ」「パクリだ」と口うるさく捲し立てます。

自然科学・技術のように社会的目的が上位にある分野では偏狭な功利主義は産まれにくく他者のアイデアを利用(引用)することが暗黙裏に許されているので「盗用・剽窃」などといった言葉があること自体におかしなことだと思われるかもしれません。これは未だに人文・芸術が全起源を人へ求めようとする幼稚さの表れです。この越権的な振る舞いを超えようとして「評論」という言葉を安住とする者達ですら躊躇なく剽窃批判を行います。評論家達にとっての「評論」とは他者の所業を批判・解釈することによって連鎖的・対応的に新たな知の自己地平を拡げていくといった自他連続の思想なのですが、クーン流のパラダイム批判を度外視している楽観によって足もとを掬われていることに気付きませんし、初めから評論というモード・原理によって盗作などといった概念は産み出しようがないはずなのです。剽窃批判を行う評論家は自ら自己の知の劣弱さを告白・主張していることになってしまっている事実を知らなければなりません。ここで古来より人文・芸術の領域にある「剽窃批判」の妥当性を確認するとともに著作権思想へ至るまでの根源的な道のりを批判したいと思います。

止めどなく下されていく剽窃判断による拒絶の論争は学習/研究/制作の区別や人類史にある教育・伝導を示してみても終わらせることはできないでしょう。これは批判対象から始めても何処にも帰結することのない無限後退劇であり、相互主観的な問題を反省し、批判空間の限界設定を行うことによって初めて争点を知ることができる問題なのです。

観察者によって設定された構造(素材)の再構成者という意味での制作者は何処にも位置しない不在者です。端的に素材と戯れるだけの者がいるとするのならば、それは社会の外部にしか存在しないことでしょう。そのような所業は自己の現前を他者へと示すことのできない野蛮人にのみ許されたものであり、「責任」などといった理由付けによる保存形式の概念が有効になってしまった私達の社会原理では産出できたとしても自体的なレベルでは包摂不可能なものです。つまり「人為」の類概念は「行為」ではなく「表現」になるということです。「人間の類は動物である」といった古典的な公理に拘泥されている方々には奇異に聞こえるかもしれません。また現代の行為科学が示すような非論理的選択による行為可能性を知っている研究者の方々にも理解されないような命題だと思います。しかし私達はどこまでもコギト・レベルでの自己の思惟原理から脱することができず、『人類』を前提外にしてしまうと「反人類」すら主張できなくなってしまう存在であることを知って頂ければ、私達の営為のすべては「表現」によって述定されることに首肯せざるを得ないと思います。

そこでそれが意図的行為・表現である以上、そこには神秘的なジャーゴンが纏いつくことにもなるのですが、そのような俗語は制作主体による湧出の言葉ではなく、観察者による還元要求的な付帯語でしかないものです。古来より質的飛躍の起こる局面は理論的説明ができないアポリアであるとされてきました。しかしそれは他者の存在形式を含まない唯一神教的な記述原理に依ることによって作られた誤謬です。記号や経験対象の普遍的複合性や同一性の論証の多くが観察記述によって作られたものであり、他者の自由を許容できない矮小な他信者による希望・命令でしかないものです。制作の論理プロセスを知らない創ることのできない評論家達のジェラシーによる制作者の拘束が妥当ならば前制作的なセルフ・コンフリクトに重圧される芸術家などいないことになってしまいますし、思春期の悩み事もあり得ないことになってしまいます。

私達は自己がそれになることができないものを知ることができない存在であるがために、妥当な鑑賞のリテラシーを得るためには自身が制作者になる必要があるのです。このコラムでは制作者の原理的叙述ではなく、通俗的なレベルでの理論的把握によって剽窃批判の範囲を知ることにします。

「表現」を類とする制作者とは自己を跳躍して要素と同一化することによって自己の顕在化を図っているわけでも、再構成不可能な複合化の局面を発見しているわけでもありません。彼らはアドホックな対応関係を戯れに構築しているに過ぎません。しかしその戯れも表現であるため制作主体からの自己が必ずよりそうことになり、帰属物以下になることがありません。また、ひとりの作家が「今まさに自身の作品を作っている」と主張できることは、ここに反省の無限循環が横たわっていることを意味し、作品と作家が親子でありながらも婚姻の関係であることを主張しています。ここで留意すべきは作品が作家にとって「子であり配偶者」であることが作家から作品への保障はその概念構成までしか意味しないという点です。自身の作品が構造的にどのような変化現象を経て崩壊していくのか判断できたとしても確定記述ができない以上、作家から作品への言及範囲は限定されたものであり、作品全体を包含するものではありません。

作品とは作家にとって「作り-出された物」です。「出された物」から意図を推測するは自由ですが、意味判断は作家以外の者には許されないことです。利用は許されても作品の帰属する領域内に部外者の言葉があることは系の破綻を招くため理論的に許容できないことなのです。作家は作品とオイディプスの逆をいく関係で接続されています。作家は婚姻の手続きを行いながら作品を出産するのです。これは本来的に等号符で結ばれない二つの関数を同等化するといった数理化不可能な作業です。そのため鑑賞者は「出された物」から意味を外挿することができません。

ここで作品にある作家への指向性と他者からの作家への非還元性が作家と作品の関係性であるにもかかわらず、それでも平然と行われてしまう剽窃批判は科学的なシステム/構造間にあるもうひとつの意味を教えてくれることになります。ひとつの構造体はひとつのシステムを指向するとは限らないということであり、またひとつのプログラムは必ずひとつの構造体と対応するとも限らないということです。システムが普遍的に必要とするものは構造形式であって、なにか特定の構造自体ではありません。自/他は永劫の超越関係であるにもかかわらず、作品の非還元性が両者を接続させることによって私達は構造をコミュニケーションツールとして使用することができることを忘れてはなりません。つまり「盗んだ」とラベリングされない者に社会生活はできないということなのです。

この理論的局面をとり損なった鑑賞者や批評家は前提豊かな無教養であるため「作品」という言葉が既に「作家」を指向しているにもかかわらず、マテリアル自体の観察に終始してしまい、自身の言葉を作品からの言葉であると勘違いしてしまいます。また無教養であるがために制度化された言葉とそれ以前の言葉の区別がなく一方的な確定判断をくだし、没交渉的に他者をカテゴライズし、自己閉鎖性を省みることなく自己完結批判を行ってみたりします。そこで繰り広げられる剽窃批判は指示された構造体へ様々なアイデアをよりそわすことのできない劣弱なオーディエンスであるいう罵倒と同時に構造域よりシステム域のほうがより豊穣性があるのかもしれないといった楽観的かつ自家撞着的な言葉を残して、このコラムを終わりにします。

 

2006年3月5日
ayanori[高岡 礼典]