芸術性理論研究室:
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08.28.2008
METAFORCE ICONOCLASM VOLUME.4-2.05
手と口
 

『女は男を知り、男は女を知らない』この命題を説明する構造的形而上学を以下に記します。

二次元の連続である視覚に対して、触覚は三次元を感じ取る感覚器官であるとされます。それは決して間違いではないのですが、正しくは「感覚内容が三次元へと至る器官」であって、触覚は「過程」なく立体概念の構成契機を創発するものではありません。接触や表面遷移は、発生する「力」によって自己の延長性をふるわせ畏れさせはするものの、立体感の認識把持までには至らず、『おそらく立体物なのだろう』といった予測程度に留まるはずです。それは触覚における二次元、もしくは平面的三次元とでも呼ぶべきものでしょう。そのため三次元の対象化は自己の延長性を「そこにあるもの」へと、なめらかに滑らせ、対応関係を築く必要があります。一方の側面からX軸の『奥行き』の素を創り、背面へと回り込み、Z軸の『奥行き』の素を創り、そのまま反対の側面から前面へと回帰することによって、それぞれの『奥行き』が完成し、かつ『一なるもの』へと統合されます。厳密には、この行為を二回以上行なって「三次元の対象」が出来上がります。この行為は対象を包み込む身体構造が必要なため、もしも私達に手や口のような器官が具わっていなかったとすると、人類史には現代ほどのプロダクト文化が開化することもなく、またビジュアル文化にはパースペクティブが発明されず、「いま見ている景色は、見えない部分を見ていない」を知らないかのようなグラフィックスタイルが主流を占めていたことでしょう。

手については以前のコラム『手について』で触れているので、ここでは「口」について見ておきます。手の構造的成熟は思春期を過ぎなければならないため、幼児は対象同定の際に「口」を使います。口内は皮膚以上に低い閾を感じ取る粘膜で覆われているため、一種の「わかりやすさ」を纏った与件を提供してくれることでしょう。それは左右の頬と上下の顎によって「他」を包含し、自在に動く舌によって玩び、様々な接触や衝突事件を起こし、三次元の対象把持へと至ります。歯牙ある者ならば尚のこと豊かなドラマを構成し、対象に関する知識を増やしてくれるはずです。

ここで留意する点は口内による触覚内容と手によるそれとが異なるにもかかわらず行なわれていく同定認識は、視覚が「手と口」の「と」を担い、接続・架橋している統覚場面です。手は口内ほど敏感に与件を感じ取りはしないものの、視覚との共働が可能なため「同定力」だけは口内よりも上位的な位置にあり、普遍的です。口に含んだものを手に取り、目で確かめ、また口に含む。このシークエンスの繰り返しによって私達は諸々の相をひと綴りのコンテクストへと編み上げ『一なる対象』へと少しずつ近づいていきます。

形を知り、色を知り、創られていく「可感的な他者」は「私」によって包まれ見られることによってのみ、その契機獲得へと至るのですが、以上の説明を斥ける触覚器官、もしくは接触場面があります。身体における柱状構造は包み込むことができず、逆に包み込まれてしまい、接触が挿入の場合「いま感じ取っているもの・被挿入体」を視覚で捉えられず、すべての行為が過去へと沈んでいってしまいます。その対象の質が超構造的ならば、無為は甚だしいことでしょう。「被挿入体=包み込むもの」は切り取られる(境界付けられる)ことも、見られることもなく、陰茎は彼女を認識できぬまま愛を要求されます。

ここに弁証法的なトリックなど使えるわけもなく、男性は新たな形而上学を創らなければならない理由があります。それは女性が自身を知るために必要としているものと同じくらい難解な道のりになることでしょう。

 

2008年8月28日
ayanori [高岡 礼典]
SYLLABUS_2008