芸術性理論研究室:
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08.07.2008
METAFORCE ICONOCLASM VOLUME.4-2.02
災いの所在
 

新しい靴の履き始めに炭を塗るというジンクスしかり、日光東照宮陽名門の逆柱しかり、日本の文化圏には完全への恐怖がたびたび見られます。災いは災いなき場へ訪れるが故に、先行して自らそれを招き寄せておけば、魔除けとして機能するという免疫的論法です。超越的な寄生体・他者として災いを捉えているために成立する論なのですが、なぜ人は目的や理想に憧憬を抱きながら、その遂行に怯え、崩落の原因を他者へ求めてしまうのでしょうか。なぜ、栄枯盛衰を決められた予定調和として描き、堅持し続けるのでしょうか。以前のコラム(*)でも触れていることなのですが、再度、完全が含み持つリスクを確認し、弱度要求への傍証をひとつ付け加えておきたいと思います。

(*)関連・類似コラム『矛盾と完全』『弱さについて』『最小強度への憧憬

 

多くの思想家達は初めから思想家と呼ばれていたわけではありません。活動の当初は、甚深なる哲学・理論研究から始め、それを産出・描写原理とすることによって、その後の饒舌を獲得しています。「論が立つ・通る」とは提出された作品からの逆算で、それが表れ出ることを意味し、テーマの数だけ応用力が外延化することになるのですが、このプロセス全体を観察ではなく、制作視点で捉えた場合、その過程は創造ではなく、自らつくり上げた理論への隷従となり、執筆は作業を意味することになります。予め整えられ、採択された溝へ、流れるものを流し込んでいるだけなので、「饒舌」であることは当然の振る舞いになります。

これは初等数学でいうところの数列と同じことです。並ぶ数字は文章、そこから外挿・内挿されるf(x)は論・原理、f(x)へと入力される数字がテーマを意味し、受け手はf(x)を求めるところから理解を始め、論説の蓋然性や有効性の吟味が可能となり、論者へのコミットメントも可能になります。そのため、たったひと言のコメントで読解と無理解が露呈してしまい、論ある者は不毛なコミュニケーションを切り捨てていけるようになります。

ここで論者にとって重要な点は無粋なコメントによる乖離点の発見になります。原理によって描ききれない「点」が原理制作の初心態度に含まれない場合は単なる読者の無理解ですが、含まれる場合は「論の穴」となり、論者は系の再制作・オートポイエティックな活動が要求され、自己統一を保っていきます。

 

完成された系にとって「災い」とは本来的にあり得ない概念でしかないものです。描けないものの大概は、描く必要がないものであり、系自体を破綻させるようなものではありません。治癒力あるが故に治せることと同様に、死ねるもののみが死ねるのであって、それは外部から来訪するようなものではないのです。その責めは、あくまで自己に潜在する秘匿です。

その秘匿、系の自体・自己性を共有項とすることによって、人類は「災い」を遍在者として描いてきただけのことです。多くのドクトリンが多くの命を奪い殺してきたように、作り直せない系は、いつも無情なのです。

 

2008年8月7日
ayanori [高岡 礼典]
SYLLABUS_2008