芸術性理論研究室:
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10.31.2007

手について

 

ひらいた手を内側からじっと見つめてみます。一般的な健常者ならば、五本の指がひとつの面(手の平)から生えているのが確認できるはずです。そこで、ゆっくりと指を折り曲げ、握りしめ、拳を形作ってみましょう。すると、日本語では同じ「指」として形容されている手の可動構造にも大きく二種類あることが分かります。人差し指・中指・薬指・小指は垂直方向に沿って手前へと巻き込まれながら倒れてくるのですが、親指だけは包み込むような重曲線を描きつつ、他の四本の指とは交叉する位置に落ち着きます。指に関して厳しく機能的区別を行なうと、Y方向の四本は“ finger(s) ”でくくられ、X方向の親指は“ thumb ”として特化されます(*)。もちろん四本の指の中にもそれぞれ特性はあります。生活にそれほど影響がなさそうな「薬指・小指」がなければ、物を握った時に知覚・創発するボリューム・強度は大きく変異してしまうことでしょう。しかし親指は骨格的な理由だけで特別扱いをうけているわけではありません。親指の第二関節・人差し指の第三関節・手首を結ぶ三角形にある「膜」が、その動きに伴う点が他の四本とは決定的に異なっています。水掻きや翼膜を選択しなかった人類も、よく観察してみると、手の平の一部分を膜化し、積極的に利用していることが見て取れます。

(*)坂本賢三『機械の現象学』岩波書店1975 54頁。このコラムの参考箇所として他には、98頁等。

こらえきれずに二の腕をつかみ、握りしめ、愛する人を強く引き寄せた時に、手から感じ取る超越感は、この親指の膜が重要な役目を担っています。それは手にある多種多様な感覚与件の間隙を埋め、統合しているとさえいえます。それを知るためには、手を日本文化的な知覚・認識的な区別へと戻す必要があります。面積的に手は大きく平坦な「手の平」と細長い「五本の指」によって構成されています。指も内側全体が「平」のようですが、「指の先端」があることにより、「手の平」とは異なる感覚器官として区別されます。それは限点でありながらも、積極的に与件を取得・創発する特殊な触覚です。つまり「指と手の平」は認識域を『点と面』へと導く乖離的な関係にあり、手はその無機的な二元をひとつに兼ね備えているものといえます。

そして、ここには不都合がひとつあります。もしも手が字義どおりに『点と面』を心的に現象化しているとするのならば、対象を「にぎる」場面において、私達は如何にして異なる感覚与件を統合し、「ひとつのものを握っている」と判断しているのでしょうか。視覚による先行的な対象の同一確認があったとしても、視覚環境と触覚環境は本質的に異なるものなので確約にはなり得ません。そこには単純な次元批判以上の相容れなさがあります。目(網膜上)に映る世界の全ては触れられないのですが、その反面、手は視覚の届かない物体の背後へと容易く到達できてしまうので、両者は独自の環境を形成していると主張できます。この視覚の役立たなさは、手の記述困難な曖昧性によって補完され、結節されることになります。

しっかりと不透明のグラスを握りしめてみます。グラスの裏側が見えなくとも、そこへと回り込んだ四本の指によって、グラスの背面存在を触知するラディカリズムは親指によるバインドや手の平による側面からの補いだけでは、同一体へと導けないことが分かると思います。それぞれの感覚与件が明文化できるが故に、逆説的に、同化できないディレンマが発生します。それを融解するために、親指の膜と人差し指のから親指へとつながる膜の「稜線」が働きます。それぞれ分け隔てられた感覚与件は、膜の『面と線』によって結ばれ、認識は『流れ込み』を創発し、同一へと帰結します。親指の膜は『面と線』といったアンビヴァレントな同一体であるがために、漸次的浸透化に成功し、複合体である『手』は日常的な単位を得ているのです。

 

背中へと回り込ませた手の平も、抱き寄せる「腕」がなければ、『一』になりにくいことと同様に。

 

2007年10月31日
ayanori [高岡 礼典]
2007.秋.SYLLABUS
 
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