芸術性理論研究室:
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08.29.2007

触覚としての聴覚

 

21世紀を青年期として生きる若い学生の方々にはあまり目にする機会がないかもしれませんが、80年代以前に流行したボードリヤールの言葉を用いると、音(楽)の記録媒体は再現性を欠如したものをも内包してしまうがために、現実を超えた「ハイパーリアル」であると形容できます。現代ではメディアが一次化・目的化され、また「打ち込み」などといった言葉が常用されるまでになっているので、疑問に思われる方は少ないかもしれませんが、そもそもメディアとは「消えいく出来事を残す」ために開発された副次的な二次物なので、古い目でポップミュージックが収められているCDやレコードを聴いた場合、奏でられる全ての音に対して演奏家を対応させた座標・配置図を想像するのは非常に困難な技になるという批判がうまれます。自然音がサンプリングされている場合は尚のことです。狭い会場に大海や鳥のさえずりを用意し、タイミングに合わせて意図した音を再現するなどといったことは空想の域です。そこで古い体質の方をライブ会場へ連れて行くと「案の定」といわれてしまいます。ギターやドラムは生演奏であったとしても、PCで作成された音はCDに収録されている同じ音源・データーを流しているだけであり、ライブを行う理由がないというわけです。たしかにデーターという言葉に特化すると、配布された音源を任意のオーディオ機器を用いて再生・鑑賞することと、ライブ会場でのPAを通してのそれとでは、どちらも寸分違わない起承転結が待っているだけであり、本質的に変わるところがないように思えます。

 

ここではよくある体感や一期一会、共有による自己肯定などといった通俗論を排除して、鼓膜・耳小骨・蝸牛の識閾内にある聴覚の音のみに限定して論じることにします。

そのまえに聴覚について確認する必要があると思います。日常の私達は聴覚をひとつの独立した感覚として数えていますが、厳密にそれは触覚の種であり、純粋感覚などではありません。先に「鼓膜」という単語を記しておいたのもそれを示唆してのことです。音の媒体である気体には確かな肌理があるという意味で、それは触知可能な物体にほかなりません。その振動と身体構造のひとつである「鼓膜」との接触によって『音』という現象を創発するのならば、聴覚情報は触覚コードに含まれるひとつとして数えられます。音は他者の動きの鋳型とのふれあいの結果です。古い因果律を前提としている点に対する批判の吟味を先送りにして特性を述べるのですが、鼓膜による触知が肌によるそれと決定的に異なる点は、可聴域にあるという条件を満たした聴覚与件はどのような質であろうと、すべて『音』としてエンコードしてしまう現象にあります。振動と鼓膜の関係は常に連続遷移するものであり、肌と肌のような停滞による平衡などありません。『何か音を聴いているけれども、どのような音を聴いているのか分からない』といった局面がほとんどないはずです。仮にそれが数理的に実証されたとしても、没境界場面は音の認識域に入り込んではこないことでしょう。それは截然なる非自己として現れる与件なのです。音には連続する一定のボリュームがないために、不可触であるかのように思い込まれているかもしれません。しかしそれはテクスチャーのみの可触体であり、「音を聴く」行為は何者かとの出会い・接触になります。

そしてこの出会いは、いったい誰との対面なのか考えてみると、前述した「他者の動きの鋳型」が役立つように思えます。当然、この「鋳型」は「動き」から「他者」へと還元できないものになります。それは他者の系がオペレートすることにより産み出した非選択項であり、捨象された不必要な構造でしかありません。音は発信者に含まれることなく、どこまでも環境域へとのびていき、作品は作家にとっての帰属項を超えられません。そのため唯一性を欠いてしまい、ギターやドラムのようなプリミティブな楽器もマイクやアンプに拾われて「スピーカー」から音を発してしまうことになり、音は自他を結ぶもうひとつの他者でしかないように思えます。

ここまでならば、音に邂逅性・ライブ性はないかのように思えるかもしれませんが、それは発信源・形式としての音のみについてのものであり、音の様態までをも含めて考えた場合、その帰結は大きく変化します。

音が発信点から同心円状に、強度を低減させながら肌理を延長していくとするなら、円周によって音は唯一性を獲得します。鑑賞者が同じ円周上に並ばなければ、それは完全化されます。そこで多くのライブ会場が採択しているステレオ・二元発信の意義が見出されます。音楽会の際に会場内を移動することなく鑑賞されている方は、次回のライブでは少なくとも前方と後方とでの音の質の違いを聴き比べてみるとよいでしょう。劇的な違いを体験できるはずです。

ステレオは会場内を非等質化することによって、鑑賞者の位置価を唯一化し、音に輪郭を与えているのです。同じライブであったとしても、演繹的に鑑賞者固有のライブ体験をつくり出すことに成功し、多くのリスクをおかしつつ会場まで足を運ぶ理由がうまれ、ステレオという音響装置の完備によって初めて音楽家は観衆の前に姿を現す資格を得ているのです。演奏家と音の恊働による複合的な立体性は、そこでしか観られない輪郭を表し、自室でのメディア鑑賞をはるかに飛び越えていくことでしょう。

現在・既存の媒体では残しきれない現場性を、ここでは「ハイパーメディア」と呼び、ひとつの研究テーマとして確保しておきたいと思います。

 

2007年8月29日
ayanori [高岡 礼典]
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