芸術性理論研究室:
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05.15.2008
METAFORCE ICONOCLASM VOLUME.4-1.03
矛盾と完全
 

任意の事件を例題にして法律的に議論しあう場に、メディアやレクチャー等をとおして、たびたび出会うことがあると思います。そこでは一通りの司法力を身に付けたとされる方々が幾人も集い、「法」を頼りにしながら共通判断を導出しようとして眉間に皺をよせあっています。多くの場合、人の数だけの論法と結論の組み合わせがあり、目的追求は集束点なく場の幕だけが閉じてしまいます。ここで法律にご興味のない方には腑に落ちない点が生まれることでしょう。「あの弁護士と、この弁護士は両者とも同じ六法全書を依拠としているにもかかわらず、なぜ答えが違うのだろうか」という疑問です。「あの弁護士」の言葉も「この弁護士」の言葉も、同一の法律を手本としているのならば、問いに対する答えは、論の組み立てから同じものになると思われるかもしれません。しかし事実はそれに反し、ひとつの法には必ず打ち消しあう条文があり、条件による特例があり、決して無矛盾には作られていないので、平行が続いていくことになります。人の手による作品・成文でしかない法は、矛盾・間違いがあるのなら簡単に正せば良いようですが、それは法社会の理論上、禁止されている、否、不可能なことになります。

良くある優等生的な回答として「法は『生きた人の世界』に対する規範・系であるが故に」というものがあります。特殊の連続であるダイナミックな無常を完成された普遍の法で制御できないという前提です。そのため、あえて矛盾を埋め込み、恭順する読み手に整合化を委ね誘発させることにより、スティルである六法全書、一見では閉じている系であるかのような法を擬似的に有生化・へテロドライブするというテクニックです。

もしも法律と呼ばれるものが、多くの民が要求する単線の円環で完全なものであったのならば、法は前景化せず、人の世は作業と化してしまうことでしょう。個人の価値・行為規範が既にある法規範と同義となり、生は向上を忘れたルーティンワークとなって、歴史構成は枯渇の一途を辿るはずです。民衆視点から見た場合、不完全な法は無責任のようですが、政治視点で見てみると、そこに少しの主張が読み取れます。完全支配ではなく、枠のない陶冶性、コンフリクト確保による涵養の外部空間が法システムの延長には潜在しています。矛盾があるがために、民は問題化し、議論の場を設け、自己と平衡しない法を対象化することに成功し、自己構成の契機を得ています。(*)もしかすると、以上のような解釈は、予め設定されている記号系によるプロブレマティックであって、自由度なきものであるかのような批判があるかもしれません。しかしシステムは非選択項・捨象項・含意項の全体記述を不可能としている現在系なので、構造的な枠組み批判は斥けられることになります。「そこ」にあるものを利用して、「そこ」にない『もの』を創るアーティストの芸術性を忘れるわけにはいきません。

法は完全ではないが故に、私達の未完成な生を充足する参照項のひとつとして数えられていきます。法は強度ではなく弱度と呼ぶべき脆弱性を無限に内包していくことによって、次場面の生存を可能にしていくのです。ここには認識の道具として採択すべきアイディアがあります。教科書的なシステム論はパラドクスを動因とした行為可能性の制御系として描くのですが、パラドクスは修正すべき項として捉えて初めて動因になり、ひとつの行為選択は完全否定であるが故に次の行為が可能になると捉え形容しなければ、心的システムには応用しにくいはずです。パラドクス(弱点)に気付き(制作し)、修正し、何かを選び取ることによって、選び取らなかったもの(弱点)に気付き制作していく営為こそが人の生・芸術家の生であり、いかに弱点を制作確保していけるかが、才能を表す指針なのです。そして、これを当研究室では「デザイン力」と呼びます。

 

2008年5月15日
ayanori [高岡 礼典]
SYLLABUS_2008