芸術性理論研究室:
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01.23.2008

最小強度への憧憬

 

日常の私達が経験域とする場には、さまざまな感覚器官でとらえられ、その類種間を関係付け統合し、「個物/同一体」へと同定可能な静的な対象が多く遍在しています。今、手で握っているマウスや携帯電話、眼差しを送るモニター、身体を包む衣服、そのすべてが「物質(質料)」という範疇へくくられます。よほど偏屈な独我論者でも現れない限り、通常それらを心域へと投げ入れることはありません。また、『生命』を見出し、与えることもありません。なぜならその対象達が自ら自己の行為や形質を再構成するような、自己反省・自己組織化などといった企てを実行する場面に出会うことがないと ─生活空間における時間論上という条件付きで─ 判断されているためです。本来、半固体であるガラスも、有機物である紙も、やがては色・形を変えていくにもかかわらず、私達の認識論理には乗らず、仮に認識されたとしても、なぜかそれらに自律性を描き与えることはありません。常に周界を埋め尽くす静物達を無生化している認識のコードとは一体なんなのでしょうか。古来より現代に至るまで、無数の論が立てられてきた場面に対して、このコラムではそれ自体へと臨む分析態度を保留にして、干渉による「壊/不壊」の区別を挿入しておきたいと思います。

「やがては色・形を変えていく」静物達が日常的に見せる決定的な差異は、それが頑丈に作られた物であろうと、頑強な鉱物であろうと、粉々に壊してしまうことが可能であるという点は否定できない事実として数えられます。「ひとつ」であったものが、「ふたつ」「みっつ」へと分解されていく様は「手で握っている」ものを床へ投げつけるなり、「眼差しを送る」ものへハンマーを打ち付けるなりすれば、容易に観察することができるはずです。大切な点は、ここでの行為が単純な算数原理による可逆記述を受け付けないところにあります。複数化された「ひとつ」は、「ひとつ」であったものであって、「2」でも「3」でもありません。複数概念は対象「1」のメタ的な内部記述を稠密に示唆するのですが、破壊によって現れる「2」や「3」は、「2」や「3」の内包量を含み持つことなく、新しい「1」という強度をいくつも生み出す創造を意味します。散在する破片のひとつひとつを拾い上げ、その感触を手で確かめる時、「1」と「1」の間隙にある関係には積極的な結節性がないことが分かり、それ以前にはなかったボリュームの数々を感じ取ることでしょう。

特殊な例を除いて、決して心域には起こらない分化現象を観察する者が、それを「創発」ではなく「破壊」として描く所以は、現在における過去把持にあります。無生的ではなく、生きた原理として過去を持ち得ているが故に、現れた無数の個物を「ひとつ」へと結びつけ、それらを「破片(部分)」と呼ぶことに成功しています。日常的に誰もが経験しているであろう破壊の観察は、知覚的ではなく、認識的であるため、ひとつの大きな葛藤を生みます。事実を知るための知覚観察ではなく、理解するための認識観察は、述べるまでもなく観察者固有の概念でしかないものです。それが元通りに戻せるものであろうと破片は破片でしかない「ひとつの全体」なのです。理解制作という知識の延長化は、対応性を超えなければならないため、必ず均衡関係が崩れてしまいます。「そこにあるもの」が何であるのか認識するためには「そこにないもの」を創り、原理化し、「そこにないもの」から「そこにあるもの」へと近づかなければならず、私達はそれによらなければ「理解」を孕むことができません。この日常は多くの非対称性のディレンマを残したまま、目を逸らさせているに過ぎないため、同時に多くの違和感を纏いつかせることになります。破壊観察の場合は、不可逆への可逆要求によって、脆弱性についての程度の問題を生み出します。

分化することのない心で、ばらばらに壊れていく現象を描く時、せめて物の弱さを知りたいと思う着眼に気付けるはずです。ガラスと鉄は、どちらも最小のエレメント(原子・分子)による構成体であるにもかかわらず、前者は脆く、後者は強いとされています。ここで経験科学的な硬度説明は、エレメントなき心には無力な響きを奏でるばかりです。始めから「つなぎ合い」なくある心には、破壊の可能性を前提に含意する「つなぎ合い」(の強弱)を知ることができません。

モナドのような最小単位が構造域にあるとして、それらが繋がれ結び合い、ひとつの組織を構成する現象は、破壊によって否定され、前場面までの無理解を決定付けます。いままさに壊れてしまいそうな強度臨界を議題として残したまま、物は立ち去り、記述不可能な差異が虚無として心を覆っていきます。それでも生存が先走っていく私達は置き去りを恐れ、目を潰すように黙殺と忘却を企て、強要されます。もしも、そのような言葉なき理由によって、「弱さ」が劣位へと配置されているのならば、哲学・芸術はそこへ積極的な論を用意・配慮する義務があるでしょう。

 

愛域にある『いとしさ』を確保するために。

 

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