芸術性理論研究室:
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05.28.2007

ボリュームについて

 

屋外へと出て、両腕両足を伸ばし、大地の上にうつ伏せになってみます。ベッドのように狭く不安定なものの上ではなく、なるべくならグラウンドのような広い場所で行なうほうがよいでしょう。仰向けではなく、うつ伏せることによって視覚を奪う点が第一のポイントになります。すると私達は形容し難い浸透感を現象化することが期待できます。芝生やアスファルトではなく、地球を抱くと思ってみるだけで、それまで依拠していた空間概念が拡張的に再構成されていくことでしょう。仰向けは視覚把持によって広がりが無限へと単語化・パッケージングされてしまうので、開放的な運動現象はやがて停滞相へと至りますが、大地抱擁は触覚の特性によって、定義項が不確定であろうと、定義現象が始まるので、『永続』を創り感じることができるはずです。そこに「地球」という単語を置くことによって、終わり・境界の確約があろうと、延長概念に終わりなき内挿運動をプログラムしてしまう心的現象を、ここでは『漠』と呼んでおきます。私達はこの『漠』による誤読によって、日常生活の多くの場面を可能としているのですが、以下にそれを良く知る者の例として『美術家』を挙げたいと思います。

もし美術のディシプリンを受けたことのない方がデッサン室へ入ったなら、白いはずの石膏像がなぜ少しくすんでいるのか怪訝に思うかもしれません。大切な研究材料を無為に汚してしまっては、如何にして「白い石膏像」の絵を描けばよいのかと疑問に思うかもしれません。しかしそれらは徒に汚されているわけではなく、必要に迫られた勤勉な画学生らが舐め回すかのように触れることによって手の平の汚れがうつり込んでしまった結果なのです。アンダーラインと付箋紙と手垢でボロボロになった教科書や参考書と同じように、ここは褒めてあげなければなりません。

見たものを観なおす絵画制作の困難さの説明は、網膜上と認知・認識域との映像の相違を挙げるだけでは不十分です。焦点遷移があろうと視覚与件の超えられない二次元性は様態記述を含み得ようがありません。安易に撮られた写真に質感を見出せない理由はここにあります。描き分けられた同色異質と今まさに体験しているそれとでは、後者のほうが圧倒的に正しく区別できるはずです。体験の最中は触覚的な対象への到達を可能的に確約されいるため、質感読解の予期ができますが、前者の「描き分け」はどこまでも同質の紙・メディアでしかなく、描かれた対象自体の質は不在です。そして当たり前のように思えるこの場面を切実に知る画学生らはそれを少しでも突破するために、石膏像を触り抱きしめるのです。その行為によって視覚把持不可能な質にボリュームの概念的構成を行ない、擬似的な強度の理解を作り出すのです。それは「立体に見える絵」ではなく「触り、握りしめ、抱きしめられる絵」の制作に役立てられることになります。視覚と触覚の統覚場面を経ることによって、筆致ひとつひとつの運び方に大きな変化が出てくることでしょう。

 

物のボリュームという問題は私達に根拠なき予期の重要性を教えてくれます。そしてそれは伝統的な部分・全体の問題を再度思い起させてくれもします。石膏像のボリュームを知ろうとして、それを粉々に砕いてみても、そこには「粉々の石膏」という新たなオブジェが出来上がるだけでしょう。丁度、ダ・ヴィンチが魂や心の在り処を求めて人体を解剖してみても、どこにも見つけ、見出せずに陥ってしまった虚無感と同様のものを、別の目的で追体験してしまうはずです。「全体は部分の総和以上である」という命題は『分解された部分は最早、前全体を指し示さない、もうひとつの全体である』という命題を含意することによって、私達の努力を嘲笑っているかのようです。

『漠』という延長内容についての無根拠な措定活動はその嘲笑を乗り越え、愛する誰かを壊すことなく正しく両腕で抱きしめるために許された大切なミスリードなのです。

 

2007年5月28日
ayanori [高岡 礼典]
2007.春.SYLLABUS